第2話 俺の幼馴染
二人の運命が変わった日の朝、
いつもと同じように、母親が焼いてくれた厚切りのトーストとベーコンエッグ、生野菜のサラダ、コーンスープという朝食に舌鼓をうっていると、玄関のチャイムが鳴る。
「大翔、
「だろうな」
大翔は一旦食べる手を止めて、玄関の鍵を開ける。扉を薄く開くと、そこに大翔には馴染み深い顔があった。朝一番だが灯の顔は血色がよく、瞳は興奮で大きくなっている。制服と同じく校内指定のローファーを履いた足が、忙しなく動いていた。
「ごちそうされに来た」
「はいよ。今日はパンが上手に作れてて、特に美味いぞ」
大翔の報告を聞いて、灯は喜々として靴を脱ぎ、鞄を玄関に放り出して走っていった。小柄だから足音がバタバタ、ではなくぱたぱた、と子供のように聞こえる。
大翔がダイニングに戻った時には、すでに灯は分厚いトーストにかじりついていた。大翔の母がホームベーカリーで焼いた自家製のふわふわとした食パンを、火力の強いトースターで一気に表面をかりっと焼き上げる。そこにたっぷりとバターを落とせば、噛みしめるほどにバターの塩分と脂味が広がる天国の味わいだ。
灯は「飲んでいる」と評せるくらいの速度でトースト二枚をあっという間に平らげ、大盛りのサラダとベーコンエッグを次いで腹に収める。そして最後に残ったコーンスープを、しみじみと美味そうに飲み干した。
「これ飲むと、もうインスタントは無理だな」
中村家のコーンスープは生クリームをたっぷり使っていて、普通のものより濃厚なのだ。灯の評を聞いて、大翔の母が嬉しそうに笑う。
「いつも美味しそうに食べてくれるから、作りがいがあるわ。二人とも、遅刻しないようにそろそろ出なさいよ」
背中を押されて、大翔たちは外に出る。しつこかった夏の暑気がようやくどこかへ行き、二十度前後の気温の中、風が心地よく吹いていた。同じ黒いブレザーとチェックの下履という制服姿の学生と、時折すれ違う。
そのすれ違った人間たちの視線が、必ず一度は灯に注がれるのを大翔は感じていた。ほとんどが好意的なものだ。親を早く車の事故で亡くした薄幸の美少女、特にガリ勉でもないのに成績上位でスポーツもできる、といった属性に憧れているものだと推測できる。
しかし中には、敵意や嫉妬を含んだものがある。灯の両親は有名な音楽家だったため、親の遺産で遊び暮らしている、美人だといい気になって男を家に引き込んでいる、という根も葉もない言葉を口にする者もいた。一番ひどいものになると、両親を邪魔に思った灯が車に細工をしたという誹謗中傷まであった。
だがそれを聞いても、灯は不満そうにちょっと形の良い眉を上げてみせるだけだ。食ってかかることもないし、喧嘩になったこともない。大翔は幼なじみのそういうところを歯がゆく思うと同時に、尊敬してもいた。
「……なに見てる」
無意識のうちに、大翔も灯を見ていたらしい。怪訝そうな視線を向けられて、大翔は手を振った。
「なんでもない。それより、今日の夕飯はすき焼きだって。来るか?」
「行く!」
灯は食い気味に答えた。飛び跳ねた彼女の髪が跳ねて、近くを通りがかった男子高校生の腕に当たる。
「あ、ごめんなさい」
灯がぼそりと謝ったが、当たった他校の男子高校生は敵意に満ちた視線を向けてくる。大翔はその顔に見覚えがあった。
「あー? 聞こえなかったなあ。ボソボソ喋りやがって、下々民とは口もききたくありませんってか?」
高校生の声が大きいので、周囲の学生たちが怪訝そうにこちらを見てくる。針のムシロのような雰囲気の中、灯は黙って耳の穴を掻いていた。
「どうせ俺のことも覚えてないんだろ、オジョーサマ」
「覚えてる」
「二ヶ月前に灯に『マジでお前とヤリたいんだけど』ってだっせえ告白してきて、秒でふられた情けない男だろ。その間抜けな面は忘れようがないな」
灯がぼそっと言い、大翔がそれに注釈を加えた。
灯は言いがかりをつけられても口数が少ないから、言い返すのは徐々に大翔の役割になりつつある。
大翔が男の正体を暴露すると、周りの生徒から失笑が漏れた。灯に好感を持っていた生徒たちは、あからさまに高校生を指さして笑っている。空気が一変したのを感じ取った高校生は、顔を真っ赤にして立ちつくしていた。
「ほら、どけよ。お前も無駄にサカってないで、勉強でもしてろ」
大翔は手で高校生の体を押しのけ、灯と一緒に交差点を渡る。ようやく人混みから抜けると、灯がほっと小さく息をつく音が聞こえてきた。
「前々から思ってたんだけど……お前ね、あそこまで言われたら言い返せよ。黙って我慢してるのは偉いけど、口だけでも反撃しないとああいうのは図に乗るぞ」
大翔が言うと、灯は澄ましていた顔をわずかに歪めた。
「私はダメなんだ、喧嘩」
「……そうかい。じゃ、なるべく俺と一緒にいろよ。言い返してやるから」
大翔にとって灯は、同級生でもあるが手のかかる妹のような存在でもあった。小柄だから自然と年下のように接してしまうのかもしれないし、両親のいない彼女を守ってやらねばという気持ちもあった。とにかく恋愛感情ではなかったが、親愛の情があるのは確かだったのだ。
「うん」
灯にもその気持ちが伝わっているのか、素直にうなずく。二人で連れ立ったまま教室に入ると、間もなくホームルームが始まった。
担任教師から連絡事項を聞くと解散となり、後は一限が始まるまでしばしダラダラと過ごす。今日もそうなるかと思っていた大翔のもとに、連絡を終えた担任が近付いてきた。
「中村。指定校推薦の候補、お前に決まったぞ」
学校が指定した生徒が受けられる指定校推薦。一定の内申と成績があればほぼ合格すると言われており、受験を回避したい生徒が熱心に志願する枠でもあった。大翔はある私立大学に進学を希望しており、その指定校推薦に申し込んでいたのだ。
「本当ですか? ありがとうございます」
「受験サボりたい奴らと違って、お前はあそこの大学でやりたいことがハッキリしてたからな。その点をしっかり推しておいたぞ」
担任は大翔を見て、嬉しそうに白い歯を見せた。
「ま、ほぼ決まりみたいなもんだが、正式に入学が決まるまで余計なことはするなよ? 酒とか煙草とか」
「しませんって」
苦笑する大翔に手を振って、担任が遠ざかっていく。すると、話を聞いていたらしい灯が近寄ってきた。
「良かったな。お前、経済とか経営を勉強したいんだっけ」
「ああ。将来店を出すためにな。店ができたら、お前にもおごってやるよ」
料理好きの母の影響で、大翔の料理の腕はすでにかなりのものだった。知合いに声をかけられて、調理スタッフとしてアルバイトをしたこともある。それもあって、大翔は将来、生まれ育ったこの町で自分の店を出すことを目標にしていた。
飲食店の経営は厳しいとよく聞くから、最初は経理も大翔がやらなくてはならないだろう。それを見越して、大学在学中に色々資格を取るつもりでいた。
「じゃあ毎日食べに行ってやる」
灯はにやっと笑って、自分の席に戻っていった。灯は昔から大翔の夢を応援してくれていて、否定したことは一度もない。彼女も一緒に喜んでくれているのが分かって、大翔は嬉しかった。
その日は、大翔は興奮して授業があまり手につかなかった。まだ店の形すらはっきりしていないのだが、それでも具体的な一歩があったというのは大きい。休み時間に母親に連絡したら、彼女もかなり喜んでいた。今日のすき焼きにはランクの高い肉が並びそうで、灯が知ったら小躍りするだろうなと大翔は思った。
一日はあっという間に過ぎ、夕方になった。指定校推薦に必要な書類と長い説明書きを受け取った大翔は、灯と一緒に帰路につく。
しかし校門を出て、小さな路地に入ったところで、会いたくない顔に再び出くわした。朝、灯に絡んできた他校の高校生が立っている。しかも彼は、なぜか右腕を包帯でぐるぐる巻きにして、肩から吊っていた。
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