第5章 俺の名前の本当のイミ

 金曜、俺は上機嫌の樫尾に連れられて、六本木のキャバクラにやってきた。そう、キャバクラである。


 俺は内心頭を抱えた。……やっぱりか。嫌な予感はしていた。樫尾が詐欺グループ内の奴や、親父と同じ組の暴力団員と、六本木の高級キャバクラによく行っていることは周知の事実である。


 店を指定しとけば良かった……と俺は後悔したが、後の祭りだ。


「双、ここでは俺たちは普通の『お客さん』だからな。間違っても俺たちの仕事、バラすなよ。俺は不動産管理会社の事務やってることになってるから。お前はソコの新人」


 設定までしっかり与えられた。不動産管理会社?そうか、樫尾は借金滞納者の所、回ったりしてるもんな。不動産管理会社の職員が家賃滞納者の部屋を巡るようなもんか。一緒にしたら失礼な気もするけど。


 一人納得していると、知らないうちに俺はキャバクラ内に入ってしまったようだった。きらびやかな照明が目に眩しい。


「ご指名はありますか?」


 ボーイに聞かれ、俺はあわてふためく。樫尾がすかさず助け舟を出した。


「あ、こいつは俺の後輩で、キャバは初めてなんだ」


「かしこまりました、ご新規様ですね。好みのタイプなどありましたら、言ってもらっても大丈夫ですよ」


 好みのタイプ……?俺は必死に、直近に付き合っていた女の特徴を思い浮かべた。下手に玲サンのことを考えて話したりしたら、樫尾に感づかれるかもしれない。


「えっと……背が低めで、胸が大きい子で」


 我ながら何を言ってるんだろうか。めちゃくちゃ恥ずかしい。樫尾がニヤニヤしていて、ついひっぱたきたくなった。ボーイは丁寧に「かしこまりました」と言った。


「俺はシオリちゃんがいいな。今日いる?」


「居るんですけど、今はお客さんと話してるんで…後で行かせますね」


「そしたら、後で指名するわ」


 樫尾には目当ての子がいるようだ。俺がソワソワと挙動不審にしていると、樫尾に小突かれた。


「緊張すんな。ここは『セクキャバ』じゃないから、女の子には触るなよ」


「セクキャバ?」


「セクキャバってのはお触りOKのところだ。場所によってはキスもOKなところもある。まあ、そういう所に行きたかったら自分で行くんだな。俺はセクキャバ行くくらいなら風俗行くから」


「行きません」


 こういう所に妙に詳しいのがまた、気持ち悪い。


 ボーイからも簡単に説明を受け、俺は大体の所を了解した。20歳になったからといってキャバクラに入ろうという発想は俺には(少し前まで彼女がいたこともあり)無かったのだが、こうしてキャバクラに来てみれば、まあ面白そうな所ではある。


 でも今の俺の心には、玲サンがいるのだ。しかも隣には俺がガキの頃をよく知ってる樫尾。こんな状況じゃなきゃ、まだ楽しめたのに。


 ボーイに席に案内され、少しすると、俺のリクエスト通りの体つきをした、若干ぽっちゃり寄りの女が俺たちの席にやってきた。ぽっちゃり女はもう一人、女優にでもいそうなくらいの見た目をした、艶のある美人を連れていた。


「こんばんは~☆サクラで~す」


 ぽっちゃり女は手を振りながらそう言うと、俺の隣に座った。胸の開いたタイトなドレスを着ていて、谷間がガッツリ見える。俺はなるべく胸を凝視しないように注意した。


 美人の女は「キョウカです。よろしゅうお願いします」とシンプルに自己紹介し、樫尾の隣に座って脚を組んだ。深いスリットのロングドレスから見える生足が眩しい。


 俺たちもキャバ嬢たちにならい、設定通りに自己紹介した。


「都内で不動産管理会社の事務やってる、樫尾です。よろしく」


「樫尾さんと同じ会社の新人の、形代です」


「2人とも、同じ会社なんだ~。よろしくね」


「樫尾さんにはご贔屓にしてもろとるからよう知っとるけど、形代さんは初めて会うたなあ」


 サクラが完全に標準語なのに対し、キョウカは関西弁だ。京都らへんの人かな? 俺はあまり関西弁の種類については詳しくないが、上品な感じがしたので勝手にそう思った。


 ウェルカムドリンクで乾杯し、しばらくはちびちびやりながら他愛もない話をした。樫尾が、形代はキャバクラは初めてなんだと教えると、二人は嬉しそうに俺を歓待した。


「初めてに選んでもらえるなんて、光栄です~!!」


「これからもよろしゅう頼みますわ」


 俺は両側から笑顔の女たちに腕を絡め取られ、なんとも言えない気分になった。樫尾は「景気祝いだ」とボトルを入れ、女たちは手を叩いて喜んだ。サクラが酒を注いでいる間に、キョウカは俺に話を振ってきた。


「形代さんは、樫尾さんとは最近知り合うたん?」


「あっいや……昔馴染みっていうか。会社に入る前から、知り合いみたいなもんで」


 俺はボロを出さず、かといって全くの嘘にもならないよう、慎重に答えた。つい最近知り合ったと根も葉もない嘘をつけば、後々話していくにつれ苦しくなってくるだろう。


「そうなんね。樫尾さん、会社ではちゃんとやっとる?いつもウチに来ては、愚痴ばっか言うてはるで」


「止してよキョウカちゃん。それはこいつには言わない約束だって」


 樫尾が慌てて口を挟む。俺は乾いた笑いを漏らした。サクラが酒を注ぎ終わり、くりくりとした瞳を輝かせて話に入ってきた。


「形代さんは、カノジョいるの~?」


「えっと、今はいないです」


「何だ、ソウ。ミオは彼女じゃないのか」


「違いますよ!! あいつは単なる同僚ですって。あいつが、周囲が勘違いするような言動を、勝手に取ってるだけです」


「またまた~、その子に気があるんじゃないのぉ」


 サクラと、調子に乗った樫尾に突っつかれながら、俺は覚えきれないほど長いカタカナの名前が付けられた発泡酒を一口飲む。渋谷にいる派手派手しいファッションの女のような、どぎつい味がした。


 そうして俺が樫尾や嬢たちとしばらく押し問答していると、ひときわ甲高い声が響いた。


「樫尾さん、お待たせ~」


「おっ、シオリちゃん。来てくれたのか」


 見ると、樫尾のお気に入りらしい「シオリ」というキャバ嬢が俺らの席にやって来たようだ。くびれの強調された黒いゴスロリドレスを着ている。


 俺はその顔を見て、なんとなく既視感を覚えた。あれ、何だ?


 シオリも不思議そうにこっちを見る。次の瞬間、シオリはスマホを取り出すと、幅を取っているサクラを小さな尻で押し退けて俺の隣に座り、テンションの高い声を出した。


「ヤバ!! ウチらなんか似てね? ウケる。写真撮ろ!!」


 そうか、と俺は思った。どことなく、俺自身に似てるんだ。まあ俺はけっこう中性的な顔立ちなので、そういう女がこの世のどこかにいてもそこまで不思議ではないが、ちょっと驚いた。シオリはパシャパシャと何枚か写真を撮ると、楽しそうに俺に写真を見せつけた。


「ほらぁ~、似てる。まさか、生き別れの兄妹だったりする?」


「なわけないって」


 さっさと否定したが、確かに、写真で見るとより分かりやすい。そっくりという程ではないが、目元や髪質なんかは特に似ている。


「樫尾さん……シュミ悪いっすね」


 俺が樫尾に向かって軽口を叩くと、樫尾は笑う途中で固まったような、ぎこちない表情をしていた。シオリは俺にいくつか質問をしてきたので、俺は樫尾に教えられた設定を再度話した。シオリは俺の言葉をすんなり信じたようで、「そうなんだ。初キャバおめでと~」と乾杯してきた。


「こらこら、俺の事もちっとは構えよ」


 樫尾はしびれを切らしたように、シオリの腰を抱き寄せた。いつの間にか、樫尾はシオリの隣に移動してきたようだ。シオリは「ゴメンゴメン」としなを作ってにっこりと樫尾に笑いかけた。俺と似た女と絡み合う樫尾。なんだか複雑な気分になる。もしかしたら、妹や姉がいたとして、親戚のおじさんと絡み合っているのを見てしまった時、あるいは似たような気分になるのかもしれない。何かが決定的に違うような気もするが。


 俺との類似点を差っ引いた上で改めて見ると、シオリはまさに『地雷系』という言葉が似合いそうな、可愛いけど危なっかしそうな感じの子だった。樫尾はこういう女が好みなのか。わりと意外だった。


 樫尾はシオリを指名すると、上機嫌になって幾つか酒を頼み、俺とシオリたちも遠慮なくご相伴に預かった。俺は樫尾から解放されて俺の隣に回ってきたキョウカと話が合い、場内指名をして30分くらい一緒に酒を飲んだ。サクラは次の客の所へと移っていった。


 そんなこんなで、俺はついついキャバクラの雰囲気に流されそうになっていたが、ようやく樫尾を誘った本来の目的を思い出した。玲サンについて聞くことだ。俺は樫尾に呼びかけ、こないだ気になったことを単刀直入に切り出した。


「そうだ、樫尾さん。玲サンの言ってた『山本亜子』のこと、何か知ってるんですか」


 そう言うと、樫尾はクソ苦いものを口に突っ込まれたような顔をした。そして、「ちょっとだけ、あっち行っててくれ」とシオリとキョウカを手早く追い払うと、タバコに火を付けた。嬢たちは不服そうな表情をしたが、樫尾に従い、席から離れていった。


「お前、砂川さんに何か聞いたのか?」


「いや……特には」


「そうか。……それでいい。『山本亜子』には関わらない方がいい。特に砂川玲さんの前では、その名を口に出すんじゃねえぞ」


「な、なんでですか?」


「多分だが、砂川さんにとって、『山本亜子』は地雷ワードだからだ」


 俺は納得がいかず、樫尾の目を不満げに見つめた。


「理由を聞きたいですね」


 樫尾はため息をつくと、指を1本立ててこっちに付き出した。


「んじゃ、1件分タダ働きしてもらおうかな」


 またか。なんでこの界隈の人間は情報に対価を要求してくるのだろう。職業柄なのか?


「はあ……。しょーがないですね」


「んん? やけに素直だな。双らしくもない」


「…別に、気になったことはほっとけない性格なだけですよ」


「そうか?」


 危ない。こういうところが、樫尾は鋭いのだ。


「……玲さん、夫さんと息子さんを亡くしてることは聞いたか?」


 俺はあえて初耳のフリをすることにした。


「いいえ。そうなんですか」


「そうなんだよ。俺もそんなに詳しくはないんだが、結婚してわりとすぐに、彼女の夫はなんらかの事件に巻き込まれて死んだらしい。その後、玲さんは前の詐欺グループで架け子として働きつつ、女手ひとつで一人息子を成人になるまで育てあげた。その、目に入れても痛くない大切な息子さんが、一年と少し前に突然死んだんだ」


 樫尾はそこで言葉を切り、フーッと気だるげに煙を吐いた。


「どうやらその原因に、山本亜子は関わっているらしい」


「えっ?」


「どういういきさつかは俺も知らん。だが、あの女ならやりかねん。俺は昔ちょっと関わりがあったんだがな、山本亜子は、とにかくとんでもない女だ。あいつが気に食わないってだけで、対象にされた奴だけじゃなく、その周囲までぶっ潰してくる。あいつはヤバい」


「あいつは今、俺らとは商売敵に当たる組の傘下で詐欺グループのリーダーをやってるらしいが、あんな恐怖政治の下につく奴らに同情するね」


「そんなヤバいんですか?」


「俺が聞いた話では、サツに狙われて足がつきそうになった同僚を、自殺に見せかけて殺したらしい。噂程度で、証拠は無いけどな。あいつは絶対、やったことの証拠は残さないらしいから」


 こっわ……。とんだ厄ネタだ。じゃあ、玲サンが山本亜子のことを知りたがってるのは、どうしてなんだろう。俺が聞くと、樫尾は答えた。


「山本亜子に対しての恨みでも、晴らそうとしてんじゃないか? 息子さんが死んだすぐ後に、玲さんは以前勤めてたグループを辞めたそうだ。その後しばらく音沙汰が無かったかと思えば、今度は以前勤めてたグループの商売敵である俺らの所に来たんだから。腹に一物あるのは間違いないだろうな」


「まあ、俺には関係無いけどな。山本亜子とはまれに仕事の繋がりはあったりするが、そんな親しくもないし、別にどうなろうと知ったこっちゃない」


 無味乾燥とした言い方だ。樫尾はどうあっても、山本亜子とは関わりたくないらしい。


「まったく、厄介な事になったもんだ……砂川さんの気持ちも分からんでもないが、俺らを巻き込むようだったら俺は容赦しないからな」


 樫尾はぶつくさとそう呟いた。そして、さらりと俺に言った。


「お前も、職場恋愛はほどほどにしとけよ」


 俺は思わずグラスを取り落としかけたが、なんとかこらえた。


「なっなっなんのことだか……」


「とぼけんな、あんだけ見まくってたら誰でも気づくわ。砂川さんにお熱、なんだろ?」


 バレてた……。やばい。言い訳も通じなそうだ。


「職場恋愛をするなとは言わん。ただ節度を持って欲しいだけだ。事務所内ではちゃんと仕事に集中しろよ。あと、砂川さんが何を言おうと、山本亜子には関わるなよ」


「……ハイ……」


 俺はただうなだれた。樫尾には敵わなかったよ、ミオ。


「それにしても、お前も大きくなったな。もうハタチ過ぎたんだもんなあ」


 樫尾がイヤに生暖かい視線を俺に向けてくる。


「大きくなっても、母親似だな、お前は」


 俺は驚いて樫尾を見た。


「樫尾さん、俺の母ちゃんのこと知ってんの?」


「あれ、言ってなかったっけか。お前の親父さんの大誠さんと同じく、母親のミノリさんとも結構長い付き合いだったんだぞ」


「そうだったんだ……」


「懐かしいなあ、ミノリさん。詩を書くのが好きで、明るいひとだったよな」


「へー。」


 適当に返事をしたが、本当は、俺はその事をよく知っていた。母親が遺した一冊のノートを、俺は持っていたからだ。そこには母親が綴った詩がびっしりとしたためられていた。小さい頃の俺は、親父の暴力から逃げるように、そのノートを繰り返し繰り返し、擦りきれるまで読んだ。今でも大体は暗唱できる。でも、このことは何となく知られたくなかったので、誰にも言ってない。恐らく、親父すら知らないだろう。


 樫尾はふと、「そうだ」と言い出した。


「そう言えば、お前に渡さないといけないものがあるんだ。忘れるとこだった」


「何すか、遅めの誕生日プレゼントっすか」


「イヤそんな洒落たもんじゃないんだけどな」


 樫尾はごそごそと鞄を探り、ファンシーな柄の封筒を一枚取り出した。


「実は、お前の母さんが死ぬ前に、お前がハタチになったら渡してくれってコレを頼まれてたんだわ。結構遅くなっちまって、すまない」


「本当っすか?」


 俺は少々困惑した。でも、ガキ臭いが少しだけ嬉しい気持ちもあった。母親からの、俺への手紙なんて初めて貰う。


「ここで開けてもいいですか?」


「いや、家に帰ってからの方がいいだろう。落ち着いて読んであげてくれ。俺も内容は知らんけど」


「分かりました」


 俺は封筒を自分の鞄にしまった。樫尾はボーイに言って手持ちぶさたになっていた嬢たちを呼び戻し、また飲み始めた。


 その時、俺のスマホが鳴った。表示は『形代大誠』……うわ、親父からだ。俺は自分の顔が強張るのを感じたが、「ちょっと、トイレ」と言って席を立った。樫尾は片手を上げて了解した。


 俺は店の中にある豪奢な内装の男子トイレに入ると、通話ボタンをタップした。


「……何だよ、今出先なんだよ。ややこしい話なら後にしてくれよ」


『……そうか。いや、最近こっちに顔出して来ねえから、気になっただけだ』


 確かに、今の詐欺グループに落ち着いてから、親父とは疎遠になった。ずいぶん前から親父とは別居してるし、組の方に顔出しするのは樫尾とか、他の管理職の奴の仕事だから、俺は親父と関わらないで済んでいたのだ。正直、それで助かっていた所もある。親父の愚痴を聞くのも、ちょっとしたことで不意に怒鳴られるのも、うんざりだ。


「あー、そうだな。またその内、行くから。俺も忙しいから、そうしょっちゅうは行けねえよ」


『お前、今、樫尾と遊び行ってんだろ。他の奴から聞いたぞ』


「チッ、樫尾のやつ、口が軽いんだから……。あーもう、分かったよ…来週には、行くから。それでいいだろ?」


『分かった。ちゃんと来いよ。……お前、樫尾のやつに、何か言われたりしたか?』


「は? 何をだよ」


『言われてないなら、まあいい。せいぜい、樫尾には気をつけろよ』


「気をつけろって……、どういうことだよ」


『……、』


 躊躇のようなものが、電話の向こうの親父から感じられた。それは非常に珍しいことだったので、俺はつい聞いてしまった。


「なんだよ、言えよ。気になるだろ」


 親父は少し間を置いてから言った。


『……お前は、ミノリに瓜二つだ。だから、樫尾はお前を襲うかもしれん』


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「……は、?」


 親父は、話し始めると止まらないようで、吐き捨てるように言葉を続けた。


『お前が母親のミノリのことをどう思ってるかは知らんが、あいつは最低の尻軽女だった』


『お前だって、本当に俺の子かなんて分かんねえんだ。当のミノリですら、分からなかったんだからな。それでも育ててやったんだから、感謝しろよ』


『本当は、樫尾がお前の親父かもしれねえ。お前でもその意味くらいわかんだろ?』


『お前の双って名前にはな、本当はもう1個、意味があったんだ。二人父親がいるって意味だ。お前の兄の名前はほぼ同じ意味の、「タイ」になる予定だった』


『対は形代大誠の「タイ」、双は樫尾惣一の「ソウ」とかけやがったんだ。本っ当に悪趣味な女だろ』


『結局、お前の兄はあの世に行っちまったから、惣一の名前を継いだお前だけが残った。まあ、どうでもいい事だけどな。せいぜいよく働──』


 ガシャン。


 俺はスマホを床に叩きつけた。カラカラと大理石の床を滑ったスマホは、トイレの壁に当たって止まった。通話は勝手に切れた。


「ハッ、ハッ、ハッ」


 息が速くなる。


 ずっと俺に厳しく当たってきた親父。俺を利用することしか考えてなくて、愛情の一欠片もかけてこなかった親父。すぐに暴力を振るい、暴言を吐きかけてくる親父。俺の名前を呼ばず、「お前」と呼ぶ親父。


 昔からずっと、何かと俺を気にかけてきた樫尾。時々、イヤに生暖かい目で、俺を見てくる樫尾。いくら止めろと言っても、俺を「双」と呼ぶ樫尾。俺によく似た女を、抱き寄せる樫尾。


 体が言うことを聞かない。腹の底から、何に対してかも分からない憤怒が沸き上がる。視界が赤い。真っ赤だ。


 すぐさま樫尾の所に戻る。俺は「どうした?」と暢気に聞いてきた樫尾の顎を、何も言わずに下から思い切りぶん殴った。樫尾はもんどりうってソファの後ろまでひっくり返り、気を失った。周りの女たちは突然の出来事にキャーッと黄色い声を上げた。


 俺は自分の鞄を引ったくるとそのまま走り出した。その時の俺にとっては、スマホがトイレに落ちたままなことも、父親の言ったことが本当なのかも、したたかに殴った樫尾がまだ生きてるかどうかも、何もかもがどうでもよかった。


 くそったれ。


 この世の大人なんて、全員が糞野郎だ。それに今の今まで気づかなかったことに心底嫌気がさした。


 結構酔っていたのに全力疾走したせいで、吐き気が込み上げた。俺は道路の脇にあった植え込みに吐き、息を切らしながら近くにあった公園のベンチに座り込んだ。


 そこで、俺は鞄の中にある封筒のことを思い出した。思い出したことで輪をかけて最悪の気分になったが、俺は封筒を鞄から取り出し、乱暴に封を破いた。中からはパステルカラーの便箋が一枚、はらりと落ちてきた。俺は、詩のノートと全く同じ読みにくい文字を、目で辿った。



 ”

 私のベイビーちゃんたちへ☆


 ハロー!!可愛い私のベイビーちゃんたち。元気にしてる?20歳、おめでとう!!


 もし生まれた時に同じ顔なら、20歳になっても、2人は顔、似てるのかな?それとも、双子だけどあんまり、似てなかったりする?そろそろ、答え合わせができるかも( ≧∀≦)v


 実は、ベイビーちゃんたちはお父さんが誰なのか、私にも分からなかったんだ!!ホント、同時期だったからネ。何が同時期かってのは、今なら2人にも分かるかな(* ´艸`)ウフフ


 私はね、もしかしたら、片方ずつ父親が違ったりするんじゃないかって、思ってるの。お医者さんが言ってたんだけど、双子でも卵子が別々?なことは、あるらしいんだ。対が大誠さんの息子で、双が惣一さんの息子だったら、イイな!!そしたら名前の音を同じにした甲斐があるもんネ!!もし逆だったら、ゴメンm(_ _)m


 それに、私は大誠さんの子供も、惣一さんの子供も欲しかったんだ。大誠さんは、きっと今も全然、元気でしょ。あの人なら、簡単には弱ったりしないよ。でも、惣一さんのことは、ちょっぴり心配だな。ストレス、溜めこんじゃうタイプだよネ。


 2人はどんな性格なのかな。間違っても、私には似てないとイイ。私はなんでこんな感じになっちゃったのか、私にも分からないや!!今さらどうでもイイけどネ!!'`,、('∀`) '`,、


 2人とも、これからの人生、楽しく生きてネ!!ベイビーちゃんたちの幸せなミライを、ママはいつも願ってるからネ。アデュー( ゜∀゜)ノシ


 美乃里より愛を込めて♡

 ”



「……あーあ」


 俺はそう呟いて、手紙を細かくビリビリに破くと、その辺に適当にばらまいた。そして、重くて熱を持ったままの頭を公園の蛇口の水で冷やした。水道水と一緒に、数滴の涙が、排水溝に吸い込まれていった。


 少しだけ落ち着いた俺は、口を水道水ですすぎ、カルキ臭い水をごくごくと飲んだ。水道水の生ぬるさに、また吐き気がして、視界が滲んだ。


「う"えっ、げっ」


 足元にビシャビシャと汚水がかかる。


「っはぁ、はぁ、はー……。死ねよ……ってもう、死んでるか」


 六本木の浮わついた喧騒を遠くに聞きながら、すっかり空っぽになった胃を抱え、俺は死にたい気持ちになった。


 妄想の中でくらい、理想の母親像を描かせてくれてもいいじゃないか。


 それすらも、現実は許してくれないっていうのか。非情すぎる。


 ただ、一つだけ確かなことがある──


 結局のところ、幸せなミライを俺に見せようと努力したやつは、誰もいなかったんだ。






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