第4話 悪女の母親は不老の美しい魔女であった
流されるがままに。
惑依さんに付いていったのを後悔するのに、さして時間はかからなかった。
両脇に立つ石造りの
「どうぞ」
招き寄せる。
「どうぞって……」
言われても。
先に立つのは困惑と、胃の腑に溜まる緊張だ。雨の時、外に置きっぱなしだったバケツの中に溜まる雨水のように。しずしずと胃で
道路と敷地を隔てる門柱。
アスファルトと石畳の境目で踏み留まる足先が地面に縫い付けられたように動かせない。
このまま回れ右をして帰れないものか。
とっくに後戻りできない状況なのに、未練がましく逃げることばかりを考えてしまう。
けれども、
「失礼します」
あ、と声を上げる間もなく手を取られて、あれだけ躊躇していた足が呆気なく境界線を超える。
石畳を踏みつけ、口から溢れたのは諦めの嘆息だった。
「……わかりました。
行きます。行きますから、手を離してくれません?」
「家に入るまではこのままで」
迷子にならないよう子供と手を繋ぐ、というには掴まれる力は強く。
男女の仲というには、拘束されている感が強すぎて照れることすらできない。
そのまま、散歩から帰るのを嫌がる犬のように手を引かれ、引きづられながら開けられた扉を超える。
思い出すのは門柱に掲げられた表札。『惑依』と掘られたそれを脳裏に思い浮かべていると、バタンッと音を立てて
■■
「カミネちゃん、おかりなさ――あらあらあら」
エプロン姿のおっとりした美人がパタパタとスリッパの音を鳴らしながら、出迎えてくれた。
玄関土間から一段上がったフローリングに立つ美人さんは、惑依さんと僕を見下ろして驚いたように手を口元に当てる。
そのままパンッと手を合わせると、嬉しさが内側から咲いたような笑顔を浮かべた。
「カミネちゃんが彼氏さんを連れ来るなんて、今日は記念日ね!
お赤飯を炊かないと!」
「え、や……!?
彼氏ではなくってですね」
「そうなの?」
小首を可愛らしく傾げられる。釣られて、尻尾のように長い三つ編みが揺れた。
惑依さんのお姉さんだろう彼女のきょとんとした丸い紫がかった瞳が可愛らしい。
ついっと視線を逃がすと、視界の端でぷにっと頬に指を当てた美人さんが疑問を投げかけてくる。
「けど、手を繋いで家に呼ぶぐらいだもの。
仲は良いのよね?」
「あ……これは違くってっ!?」
ごねる僕を引っ張るために惑依さんと結ばれた手。
そりゃぁ、手繋ぎのまま妹が家に帰ってくれば、彼氏と勘違いもする。
あたふたと視線を泳がせるが、それを恥ずかしがっていると受け取ったのか、「可愛い彼氏さんね?」と惑依さんに話しかけている。
あぅあぅと、ノンストップで止まらない誤解に手をこまねいていると、美人さんは僕を安心させようとしているのか、おっとりとした微笑みを浮かべる。
「照れなくってもいいのよ?
うふふ。ゆっくりしていってね」
あー……と嘆く僕を置いて、部屋の奥へと去っていく美人さん。
出会い頭の邂逅から不穏と不安に満ちているというのに、お相手は春の日差しのように晴れ晴れとしているのだから、己との明暗の差に目眩を覚える。
空いている手を額に当てる。
離れる機会を失って繋がったまま、平坦な表情で見た目通りお人形と化していた少女を恨めしく睨む。
「……どうして否定してくれないんですか?」
「私が否定する意義はありませんよね?」
そんなことはないだろう。
思うが、彼女の求めているところからすれば、率先して否定する理由はなかったのかもしれない。
それでも、これはどうなんだと嘆かずにはいられなかった。
「とはいえ、外堀から……なんて思ってはいませんでしたが」
本当にぃ? と疑いの眼差しを向けても、眉一つ動かさない。
「お母様がこうも勘違いするとは予想外でした。
その点については、謝罪いたします」
「はぁ、まぁ……。
別に後で訂正してくれれば…………? ……お母様?」
「はい」
こくり、と頷かれる。
なるほど?
なるほどなぁ……と思い出すのは隣の少女を少し成長させて、明るくしたような美人さん。
エプロン姿でお出迎え。
その姿と行動だけ見れば母親っぽいが、いかんせん見た目が若々しすぎる。
お姉様と言われてしっくりきて。
お母様と告げられれば宇宙を背景に虚無顔をする猫のように間抜け顔を晒してしまう。
いや、いや……えぇ。
「惑依さんちは魔女の血族なんですか?
それとも、淫魔だったりします?」
「人間です」
きっぱり告げられ、そうかと一瞬納得するも、そうかなぁ……? とやっぱり疑念は残って。
傾いた首がなかなか元に戻らなかった。
■■
女子の部屋というのはなかなかに落ち着かないものだ。
個人の色が最も出る私室。
甘いのか、それとも爽やかなのか。嗅ぎ慣れない良い臭いを『惑依さんの香り』と認識してしまうと、正座した足先をむずむずとわけもなく動かしてしまう。
努めて室内を見渡さないよう、首を固定してガラスのローテーブルを俯いて注視する。
そうしたところで目を開いていれば視界に入る物はあり、やっぱり本が好きなんだなと図書室のように整理された棚を見て思う。
「コートとマフラーを」
「……ど、どうしろと?」
声をかけられ、戸惑う。
顔を上げると感情の薄いジト目の惑依さんに「預かります」とハンガー片手に言われて、あぁはいと。言われるがままにもぞもぞ脱いで手渡した。
母親(魔女)がいるとはいえ、安心し過ぎではなかろうか?
知り合ったばかりの男を部屋に上げてこの余裕。
もしかすると、男を惑わす悪女の噂は本当だったのかと疑惑の目を向けてしまう。
「……どういうつもりですか?」
警戒が滲む。するりとマフラーを外して、自身もコートを脱いで身軽になった惑依さんが眼鏡の向こうから流し目を僕に向ける。
その瞳は黒く、なにを考えているのかわからない暗闇が広がっている。
「どう……とは?」
「惚けないでくださいよ」
断り切れず付いてきてしまったのは僕の落ち度とはいえ、だ。
昨日の返事については答えを出したはずだ。
「お付き合いの話なら断りました。
それ以外、なにがあると?」
惑依さんが目を伏せる。
考えるように沈黙を挟むと「少し……お話がしたかっただけですよ」と小さく小さく呟いた。
眼鏡が傾く。光の加減か、揺れる瞳に紫が差す。
その色は、僕に昨日の告白を思い出させる。
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