第6話 悪女はブラウスをはだけさせ、男を誘惑する。

 恋の証明と、彼女は言う。

 けれど僕には、それがどうにも確固たる形にならず、曖昧模糊としていた。

 言いたいことがわかるような、わからないような。


 伏せていた顔を上げて困惑を見て取ったのか、さらりと流れる前髪の一房。その向こうに見える暗い瞳が一瞬僕を映し出した。

「両親は結婚して10年以上になりますが、未だに新婚のように仲睦まじく……。

 端的に言えば、ラブラブです」

「は、はぁ?」

 しめやかな面持ちで急になにを言い出すんだろう。


 急なご両親の仲良し自慢に困惑してしまう。

 皮肉か嫌味かとも考えたが、惑依さんが我家の事情を知るはずもない。そういうことではないんだろうなぁと思いつつも、肋骨で囲われた内側がじくじくと疼く。理解と納得は交わらない。


「私は未だに愛し合う2人を尊敬しています。

 いつか私もそうあれたらと思うぐらいに」

 勝手にすればいい、と。

 他人事のように返答することはしなかった。他人事ではあるが、話の流れから察することもある。

 代わりに妙な流れだなと、顔の中心に皺が寄る。


「でも、私は成れません」

「どうして?」

 予想通りの答えに、用意していた応えを口にする。

 決められた応答。演劇かはたまたドラマか。自分で言葉を選んでいるようで、全ての選択が僕の意思とは関わらず決められているような感覚に陥る。

 それは嫌だなぁ。思うと、抵抗しようと意思が固くなる。


「私も、恋も愛も存在しないと思っている。

 ――思ってしまっているからです」

 否定したいけれど、否定できないというように、惑依さんが言葉を重ねた。


「一目見ただけなのに好きだと口にする軽薄な男性。

 彼女がいるのに別れるからと告白してくる浮気者。

 別の女性に告白した舌の根も乾かぬうちに愛を語る嘘つき。

 恋と愛があると信じたくても、現実がそんなものはないと突きつけてくる」


 苦しむように惑依さんの目元に力がこもる。

 豊かな胸の内が痛むのか、たいが結ばれた胸元を強く握り込む。


 モテるのも大変だなぁ、なんて。軽口を叩ける雰囲気ではなかった。

 もとより衝撃的な場面に出くわしている。美人だからと言って得をしているなんて思えはしなかった。

 惑依さんにとってその美しい容貌は、彼女自身を蝕む呪いなのだろう。


「ですが、それは大好きな両親の否定に繋がってしまいます。

 2人の娘である私が、愛し合う両親の想いが存在しないものなんだと証明してしまうなんて、許せるはずがありません」

 皮肉だなとは思う。

 強くなった彼女の声音は悲痛で、演技とは思えない。思わない。


 誘蛾灯に惹かれる羽虫のように集まる軽薄な男たちを嫌悪する。けれど、その思いが敬愛する両親を否定することに繋がる。

 二律背反。

 現実と理想を前に懊悩するなんて。

 青春だと思ってしまうのは失礼だろうか。

 悩めるだけ羨ましいなんて言ったら、怒るだろうか。


 どうあれ、言葉も思いの意味も理解できる。それが正しいと頷くかは別として。

 けれども、だ。

「だから、私は恋はあるのだと証明したいのです。

 両親の愛は本物で正しいのだと、本心から想いたい。

 そのために――」

 ――どうか私と付き合っていただけませんか?

 計算式のように順序立てられていたものが、途端に支離死滅になったかのようで理解が及ばなくなる。


「…………あー」

 眉間を親指で押し込む。

 まだ、知らない外国語で話されてたほうがマシだった。意味がわからない分、首を振って両手を上げればいいだけなのだから。


「結論が意味不明というか。

 どうしてそこに繋がるんですか?」

 恋を証明するために僕と付き合う因果関係なんてない。

 そのはずなのだが、背筋を伸ばして真っ直ぐに見つめてくる惑依さんに迷いはなく、なんだか僕が間違っているのではないかと思わせられる真剣さがあった。


「恋も愛も幻だと――貴方は仰っていました」

「それは……言いましたけど」

 改めてそうハッキリと言われると恥ずかしくなる。

 その場の空気とはいえ、なんだか拗らせたか、ませた子供のような発言に耳が熱を持つ。

 真実、嘘ではないけど、胸の内に秘めておくべきもので、得意げになって誰かに語るべきではなかった。


 正座をしている足先まで羞恥の熱が伝達したように感じて、足指を動かす。過去の熱が追いかけてくる。

 暦の上では秋は終わる間近で、冬までもう一歩。

 暖房のついていない室内は意識せずぶるりと震えてしまいそうなほど寒いのに、汗をかくほどに体温が上昇していく。


 寒暖差に息が上がりそうだというのに、惑依さんは冷淡にも見える眼差しで続ける。

「私と貴方は同類です。

 恋も愛も否定する貴方があるのだと認めたならば、は確かにあるのだと証明になります」

 断言される。

 そうも強く言われると、思わず頷いてしまいそうになってしまう。

 けれど、その論法はやっぱり致命的にズレている。


「恋の証明のために、好きでもない僕と付き合う時点で矛盾してますよね?」

「恋も愛も育むものです」

 即座に返され、口を紡ぐ。

 咄嗟に、綺麗事だと言ってしまいそうだったから。

 けど、きっとそんなこと惑依さんもわかっているはずだ。

 それでも、と。

 顔を上げて恋なんて幻想を証明しようとする彼女に言葉が出てこない。


 途方に暮れて、どうすることもできないでいると、「それに」と惑依さんが言葉を繋いだ。

「誰でもいいわけではありません。

 私に告白をしなかった色無さんであればと、そう……思ったんです」

 吊り上がっていた目尻が下がり、淡く微笑む。

 息を呑む。それを見て思う。

 学内の男子生徒が全員告白したというのは嘘だけれど、真実に近しい噂ではあったんだと。


「図書室の悪女……」

 口から溢れる。

 すると、惑依さんが目を瞬かせて「知っていましたか」と言う。

 はっとなって口を塞ぐが遅く。

 バツ悪く彼女を伺うと、蓋をするように瞼が閉じた。


「それなら話が早いですね」

 しゅるりと、衣擦れの音を滑らせてたいを解く。

 暑いのか、なんて惚けたことを考えている間も、惑依さんの手は止まらない。

 几帳面に1番上まで閉めていたブラウスのボタンをぷち、ぷちっと次々外していき、初雪のような白く深い谷間が見えた辺りで動揺が胸を叩いた。


「は、な……にしてっ!?」

 ブラウスの前ははだけ、小さく窪んだヘソが露わになる。

 大きな胸を包む薄水色の下着が視界に飛び込む。自分から覗き見たわけでもないのに、罪悪感が胸に去来し「……っ」と慌てて床に目を落とす。

 クリーム色の滑らかな毛並みのカーペットを、心の動揺が無意識に手を動かしたかのように撫でる。

 けれど、その手の上に氷のようにひんやりとした手が重ねられ、心臓が一際跳ねた。


 仰け反る。

 そのせいで自然と顔が上がると、いつの間にか眼鏡を外した惑依さんの瞳とぶつかる。

 仄暗く輝く紫色の瞳。

 見つめられ、ごくっと喉が鳴る。


「惑依、さ……ん?」

「ご承知の通り、私は男を惑わす図書室の悪女らしいので」

 とんっ、と肩を押される。

 後ろ手は呆気なく支えとしての役目を終えて、背中から倒れてしまう。

 真っ白な天井。

 白く濁ったカバーに覆われた蛍光灯。

 一瞬、視界を彩った白を隠すのは、影の中。肌を晒して薄く笑う少女。


「――誘惑するというのも、いいかもしれません」


 そううそぶく惑依さんを見て、慌てふためき泡立つ心の奥の奥。僅かに残った冷静な部分で思う。

 これは確かに悪女だなって。

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