第12章 カナリアはもう鳴かない
明け方、俺のスマホが鳴り響いた。俺は飛び起きて時刻を確認する。──午前4時半。ベッドについてから、まだ1時間しか経ってない。次にスマホの表示を確認する。『樫尾』。
寝起きで頭が回らなかったが、俺は瞬時にムカついた。文句を言ってやろうとキレ気味に通話ボタンをタッチする。敬語も今はフェードアウトだ。
「おい、樫尾!! 今何時だと思ってんの?」
『……すまん。だが、お前には先に言っといた方がいいだろうと、思ってな』
「はぁ? だったら朝、俺が起きてからかけ直してくんない?」
『いいか……落ち着いて聞いてくれ。…ミオが、死んだ』
俺は聞き間違いだろうと思い、もう一度聞き返した。
「え? 何だって?」
『……ミオが死んだんだ』
「は? ……嘘だろ?」
『いや、本当だ。俺はそんな最低な冗談は言わない』
「な、なんで」
『実は、殺されたらしいんだが……俺も詳細はよく分からない。事件のニュースのリンクを送るから、落ち着いたら見てくれ』
『ミオの本名が分からなかったんで確認が遅れたが、写真を見るにあいつに間違いない。双にはショッキングかもしれないから、見る時は覚悟しろよ』
そう言って、樫尾は唐突に電話を切った。
俺は頭が真っ白のまま、樫尾から送られてきたリンクをクリックした。そこには、『千代田区・20歳女子大生殺人』という文字がはっきりと書かれていた。同級生と楽しそうに笑っているプリクラ写真は、俺から見ても間違いなくミオだった。
『6月30日(土)午前6時15分ごろ、千代田区神田須田町のマンションに住む女性から「隣のマンションの駐車場に女性が倒れている」と110番通報があった。通報を受け近くの神田警察署の署員が現場に急行、倒れていた都内の大学2年生、
『美澪さんの死因は紐のようなもので首を絞められたことによる窒息死と見られる。身体の数ヵ所に縄で縛った痕跡が見られるが、体内などに犯人のDNAは残されていない。血中にアルコール反応あり。死亡推定時刻は午前1時ごろと見られる。前日29日夜に美澪さんと会っていた友人の証言から、夜中まで友人と遊んだ後、友人らと別れて自宅マンションに帰る途中に襲われた模様』
『警察は、美澪さんに抵抗の跡がほとんど見られないこと、また彼女の自宅マンション近くでの犯行であることから、顔見知りの犯行と見ている。親しい友人らによると、美澪さんは男性関係でトラブルが多かったとの証言があり、特に「最近交際していた男性と口論が絶えなかった」という。同署は交際トラブルによる殺人事件の可能性が高いとみて、交際相手の男性の身元や所在を調べている』
環美澪。
ミオの本名を、こんな形で知るとは思わなかった。ミレイ、と声を出さずに呟いてみる。やはり、しっくり来なかった。
……交際トラブル。窒息死。
すぐにミオとの最後の会話が思い出された。俺はミオに適当な返事をしたことを、心底後悔した。あんな下らない会話が、最後になるなんて。俺がもう少し、真剣に首絞め彼氏の話を聞いてやれば。
きっとあの彼氏は首絞め欲が高じたか、ミオと仲が悪くなって頭に来たかで、ついにはミオを絞め殺しちまったんだ。それでミオはあっけなく、無惨に死んだ。
俺はラインを開き、ミオのカナリアのスタンプを見つめた。ぽたりとスマホ画面に水滴が落ちて、俺は驚いた。なぜか急に降って沸いてきた喪失感に、俺は抵抗する間もなく押し流された。感情がどんどんパンクして、スマホの画面に水滴が増えていく。呑気な顔のカナリアが滲んだ。
なんでだよ。ミオ。
なんでお前は、ろくでもないやつばかり好きになっちまうんだ。なんで、援交してその金を湯水みたいにブランドバックに使っちまうんだ。なんで、金に目が眩んで詐欺グループの出し子なんてやっちまうんだ。
なんで、俺に助けも求めずに逝っちまったんだよ。
「……なんで、」
涙でふやけた声で、俺は呟いた。カナリアは沈黙だけを俺に返した。
その後、朝まで一睡もできず、俺は寝不足の状態のままよろよろと出勤した。体はまともに動かないわ、頭は痛いわ、胸はぐちゃぐちゃだわで俺のコンディションは最悪だったが、樫尾に気を使われた手前、休むのも癪だった。
いつも通りの形式的な俺の挨拶に、樫尾は硬い声で返事をした。俺がよほど疲れた顔をしていたのか、デスクに着くと、早く来ていた玲サンが心配してきた。
「おはよう。……あら、目が赤いわよ。顔色も悪いし……何かあった?」
俺は泣いていたことを気づかれたかと思い、恥ずかしいような辛いような、気まずい気持ちを抱えた。玲サンに軽々しくミオの死を告げる気にもなれず、俺は目を伏せ、デスクの斜め下辺りを所在なく見つめた。玲サンもミオには好感を持ってたはずだし、ショックを受けるかもしれない。慎重に行動すべきだろう。
「大丈夫っす。ちょっと……寝れなくて」
「あら、そうなの。……安眠には長めのお風呂がいいわよ。もし不眠が続くようなら、お医者様に相談した方がいいわ」
「……ご心配ありがとうございます」
玲サンの言葉を聞いて、この不眠は続くのだろうか、と俺は思った。俺は今までの人生で不眠に陥ったことはあまりない。玲サンに恋わずらいしてた時は、ちょっと不眠気味だったかもしれないが。正直な所を言えば、ミオには悪いが、そこまで続かない気がした。切り替えの早い俺が、ここまで落ち込むこと自体が珍しいんだから。
「……例の件、何か進展あったかしら?昨日の今日だし、まだ早すぎるかしらね」
ミオのことばかり考えていた俺は、ワンテンポ遅れて玲サンの言っていることを理解した。そうか、玲サンは俺のハッキングがうまく行ったか知りたいんだ。全部終わりましたよ、と言いそうになって、慌てて口をつぐむ。
しまった、第四の問題を考えるの、すっかり忘れてた…!!
第四の問題。それは、玲サンが殺人を犯すかもしれない、もしくは玲サンが自首することで詐欺グループに塁が及ぶかもしれない、という問題である。玲サンが山本亜子を殺すつもりなのではないか、という疑念は未だ払拭できていない。……できていないどころか、蕎麦屋のやり取りを思い出すに、濃厚でさえある。玲サンが自首する可能性も、十分にあると言えるだろう。
俺はとっさに作り笑いを浮かべ、
「……ちょっと、まだ時間かかるんで……。すいません」
と濁しておいた。データはPCに保存してあるが、まだ渡せる形にまとめられてはいないし、嘘はついてない。玲サンは少し申し訳なさそうに微笑んで、「謝らなくていいわ」と言った。
「ちょっと私、気が逸りすぎてたわね。いつでも大丈夫だから。お大事に」
そう告げ、玲サンは自分の席へと戻っていった。俺は腹に重しでも入ったような気分で、玲サンの後ろ姿を見送った。俺は困り果てた。この事を誰に相談したらいいのか、俺には見当もつかない。真っ先に思い付くのはミオだが、もちろん不可能だ。ミオが生きていたとしても、相談できたかは微妙だっただろう。樫尾は論外だし、樫尾と知り合いである師匠にも相談しづらい。俺は内心で頭を抱えた。
うだうだしている内に昼近くになり、俺はこのままではいけないと思って席を立った。俺は樫尾が席に残っていることを確認してから、屋上にある喫煙所に向かうことにした。俺は普段タバコを吸うことはないが、今日みたいに寝不足かつイライラしている時には無性にニコチンが恋しくなる。実はこの事務所の屋上には、樫尾のようなニコチン常習者のために品揃えのよいタバコ自販機が設置してあるので、わざわざ買ってこなくても平気だ。
俺は屋上に出ると、ウィンストンという軽めのタバコを1箱買い、1本火をつけると屋上の柵に寄りかかった。見上げると空は全体的に曇っていた。朝方に降っていた雨は止んだようだが、今日はまだ降るかもしれない。俺はふーっと煙を宙に吐き出し、煙が空に溶け込んでいくのを見送った。
この問題は、自分でケリつけるしかないな、と俺は空を睨みながら思った。
おそらく俺の決断によって、1人の人間の生死、もしくは俺の身近な人間の未来が、左右されることになるだろう。俺一人で決めていいことなのか疑問は残るが、だからといって他の人間にこの問題を委ねてしまうのは間違っている気がした。この問題は、他でもない俺が考えて結論を出すべきなのだ。
しかし俺は、らしくなく悩んだ。玲サンのことは確かにとても好きだし、デートしたり、その先に行ったりしたいのは山々なのだが、引き換えに今の生活が危険にさらされるとなれば話は別だ。樫尾にはそれなりの恩があるし(同時に貸しもあるような気がするが)、親父にもまあ、恩は、ある。
キャバクラの一件からだいぶ時間が経ち、俺は1人の男として、親父の事を冷静に考えられるようになっていた。自分の子かよく分からないからといって虐待するのは流石にどうかと思うし、実際俺は深く傷ついた。それでも、俺が20になるまでは何も言わずに、一応は親父ヅラしといてくれたんだから、多少は感謝してやってもいいだろう。さすが俺、オットナ~。
それに、ミオにも恩がある、と考えた所で、もうミオはいないんだったと俺は思い出した。さっきまで覚えてたのに……やっぱりまだ実感がないからだろうか。ミオの能天気な笑顔を思い出して、俺はまた、ぎりっと胸が痛むのを感じた。あの笑顔をもう見られないなんて、まだ信じられない。
告別式とかあんのかな、と俺はぼんやり考えた。あったところで行けないが。俺は葬式に着ていける服なんて持ってないし、ああいうシケた雰囲気は嫌いだ。それに、まだミオを殺した犯人が決まった訳じゃない。告別式にサツがうろついてたりしたら、ややこしい事態に巻き込まれる恐れがあった。
俺は、もしミオに相談したら何て言われるだろうか、と想像してみた。
きっとミオは、俺を止めるはずだ。俺の悩みに驚愕して、「道具屋さん、正気に戻れ~」とかなんとか言ってちょっと怒る。そして俺を、真っ当ではないけれど、少なくとも人殺しとは無関係の世界へと、意気揚々と連れ戻すだろう。
ハァ、と俺は再び煙を吐いた。新品だったタバコがどんどん減っていく。
ミオ、お前のせいだぞ、と俺は思った。お前が止めてくれないから、俺は自ら、炭鉱の奥よりずっと危険な場所に飛び込もうとしている。でも、カナリアはもう鳴かない。俺は自分自身で、進むか引き返すか、決めるしかない。
1箱吸いきるまで、俺は足りない頭で一生懸命考えたが、どうしても結論は出なかった。俺は昼休みの間じゅう、肺をニコチンまみれにしただけだった。
昼休みの終わりが近づき、俺は戻るかと伸びをした。その時、ふと、外から玲サンの声が聞こえたような気がして、俺は何の気なしに外の路地を見下ろした。
次の瞬間、俺の時は止まった。
すぐ近くの路地を、玲サンは歩いていた。そして、一緒に談笑していたのは──サルだった。
どうやら昼食を共にしてきた後のようで、二人は少し親近感を持って互いに接しているように見えた。サルはまんざらでもない笑みを浮かべ、玲サンも楽しげに応じている。
ざぁっと血の引く音がして、ぐらりと視界が揺らぐ。指先の感覚が無くなり、挟んでいたタバコが落ちる。それまで心の中にあったはずの雑多なものを、全てまっ黒に何かが塗り潰す。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
玲サンが俺以外を見ている。俺以外と昼休みを過ごして、俺以外に笑いかけている。サルなんかに笑っている。
玲サンの綺麗な目に、奴の鼻の下を伸ばした間抜け面を見せておくなんてこれ以上1秒も耐えられない。奴の目ん玉を引き裂いて、ぐちゃぐちゃにして、体と一緒に玲サンの目の届かない所に埋めないと。玲サンに、永遠に俺だけが見えるようにしないと。
そのどす黒い何かは、俺が生まれて初めて抱いた、明確な殺意だった。
玲サンはこんな気持ちをずっと抱えていたのか──俺の冷静な部分が、そう呟いた気がした。
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