第2章
第1話 図書委員の少女には主語が足りない
遠く、籠もるように。
透明な窓の向こう側から、部活動に精を出す黒のジャージを着た生徒たちの声が聞こえてくる。
ジャージとはいえ、枯れた木々が見守るグラウンドはあまりにも寒そうだ。
木枯らしに吹かれて枯れ葉が舞うのを見るだけで、温められた室内にいるというのに寒さが伝わってくるようだった。
休日なのによくやるなぁ。
思ったけど、本を両手に抱えている自分を見下ろし、そう変わらないかと呆れを吐き出す。
「お疲れでしたら、休憩していただいても構いませんよ」
声をかけられて窓から目を移すと、普段と変わらずキッチリと制服を着こなす惑依さんが立っていた。
僕と同じように本を抱えてよろめきもしない。
暗い瞳はさして心配しているようには見えないが、こちらを気遣っているというのは、彼女と親睦の少ない僕にも伝わってくる。
なので、「大丈夫ですよ」と手を振る。事実、朝から手伝いを始めて時計の長針は2周ほどしたけれど、体力的にはまだまだ余裕があった。
「そうですか?」
と、
「騙す意図はなかったのですが、結果的に謀る形で休日に図書室の整理をお願いしてしまったので……。
お疲れなら、仰ってください」
「はは……そうですね」
悪意のない言葉に、秋風のように乾いた笑いが口から漏れ出た。
『付き合っていただけますか』
――明日。
そう続いた惑依さんのメッセージを見て、デートの誘いかなとソワソワしてしまった僕を誰が咎められるのだろうか。
しかも、彼女の家で押し倒されてしまった後の出来事だ。
まさか……いやでももしかして、と。
動揺して、けれど、心のどこかに期待があって。
浮足立つなというのは無理からぬこと。
恋も愛も勘違いだと思っている僕だけれど、女性に興味がないとツンッとすまし顔で見栄を張れるほど男を止めていない。しかも、相手は学校中の男子生徒を魅了してやまない美貌を誇る少女だ。
ざわめく心臓や心の波は性欲でしかない。そう理性で理解していても、唇がもにょってどうにも落ち着かない。
布団の中で手足をじたばた。
断ろうかなとも考えたが、半ば脅迫とはいえ『付き合います』と了承したのは僕自身だ。初めての誘いを理由なく断るのは、どうにも気が重かった。
『しょうがない、しょうがないよなぁ』
自分を納得させつつ、承諾のメッセージを送り返すと、ものの数秒でスマホが震えてあたふたとお手玉してしまう。
ばふん、と布団に落ちた画面に表示されるメッセージを息を呑んで見て、おやぁ? と首を傾げる。
緑の吹き出しの中には感謝が綴られる。
その後に校門前で待ち合わせという旨と、制服で来てくださいという服装指定が無機質な文字で表示されていた。
不思議に思いこそしたけれど、まぁいいかと疑問を棚上げにする。
そして翌日。
羊のようにモコモコとした雲が群れをなす青空の下。
口元のマフラーを指先で
『本日は図書室の手伝いを引き受けていただき、ありがとうございます』
寝耳に水の感謝の言葉であった。
あぁ……と察した僕は、口から長い長い息を吐き出して『主語ぉ……』と嘆いて蹲る。
膝を抱えて動かなくなった僕を見て、意外なほど惑依さんは動揺してみせる。
けれど、『大丈夫』なんて言って彼女を落ち着かせる余裕なんてこの時の僕にはなく。
部活の練習でやってくる生徒たちに不思議な顔をされながら、羞恥で火の出そうな身体を凍える秋風で冷ました。
まぁ、そうよなぁ。
朝にしては衝撃的な出来事を思い出し、からっからに乾ききった心で納得する。
土曜日。
学校なんてないのに制服で待ち合わせと言われた時点で、察しはつきそうなものだった。
けれども、女子の部屋に招かれたり、押し倒されたり。
人生においても稀な事件が僕の目を曇らせていた。まともに考える思考能力を奪っていた。
己の無思慮に呆れるばかりだ。
ただ、全部が全部、僕が悪いかと言えばそんなことはなく。
昨日の放課後。惑依さんの自宅に誘われた時にも思ったけれど、彼女はどうにも言葉が足りない時がある。
狙ってなのか。それとも、無自覚にか。
こういう勘違いを誘発させる発言も、図書室の悪女なんて呼ばれてしまう所以なのではないのかと、恨めしくじとっとした目を向けてしまう。
言葉は足らずとも察する力はあるのか。
僕の非難めいた視線を受けて、「言葉足らずで申し訳ございませんでした」と謝罪してくる。
そう下手に出られるとなにも言えなくなってしまう。重ねて抱えた書籍を近くの机に置いて、「いえ……」と頬をかく。
大した失敗でもないのに殊更引きずって、態度にだして。
まるで僕は不機嫌です。だから構って、褒めて、慰めろと頬を膨らませる子供のようではないかと、恥ずかしくなってしまう。
謝ってもらった。なら、それでいい。
「こちらこそごめんなさい」と頭を下げると、今度は惑依さんが「いえ、私が」と頭を下げてくる。
いえいえ僕が、いえいえ私が。
幾度か繰り返して不毛だなとお互い認識を共有したところで、改めて惑依さんが尋ねてくる。
「本当にお嫌でしたら、帰っていただいても大丈夫ですよ?」
「それは、別に」
机に置いた本の表紙を指先で撫でる。つるりとした、けれど年月によって付いた傷の感触に口の端が緩んだ。
「本は、嫌いではないので」
僕の言葉に「そうですか」と応えた惑依さんは、「では、引き続きお願いします」と告げて踵を返して――なにを思ったかそのまま1回転する。
子供じみた真似に、開いていた瞼を更に持ち上げる。
理知的で大人しい、文学少女らしい雰囲気をしているので、なんとなく行動に遊びというか、無駄な所作を入れるのが意外だった。
「もしかして、なのですが」
一度背を向け隠れた怜悧な顔は、どこかからかうような笑みに変わっていた。
「デートの誘いかと……思いましたか?」
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