第7話 恋人を自分の部屋に招いたら、母親はお茶菓子を持って突撃してくる。

「どうしますか……?」

 冷たい、けれども甘い。

 氷菓子のような声が落ちてくる。

 仄暗い影の中、紫の炎のように揺れめく瞳から目を離せない。


 逃げ出そうにも、上から押さえられては動けそうもなかった。

 それに、押しのけようとすれば惑依さんに触れなければならないわけで。

 視線を少し下げて、慌てて持ち上げる。

 押せば沈みそうな双丘に、陶器のように滑らかな肌。指先一つ触れるだけで罪になりそうな繊細な身体のどこに手を伸ばしていいかわからず、カーペットから手を動かせない。


 思考はパニックで、熱でうなされるように呼吸が荒れる。

 どうすれば。

 なんて考えは及ばず。更にはトドメとばかりに、真っ直ぐ伸びた人差し指がつーっと外から内にかけて鎖骨を撫でてくる。

 ぞくりと背筋から身体全体が震える。

 触れられた鎖骨がやたら熱を持ち、火傷したようにひりひりする。


「お返事を、いただけますか?」

「~~~~っ!?」

 しとねで囁くような声。近付く顔にもはや限界で。

「わかり、ましたっ。

 付き合いますっ、付き合いますからっ!」

 声も絶え絶えに。

 惑依さんの告白というのには悪魔染みている告白を受け入れるしかなかった。


「そうですか。

 ありがとうございます」

 あっさりと。

 窓を開けて空気を入れ替えたように、微かに持ち上がっていた口の端が下がる。

 嫣然と迫ってきたのが嘘だったような。

 人間から人形になったかのような変化の落差に、嘆きと共に目を覆いたくなる。

 女って怖い。


 そも、女性経験に乏しい僕が断れるはずもなく。

 惑依さんがこういう手に及んだ時点で、付き合うことは決まっていたのかもしれない。

「……はぁ」

 口から熱と後悔が漏れる。

「とりあえず、退いてくれません?」

「退いた後、やっぱり止めますとか言いませんか?」

「言いたいですけど……止めてやめて冗談ですからこれ以上脱ぐのは止めましょうっ!?」

 羽織っているブラウスを無言無表情で脱ごうとして慌てて止める。

 この子にブレーキはないのか。あと、羞恥心。


「言いませんから、退いてください。

 あと、服着てください」

「着ていますよ」

「前閉じて!」

 仕方がないというようにブラウスのボタンを留め始め、「まず退いて!?」と悲鳴のような叫び声を上げる。

 からかってるのか、惚けてるのか本当にもぉ。


 ようやく僕の上から惑依さんが動こうとして――時が止まる。

「なにか叫び声が聞こえてきたけど、大丈夫かし……ら?」

 否。凍りつくと表現するのが正しいかもしれない。


 予兆もなく部屋に入ってきた惑依さんのお母様。

 その手にはトレイがあり、ショートケーキとジュースが載せられていた。

 お菓子でもどう? と気を遣ってくれた結果なのだろうけど、こんな定番が現実に許されていいものだろうか。

 さーっと、音を立てて血の気が引いていく。


 ぱちぱち、と。

 惑依さん母が目をパチクリさせる視線の先には、柔肌を晒して連れ込んだ男を押し倒す娘。

 瞳に映る光景に、惑依さん母はなにを思うのだろうか。


 三者三様に黙り込む。

 息も吸えない緊迫した空気に黙ることしか出来ずにいると、惑依さん母がトレイを扉の脇に置いた。

 そのまま、ニッコリと満面の笑み。

「ごゆっくりぃ」

「!? ちがっ!?」

 否定しようとしたが、無情にも扉は閉まってしまった。

 絶対に勘違いしている。

 悲嘆に暮れる中、隔たれた扉の向こう側で『もしもしお父さん! カミネちゃんがお赤飯で――』と嘘のような本当の話し声が聞こえてきて、断崖絶壁から突き落とされた気分になった。


「お母様ぁっ!?

 これは誤解で、娘に手を出したとか出されたとかそういうあれこれではなく――!

 というか、惑依さんも止めてきてくれませんっ!?」

「……?

 恋人になったのですから、良いのではありませんか?」

「よくない!」

 きょとんっと、僕の上で惚けた悪女で彼女な少女に、僕は泣くように叫ぶしかなかった。



 ■■


 玄関前で惑依さん母に手を振られて見送られる。

 何度も勘違いだと説明したけれど『恥ずかしがらなくっていいのに』とニコニコされてしまい、説得は諦めた。惑依さん父に連絡していたような話し声については詳しく聞けなかった。追求もしたくない。

 とりあえず、当分惑依さんの家には来ないようにとぐっと決意を固める。


「また来てね」

「あ、はは……はい」

 空笑い。

 隣に居た娘が渋面を作り、「もういいから」と母親の背を押して家の中に押し込む。「えー、ひどいー」と間延びした抗議が聞こえてきたが、虚しく扉は閉まった。


「はぁ……」

 と、なんだか気疲れして白いため息が溢れる。

「色無さん」

 呼ばれ、顔を上げるとキッチリと身嗜みを整えている惑依さんが、肩の辺りまで手を持ち上げて小さく手を横に振る。

「また」

「あぁ、うん。また」

 こっくりと頷く。

 ……そして、そのままなんとも言えない空気になる。


 メッセージのやり取りをいつ終えるべきなのか。

 電話を切るタイミングを見計らって無駄に会話を続けてしまうとか。

 それらに似た重苦しい間があった。


 こういうの苦手なんだけど。

 だからといって、いつまでも寒空の下、意味もなく彫像のように固まって見つめ合っているわけにもいかない。

 空はすっかり暗くなり、丸い月が蛍光灯のようにピカピカと発光している。

 そう長居したつもりはないけど、すっかり日も短くなったなと感じる。


 このまま時間が流れて、『せっかくだし夕飯を』なんて明るく誘われては敵わない。

 断ることもできず、勢いに飲まれてしまうことぐらい、自分の性格を知っていれば予想できる。

 それは避けなければ。

 もう一度こっくりと頷いて、「またあし……じゃなくって、週明け」とぎこちなく手を振る。

 今度は惑依さんがこっくりと頷き返し、なにをやってるんだかなぁと自身に呆れながら背を向ける。


 ほんの1時間かそこらの滞在であったのに、妙に長く居た気がする。

 今日受けた授業内容が遠い昔のように記憶から薄れ、家に帰ったら復習かなと今から足が重くなる。


 街灯の少ない、暗い住宅街の道を1人歩く。

 はぁ……っと息を吐き出すと、白い煙が昇っていった。

 追いかけて、空を見上げると家々に区切られた夜空が広がっていた。

 無電柱化が進み、網目のように張っていた電線は消えたけれど。

 狭いな、と感じてしまうのは住宅密集地に居るからだろうか。


「恋人ね……」

 言葉にしても、実感は湧かない。

 それこそ、一緒に吐き出された白い吐息のように。

 見えるけど、掴みどころがなかった。


 そもそも、本当に恋人と言える関係になったのだろうか。

 お互い、好き合っているわけでもないのに、付き合いましょうそうしましょうと示し合わせれば恋人になれるというのも変な話だ。

 そんなモノは『恋人』というレッテルを貼るだけで、中身が一切伴わないに決まっている。実感なんて、湧くはずもなかったか。


 僕に恋人というのもなぁ……と。

 帰路の間中、違和感に苛まれて悶々ともやのようななにかが膨らむばかり。

「ただいまぁ」

 と、家に帰ってもそれは変わらないままだったけれど、リビングの方から母さんの怒鳴り声が聞こえてきてあっさり霧散した。

 帰ってきたら手を洗えだが、疲れてるんだとか。

 漏れ聞こえてくるのは子供のような喧嘩の癖に、声に含まれる怒りや苛立ちだけはあまりにも強い。


 さっきまでの、どこかふわふわした綿あめのようなもやとは違い、頭の中には不快感と諦観で出来た濃霧が満たす。

 またか、なんて。

 思うことすらなくなって。ただただ肩を重くする疲労感ばかりがどっと押し寄せてきた。


 手を洗わなきゃと思うが、廊下の先から響く金切り声に億劫になってしまう。

 また後ででいいや。

 そのまま玄関から自分の部屋へ。逃げ込むようにするりと入り、背でドアを閉める。


 閉ざされた暗い暗い部屋。

 それでも、微かに両親の声が耳を震わせて、その光景を脳が鮮明に描き出す。

 目をぎゅっと閉じて、畳んであった敷布団に倒れ込む。


 着替えとか、勉強とか。

 しなくちゃならないことはあるけど、やる気は家に帰ってきた時点で根絶やしにさせられた。

「明日は休みだし……」

 言い訳が口をつく。


 どこまででも響いてきそうな不快な声に眉間に皺が寄るのを感じる。

 掛け布団を引っ張り出し、頭だけをすっぽり覆う。

 すると、ようやく静けさが訪れて、安堵が胸中を満たす。強張っていた眉間からも力が抜けた。


「今日は……疲れた」

 声にすると余計に。

 布団に倒れて、目を閉じたからだろうか。意識が微睡んでいく。

 今寝たら夜寝れなくなってしまう。そう思うけど、心地良い誘いは抗いがたく、明日は休みだしと同じ言い訳を思う。


 これは寝るなぁ、と。

 落ちていく意識の中、最後に思ったのは惑依さんのことだった。

 恋も愛も信じていないくせに、証明したいと理想を信じようとする少女。

 思うと……うっすらと口角が上がった気がした。

 吐き捨てるように。声にならず、唇だけが小さく言葉を描く。

 ――恋なんて……あるはずないのになぁ。



 ■■


 ふと、太ももの震えで目が覚める。

 振動は直ぐに止み、寝ぼけ眼のまま手だけを動かして制服のポケットを撫でる。

 指先で探って、どうにかするりと入り込み。

 ポケットからスマホを引っ張り出す。


「……なんじぃ?」

 頭に掛け布団を被ったまま、スマホを見る。

 うっと暗闇に慣れた目には辛い光に呻きを零す。それでも、霞む視界の中、目を細めてどうにか確認すると夜の7時をあっさり過ぎていた。

「う゛ぁ゛ー゛」

 1時間以上寝てたのか。これはよくないなぁ。

 と、口にしたつもりだったのだけれど、喉から絞り出たのはガラガラのうめき声。寝起きの喉に人間の言葉は難しかったようだ。


 とりあえず起きなきゃと思ったが、スマホの上部にメッセージアプリの着信を見つける。

 さっきのバイブはこれか。

 思いつつ、「ぁ゛ー」と震える指でスマホを操作する。


 画面をなぞり、ロックを解除。連絡してきた相手を見て……目をすがめる。

「……誰?」

 惑依カミネ。

 瞬きをして、こてんっと首を傾げるようにうつ伏せの体勢から横に倒れ込む。右頬を布団に埋める。


「ん? あ? あー」

 悪女か。ようやく至り、よくない連想だなとここには居ない惑依さんに謝る。


 そういえば、連絡先交換してたっけ。

 思い出すと今でも顔が熱くなる濡れ場。いや、濡れ場ではないけど。ないけど。

 その後にさらっと『恋人なら』と交換させられた連絡先。


 早々使うことはないだろうと思っていたのに、さっそく連絡をしてくるとは思いもしなかった。

 喜ぶとか、悲しむとか。

 そういう変化は見て取れない、西洋人形にも似た冷たさだったけれど、

「内心、思うところはあったのかなぁ」

 どうだろ。……そんなこともないか。


 そも、女子の心なんて、笑っていたところでわからないものだ。

 思いつつ、通知をタッチして――眉を潜める。

「"付き合っていただけますか"……?」

 ……あれ? もしかして、付き合ってると認識してるのって僕だけ? 今日の出来事って全部夢だった?

 まだ寝ぼけているのかと目をぐりぐりしたが、メッセージは変わらず。

 首を傾げる代わりに、今度は反対方向にこてんっと寝返りを打った。



 ◆第1章_fin◆

 __To be continued.

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