第6章 本多は律儀にパシられる
目を開けると、外は雨だった。
梅雨の訪れを示すように、空気はかなりの湿気を含み、吸うたびに少しずつ体が重くなるような気がした。
俺は一人暮らしをしているアパートのベッドに、仰向けに寝転んでいた。
スマホを開こうと寝返りを打ってやっと、俺はクソみたいな昨日の事を思い出した。そうだ、スマホはキャバクラのトイレに落としたんだった。
スマホが無いので暇潰しもできない。PCを開く気力も無い。もう昼くらいかもしれないが、それを確かめることすら億劫だ。
今日は土曜日のはずだ。俺は来週のことを思ってため息をついた。仕事に行く気がしない。誰とも会いたくない気分だし、特に樫尾と親父には会いたくなかった。樫尾の事を思い出し、俺はまた嫌な気分になった。
正直、やっちまったという思いと、自分は悪くないという思いが半々くらいある。しかし昨日の行動は短慮に過ぎたと言えるくらいには、俺の理性は戻ってきていた。カッとなるとすぐに手が出ちまう所は俺の悪い所だ。とはいえ親父も同じようなもんなので、今まで多少の事は水に流されてきたが、今回ばかりはそうもいかないだろう。なにしろ同じ詐欺グループの、しかも重要ポジションにいる人間をケガさせたのだ。最悪クビにされて路頭に迷う可能性もある。
俺はなんとかベッドから身体を引き剥がして熱いシャワーを浴び、ジャージに着替えた。そして冷蔵庫から冷えた麦茶を出して、2杯立て続けに飲んだ。二日酔いはだいぶマシになってきたようで、頭の回転は平常通りに戻った。時計を見ると、13時20分。もうとっくに昼を過ぎている。そう自覚すると、胃が空腹を訴え始めた。
俺が冷蔵庫を開け、昼飯のメニューを考えようとしたその時、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「……げ」
俺はインターホンの画面を確認し、そう呟いて舌打ちをした。こいつは、親父の下についてる、名前は確か本多。どうせ親父の命令で来たに決まってる。居留守を使うか悩んだが、どうせこいつは俺が現れるまでアパートに張り込む気だろう。俺は仕方なく応答した。
「……はい」
『こんにちは、道具屋さんですね。本多です。大誠さんからの伝言があるので、開けてください』
「……」
俺は無言で正面玄関口のドアロックを解除した。
『どうも』
俺は少し迷ったが、本多が俺の部屋のある2階まで上がってくる間に、適当なマグに麦茶を注いだ。曲がりなりにも親父が寄越した客だ。一応、ポーズでも礼儀を示しといた方がいいだろう。といっても、俺は風呂上がりで髪も乾いてないジャージ姿のまま、家で水出ししたパックの麦茶をマグカップで出すわけだが。髪を乾かす時間も着替える時間も与えられてないし、俺の部屋にはグラスなんてちゃんとしたものはそもそも無いんだから仕方ない。俺はマグをテレビの向かいにあるローテーブルに置き、来客用クッションの埃をはたいた。
カッとするんじゃねえぞ、道具屋、と俺は自分に言い聞かせた。これ以上何かやったらクビどころか、自分の命が危ない。
コンコンコン、と3回ドアが叩かれ、俺は玄関に出た。本多は強面だがとても律儀な男だ。今日もピシッとしたハイブランドのスーツで決めている。若造の象徴である紺のスーツに白シャツばかり着ている俺とは違う。
「こんにちは。お休み中失礼します」
「……お疲れ様です。ご足労どうも。中にどうぞ」
本多はしかし、中には上がってこなかった。
「すぐ終わるので、ここで大丈夫です。早速ですが、大誠さんからの伝言です」
本多は戸口の所でスマホを開き、さっさと伝言を読み上げ始めた。俺は少し身構えた。
「『樫尾惣一に傷害を負わせた件で、形代双は、罰として2週間の謹慎とする。その間、形代双は、樫尾惣一の入院中の世話を申し付ける。騒動を起こした店に対しては、形代双の給料から賠償金を天引きし、支払いを行う』」
「以上です。あと、これ」
本多は、まるで証拠品か何かのようにジップロックに入った俺のスマホを俺に手渡した。俺が床に叩きつけたせいか、画面がひび割れている。
「そのスマホに、樫尾さんが入院してる病院の住所を送ります。とりあえず今から、道具屋さんは私と一緒にそちらに向かってもらいたいんですが、大丈夫ですか?」
「髪ぐらい、乾かしてから行きたいんですけど。あと、飯もまだで」
「乾かしてもらって構いませんよ。その間に、私がコンビニで何か買ってきます。何がいいですか」
「分かりました。じゃあ……中華丼で。無かったらなんでもいいんで」
「了解しました。何かあったら電話します」
俺に食べたいものをきっちり聞いてからコンビニへ昼食を買いに行く本多は、やっぱり律儀な奴だなと俺は思った。俺は部屋に引っ込み、髪を乾かし、一応紺のスーツを着ることにした。身支度を整えながら、俺はあてもなく考えを巡らした。
2週間の謹慎。これはまあ、今までのオイタと比べれば重めの処分と言える。とはいえ、驚くほどの処分ではない。
むしろ俺がちょっと驚いたのは、親父が俺を直接怒鳴りに来なかったことだ。今までだったら、親父は俺をこっぴどく叱り、ビンタの一発や二発はもらった所だ。ところが今回は本多を寄越し、感情を排した伝言を伝えるに留まった。これにはどういう意味があるんだろうか。
考えられるとすれば、まず一つは、俺が20歳になったから、ということである。今までの親父の態度はいわゆる「教育的指導」であり、20歳を過ぎた俺に対しては、もう義務は果たしたと言わんばかりに事務的な処分を下した、ということなのかもしれない。
もう一つ考えられるのは、親父は俺に会いたくなかったから、ということである。今回の件は、親父の電話が引き金だったことは親父も認識しているはずだ。俺にペラペラ喋ったせいで樫尾が殴られたことを、親父なりに後悔し、気まずく思っているのかもしれない。
ただ結局はどっちも推測でしかない。まあ、理由はともかく、親父と顔を合わせずに済んだのは俺にとっては僥倖だ。しかし、樫尾とは顔を合わせざるを得ないらしい。どうやら入院しているらしい樫尾に(俺が殴った)アゴでこき使われるのは癪に障るが、まあ仕方ないなと俺は思った。自分で蒔いた種だ。
俺は本多が注文通り買ってきた中華丼を食べ、本多が飲まなかった麦茶を中華丼と一緒に消費した。本多は俺が食べ終わるまで、駐車場に停めた車で待機した。
俺が中華丼を食べ終えると、時刻は14時を回っていた。本多はスマホでゲームをしていたようだが、俺が近づくとスマホをしまってドアを開け、俺を案内した。
俺は本多の運転するレクサスのセダンに乗り、樫尾の入院する病院へと向かった。本多はどちらかというと無口な男なので、道中はあまり喋らなかった。俺は一応、本多に聞いてみた。
「あのぉ……親父、怒ってました?」
本多は「いえ」と答えた。
「怒っている、という風ではなかったですね」
そこで本多は、少し思案するような表情をした。
「……そうですね、あの人にしては珍しく、狼狽しているように見えました」
その後はたいした会話もなく病院に着き、俺は本多に樫尾の病室の前まで見送られた。俺は深呼吸をして、個室の扉を引いた。病室では、樫尾が怒りをあらわに待っていた。樫尾は顎が固定されていて喋りにくそうだったが、それでも精一杯の怒鳴り声を出した。
「双!!」
「お前なあ、あの店、俺の大のお気に入りだったんだぞ!! 出禁にされたじゃないか。どう責任取ってくれるんだ」
「……」
「しかも顎の骨にヒビが入って、全治2週間だぞ、2週間!! おい、なんとか言ったらどうなんだ」
「……」
俺は何も言いたくなくて、黙ったまま病室の中には入らず、入口に突っ立っていた。ただ、一つ分かったことがあった。全治2週間か。だから、謹慎も2週間だったんだな。
「お前ももうハタチ過ぎてるんだから、ケジメってのは自分でつけないとダメだ。大誠さんが結局はお前には甘いからって、いつまでも甘えてたら──」
「本当なんだろ」
「あ?」
「俺の母ちゃんが、樫尾さんとも、ヤってたって話」
「……!」
樫尾は予想外の俺の発言に驚き、金魚のようにパクパクと口を小さく開け閉めした。
「お前──誰から、それを──」
「親父だよ。あ、あと、母ちゃんの手紙」
「……」
今度は樫尾が黙り込む番だった。樫尾は複雑な顔をした。
「……そうか。それで、お前は」
「……」
「……そうだったのか」
樫尾はしばらく何かを考えているようで、何も言わなくなった。俺は沈黙に耐えきれずにハーッ、とため息をつき、樫尾に言った。
「殴って悪かった。ごめん」
「……いや。俺こそ、なんと言うか……すまん」
「……謝んな。謝られても、納得できないから」
樫尾は手元に目を落とし、背中を丸めた。どうやら珍しく落ち込んでいるようだ。もう少し虐めてやってもいいのだが、落ち込んだ樫尾の姿は思いの外小さく見えたので、俺は仕方なく言った。敬語はあえて、使わずに。
「代わりに、母ちゃんのこと、教えろよ」
樫尾は、気持ち視線を上げ、まるで有罪判決を受けた犯人さながらの深刻さで息を吐き、答えた。
「分かった」
俺は、病室の中に足を踏み入れた。
それから、俺は樫尾の世話をしながら、樫尾から母ちゃんについての話を聞いた。樫尾から見えていた母ちゃんは、単なる尻軽、で片付けられる女ではなかったらしい。
「ミノリさんは、何て言うんだろうな、不思議な引力を持った人だったな」
「引力?」
「どんな人も自分のペースに、うまく入れてしまうというか……、気づいたら巻き込まれて、取り返しがつかなくなっているというか」
「樫尾さんも、取り返しがつかなくなったわけ?」
樫尾はばつが悪そうに身を捩った。
「……まあ、そういう所はあるな。ミノリさんは明るく見えるのに、どこか破滅的な人間だった。自分自身も、周りのことも巻き込んで、ミノリさんの内側にはびこる虚無をどうにか埋めようとしているような感じがした」
「虚無を、埋める?」
「そうだ。ミノリさんの内側には、虚無があった。俺は時々、それを感じることがあった。しかも時を経るにつれ、その虚無はだんだん大きくなって、ミノリさん自身の人格を侵食していた。お前を産むずいぶん前から、ミノリさんは内的に死にかけていたんじゃないかと、俺は思う」
ずいぶん詩的な表現だなと、俺はこっそり思った。でも、樫尾の評価はおおむね俺のイメージと合っていた。母親の遺した詩には、そうした虚無の片鱗がいくつも垣間見えていた。自分自身がブラックホールか何かに飲み込まれていくような、そんな感じ。
そしてそれは、俺自身も感じたことのあるものだった。昔から、俺は自分の中にある、空っぽの部分に気がついていた。そして、それが何によっても満たされないことも。
そうして、俺は日中は樫尾の世話をし、夜は自分のアパートで過ごした。樫尾の経過は順調で、数日過ぎると固形物も食べられるようになった。
一週間ほどが経った次の金曜日の夜、俺のスマホが鳴った。かけてきたのはミオだった。
「もしもし」
『ちょっと、ライン見てよ!! ずっと既読つかないから、電話したんだけど。あと、今週来なかったけど、どしたの? 樫尾も、来ないんですけど』
「あー、すまん、その……ちょっと今、謹慎中で」
『ありゃ、また何かやらかした? 道具屋さん、相変わらず喧嘩っ早いね』
「……ん、まあ」
『当てよっか。樫尾さんと、キャバで女の子の取り合いになってー、殴り合いの喧嘩になった、とか?』
「100点満点で、5点くらいだな」
『えーっ』
ミオのむくれた顔が浮かぶ。こいつは喧嘩の理由を何でも痴情の縺れにしたがる。どうやら、キャバで樫尾と俺に何かがあったことは知れわたっているようだ。俺は玲サンには伝わっていませんようにと密かに天に祈った。
「それで、用は?」
「あっそうだ、玲サンについてなんだけど」
俺は玲サンへのリサーチをミオに頼んでいたことをようやく思い出した。色々あったから忘れる所だった。
「玲サン、道具屋さんとデートしてくれるって」
「……は!?」
「だーかーら、デート!! 食事してもいいって言ってたから、今週の日曜にセッティングしといたんだ。玲サンはお酒、特にワインが好きらしいから、ワインの種類が多くてテラスのあるビストロを取っといたから。場所後で送るわ。19時集合ね」
「……」
俺は急すぎる展開に頭がついて行かず、無言で情報を整理した。
玲サンが、俺とデート。しかも、今週の日曜って…
「明後日!?」
『そう』
「いやいやいや急すぎるだろ。なんでもっと早く言わないんだよ」
『ライン見なかった誰かさんが悪いんでしょ』
『道具屋さんがやらかして謹慎になってる間、私はせっせと情報集めてたんだからね。デートの約束まで取り付けたことを感謝してくれてもバチは当たらないと思うけど?』
ぐうの音も出ない。確かにこの一週間、ラインを開いてすらいなかった。俺は無能な過去の俺を呪った。
「……また奢るわ」
『んじゃ、来週あたりお願い~。デートうまく行ったら、成功報酬としてプラス1食ね』
「あっミオ、ずりぃぞ」
『そんくらい、いいでしょ~。じゃあプラス1食の店選びはそっちの懐具合に合わせるからぁ』
「はあ……分かった、分かった」
『よし。そしたら一つ耳寄りな情報を教えたげる。玲サンは年下と付き合ったことは無いけど、別に年下がダメってことはないって』
「なら、チャンスはあるか」
『あると思う。道具屋さん、がんば~』
「あざ」
俺は通話を切った。ラインを開くと、ミオからの通知が山になっている。俺からの既読がつかないことにイラついたミオは、途中からスタ爆に切り替えたようで、履歴は怒ったカナリアの絵のスタンプで埋まっていた。なぜカナリア。好きなんだろうか。
まったく、ミオは危機管理がなってない、と俺は独り言を呟いた。この業界では、メッセージのやり取りは「テレグラム」という履歴の残らないメッセージアプリを使うのが少し前からの主流だ。しかしミオは、業務連絡はさすがにテレグラムを使うが、それ以外のプライベートな連絡にはラインを使うことが多い。既に2年はやってるんだから、もう少し犯罪者らしくすればいいのに、と俺は思った。ミオの意識では、割りのいいバイトに過ぎないのだから、どうしようもないのかもしれないが。
他には、意外にもキョウカから気遣わしげなメッセージが来ていた。そういや、ライン交換したっけ。
『突然の事でびっくり仰天したわ。何があったん?』
『樫尾さんの具合はどない?樫尾さんには、よろしゅう言うといてな。形代さんと同じく出禁になりはったようやけど、樫尾さんは上客やから、そのうち解除されると思うで』
俺は少しホッとした。樫尾がキャバクラを出禁になってしまったことには少なからず責任を感じていたのだ。明日病院に行ったら樫尾に教えてやろうと、俺は思った。俺はキョウカに了解と返信し、ラインを閉じた。
俺は次に天気予報アプリを開いて明後日の天気を確認し、深呼吸をすると、意を決して検索エンジンにこう打ち込んだ。
『デート 服装 本命 年上女性』
俺はハヤブサのようなスピードで検索結果を精査し、目についたページをクリックする。そのまま文章を目で追う。
『年上女性とのデートならこの服装で間違いなし!』
『シンプルな、清潔感のある服装を心がけましょう☆』
『ブランドよりも、サイズ感や素材を重視!』
『カジュアルなトレンドを取り入れると若さをアピールできます』
俺はそれらの文章をしっかりと心の奥深くに刻みこむと、散らかったクローゼットをひっくり返す作業に移った。
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