第2話 付き合うことになったから意識はする

「……っ」

 片手で顔の下半分を隠し、バッと顔を背ける。

 その行動自体が問いかけを肯定しているようなものだが、一瞬で沸騰したように喉元から迫り上がってきた熱に耐えられなかった。

 違うと言いたい。

 けれど、意味はない。塞いだ口の中で熱ばかりが溜まっていき、明瞭な言葉は出てこなかった。


 今、どんな目で見られているのか。

 背けた顔を戻す勇気はなく、

「い、一応? 付き合うことに? なりましたからぁっ?」

 どうにかこうにか吐き出した声は裏返っていて、格好は付かない。


 なんだってこんな……。

 嘆いていると、ふふっと。

 思わず溢れてしまったような小さな笑い声が、熱を持った耳に届いた。


 顔を戻す勇気なんてなかったのに。

 耳を打つ綺麗な音に惹かれて正面を向いてしまう。

 すると、同じように抱えていた本を机に置いた惑依さんが、楚々と口元に手を添えて。

 堪えきれないとばかりに笑みを零していた。


 笑われている。

 そう思うと無性に恥ずかしさが込み上げてきた。

 もうこれ以上熱くならないと思っていた頬が燃えるようで、もはや感覚すらも曖昧になってくる。外気と頬の区別ができない。

「くっ」と呻き、僕は盛大に顔を顰める。


「そう、これ見よがしに笑うこともないでしょうっ」

「ふふっ、いえ。

 失礼しました。からかうとか、わらうとか。

 そういうことではないのです」

 なにが、そういうことではないのか。

 子供っぽいとわかっていても唇を尖らせてしまう僕に、じわりと濡れた目尻を拭いながら頬を柔っこく緩める。


「付き合った――と。

 私と同じように認識して、意識していただけているのが嬉しくって。

 どうにも、笑いが抑えられませんでした」

 濡れた瞳が僕を映す。

「正直、アレで恋人同士になったなんて。

 思ってはいただけないかもしれないと、考えてもいましたから」

「それは……」

 昨日から思っていたことを当てられドキリとする。


 僕たちは好意を交換したわけではない。

 未だに付き合っているなんて実感はなく、心の中でさえ『恋人』という言葉を使うことさえ避けていた。

 だからといって、

「意識、しない……なんて。

 できるはずもないでしょう……」

 口ごもりながら、切れ切れに。

 言葉を繋ぎ合わせると、「はい」と淑やかに、けれどハッキリと頷いてみせた。


「そうですね。

 そうかもしれません。

 まだ早いと。ご迷惑になると思っておりましたが。

 そういうことをしても、いいのかもしれません」

「そう……って、なに?」

 口が滑る。つい、訊いてしまった。

 わかっているのに。もしかして、言葉にしてほしかったのだろうか。自分のことながらわからない。

 惑依さんは西洋人形がするようにパチパチと瞼を瞬かせる。


「それは……」

 途切れる。ふっ、と肩の力を抜いたように微笑む。

「追々、考えていきましょうか」

 今は整理を手伝ってくださいと言う惑依さん。

 なんだかお預けをくらったようで釈然とせず、だからといってまた訊く気になんてなれず。

 お願いしますと促されて、「わかり、ました」とかろうじて喉から絞り出すことしかできなかった。



 今回の手伝いは年末に向けて書庫の整理を少しずつ進めるというものであるらしく、整理や掃除がメインとなっている。

 1つひとつは簡単な単純作業だけれど、数が多くどうにも手を焼く。

 今日1日で終わらせるというわけではないらしいが、作業部屋の奥に積まれた手付かずのダンボールを見ると、今年中に終わるのか疑念が残る。


 僕自身は図書委員というわけでもないので、気にするだけ野暮というか、だからどうするという話ではあるのだけれど。

 図書室内に視線を巡らせる。

 見えるのは、図書委員の惑依さんと、図書委員の担当教諭、そして司書さん。以上3名だ。

 後から増えるのかなと思っていたけれど、午後近くになっても増員はなし。

 先生や司書さんはともかく、図書委員が惑依さんのみというのはどうにも気になった。


 処分する雑誌を1つにまとめる。

 カウンターのパソコンでなにやら作業している惑依さんに近付く。

 ふと、気配を察したのか、顔を上げた惑依さんに訊いてみることにした。


「他の図書委員は来ないんですか?」

「居ません」

 端的な解答に口を噤む。

 来ない。ではなく、居ない。

 表情こそ伴わないが、逸らすことなく真っ直ぐ向けてくる暗闇の瞳が嘘を言ってないことを告げてくる。


 えぇ……でも、そんなわけなくない?

 そう思う僕がおかしいのか。自身の常識とのズレを感じて、口の端っこがいーっと横に伸びていく。

「普通、クラスでなにかしら委員には付くようになってるでしょ?

 なのに、居ないんですか? 本当に?」

「……」


 ススッ、カチカチ、と。

 滑らかに滑らせていたマウスをピタッと止める。

 僅かに薄い唇を開き、直ぐに閉じる。 


 反応が固くなった気がする。それとも、鈍くなったと言うべきか。

 微妙なぎこちなさから、もしかして余計なことを訊いたか? と内心焦る。

 別に絶対知りたいわけではないのだから。

 適当にうっちゃっろうかなと逃げの思考に及んでいると、ぼそっと「名簿上は存在しています」と惑依さんが零す。

 目を丸くする。いや、名簿上って。


「幽霊部員ならぬ幽霊委員って……」

 存在しないことはないだろうとは思うが、釈然としない。

 集団になればサボる人が出てくるのは普通なことだ。それこそ、知性のない働きアリでもそうなのだ。給料も名誉もない役職に、若く未熟な学生がやる気を見せないのは簡単に想像できる。


 けれど、それは一部であって。

 面倒であっても、そういうルールだからと律儀な生徒は存在するもので、1人として残っていないというのは訝しまざるおえない。


 惑依さんの肩が撫でるように下がる。

 まるで疲れたような態度だ。彼女の視線が逃げるようにパソコンのモニターに戻る。

「図書委員に所属した男子生徒全員に告白されたと言って、信じますか?」

「あー……」

 口から溢れたのは、納得か、それともやっちまったという嘆きだろうか。

 とりあえず、地雷を踏んだなというのはわかって、やはりうっちゃるべきだったと後悔する。


 耳を塞いであーあーと声に出してなにもかも拒みたくなったけど、一度吐き出したからだろうか。

 険しくなった目を更に細めて、刃物のように研ぐ惑依さんは平坦に、けれど鬱憤を吐き出すようにつらつらと語りだす。


「初日の顔合わせは問題ありませんでしたが、その後、私にやたら話しかけてくる男子生徒が増えまして。

 抜け駆けされたくないだとかなんだか知りませんが、1周間に1度のペースで告白してきては来なくなり。

 挙げ句、図書委員同士でお付き合いしていた子も居たらしく、女生徒からは大変な顰蹙ひんしゅくを買いまして、魔女だ悪女だと聞くに堪えない罵倒だけを残して誰も居なくなった――そんな話をお聞きになりたいですか?」

「もう全部話してるじゃないですが……」

「詳細があります」

 うわぁ……と顔が引きる。

 聞きますか? という問いに僕は力なく首を左右に振る。


 当時の図書室が地獄絵図だったのは容易に想像できてしまう。美化委員会でよかったと内心安堵する。

 時期的には1学期。入学して暫くしてから委員会を決めていたはず。

 もしかしたら、図書室の悪女なんて噂が広がった原因ってこれか? ありそうぉ……と思っていると、惑依さんが顎を引いて下を向いた。


「私のせいでこんなことになってしまい、先生にも司書さんにも申し訳ないことをしました」

「それは、別に惑依さんのせいではなくない?」

 ふるふると首を振って否定される。

 傍から見れば彼女にはなにも落ち度はないのだけど、本人はそうは思っていないらしい。

 まぁ、原因とはいえば原因ではある。気にするなというのは難しいか。


 図書室のカウンターに惑依さん以外が座ってるのを見たことがないのもそのせいか。

 そりゃぁ、他に図書委員が居なければ、彼女がカウンター業務している時に当たる確率も上がる。


 こうやって、休日を潰してまで委員会活動に勤しむのも、惑依さんなりの罪滅ぼしなのかもしれない。

 黙々と作業を進める姿を見ていると、元から真面目な性格というのもありそうだが。

 ふむん、と考える。そして、意識してにやっと笑みを浮かべる。


「それなら、惑依さんが連れてきた働き手が、居なくなった人たち以上に働けば、先生や司書さんも助かるよね?」

 言うと、彼女の顔が上がる。

 眼鏡の奥。真意を伺わせない暗闇の瞳が笑みを描く。

「では、10人分以上の働きを期待します」

「…………。

 頑張ります」

 10人って……そんな居たのか。

 思った以上の人数に、もはや頑張るとしか言えず、粛々と作業に戻るしかなかった。



 本来利用者が使う机に本を積む。

 今回の整理を機に、棚の配置や品揃えを変えるらしい。本格的な作業は冬休みになってからするらしいが、隙間の多い本棚を見ると閉館してしまうのではないかと思わされる。


 そう思うと、なんだか。不意に居心地の悪さに似た違和感を覚えた。

 それは、本来なら入ってはいけない裏側にいるようなズレ。

 例えば、閉店後の書店にいるような感覚だ。

 客のいない静かな店の中。ぽつんっと1人佇む自分。

 ただの利用者だったら見えない裏側。図書室の異なる側面を見て、本当に普段と同じ場所なのかと疑問すら感じてしまう。


「お疲れ様です」

 寂寥せきりょうにも似た感覚に浸っていると、不意に声をかけられる。女性の声だ。ただ、惑依さんではない。

 瞳だけ動かすと、黒髪黒目。紺色のエプロンを付けた清潔感のある司書さんが、よく見るメーカーのペットボトルのお茶を差し出してくれていた。 

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