第2話 図書室の悪女の噂が聞こえてくる
――また『図書室の悪女』が男を奪ったって。
昼休み。椅子の背もたれを抱くように座る級友と駄弁りながら昼食を取っていると、教室のどこからかそんな声が聞こえてきた。
囁くような、けれどどこか周囲に訊かせようとするような通る声。
普段なら他人の会話なんて聞き流す。
けれど、今日に限っては図書室というキーワードに反応してか、聞き耳を立ててしまう。
「また? 最悪」
「酷くない? しかも、奪っておいて付き合いもしないんだって」
「それなー」
「嫌がらせじゃん。なにしたいわけ」
「さー。けど、あんたも気を付けなよ?
気付いたら図書室の悪女に彼氏が付け狙われてるかもしれないんだから」
「そ、そんなことあるわけないじゃんっ!?
私と彼はそれはもうラブラブで……っ!」
「声震えてるんだけど。うける」
「うけない!」
けらけらと、普段なら気にも留めない笑い声が耳に障る。
ただの噂話。
彼女たちにとっては昼食時の話のネタでしかなく、既に話題は彼氏持ちの少女をからかう方向にシフトしている。
頬を赤らめて、開き直って惚気けるのは昼休みの日常風景の一つに過ぎない。
購買部で買ったやたら大きくて安い、お腹に溜まるのだけが長所なパンを齧る。もそもそと噛む度に口の中の水分が搾り取られていくようだ。
図書室の悪女。
彼氏持ちにとっては最悪といってもいい存在が、主に女子生徒の間に真偽不明の噂として流れている。
曰く、全校の男子生徒から告白されたとか。
曰く、一目見ただけで男を惑わす悪女だとか。
曰く、欠点がなさすぎて人形かと疑ってしまうような美少女だとか。
基本的に悪い女ということと、綺麗な女性というのが噂の根っこにあるようだが、そのどれもがほとんど悪口であった。
この手の噂にあまり興味のない僕ですら認識している辺り、一部の女子が意図的に悪評を流している気がしている。
事実、男を奪われたか、はたまたモテる女が疎ましいのか。
まぁ、大半の噂は誇大広告というか、噂に尾ひれはひれ。
そもそも、僕が告白したことがない時点で、全校の男子生徒から告白されたなんて、確認しなくても嘘八百だとわかる。
高校生はなんでもかんでも大げさに物を言いたくなるものだ。一目見ただけで男を惑わすとか、もはやファンタジーである。催眠アプリとかと良い勝負ではなかろうか。
所詮、雑談。
他愛のない話で、好きなイケメン俳優やアイドルを語るのと同列だろう。
人の悪口を語り合って、生き生きと嘲笑するのが良い趣味かはともかく。
別段、学校で生活していれば、人の好き嫌いは聞こうとせずとも耳に届く。特に共通の話題にしやすい教師陣がやたらネタにされるのは、どこの学校でも変わらないだろう。
それなのに、教室どころか廊下を歩いていても、図書室の悪女の噂話がやたら耳に残るのは図書委員の少女が原因だろう。
図書委員の悪女。その正体が誰かなんて、知るよしもなかったけれど。
『彼氏を奪った』なんて、泣いて詰め寄る女子生徒を目にすれば、相対する少女がそうなのかもと連想するのは自然の流れだ。
眼鏡が外れ、素顔を晒す図書委員の少女を思い出す。
妖しく瞬く、暗い紫の瞳。
叩かれて腫れているだろう頬を押さえもせず、怒りを剥き出しにする女子生徒を冷静に、ともすれば冷淡に見つめ返す端正な顔立ち。
美しいとは思う。
ただ、一目見ただけで、なんて。
あまりにも非現実的過ぎる。
けれど、目に焼き付きこうして一夜、二夜と明けても鮮明に顔を思い出せるぐらいには、感じ入るものがあったのは確かだった。
……まぁ、衝撃的すぎる昨日の出来事のせいで記憶に刻み込まれた可能性もあるのだが。
思い出し頬が熱くなる。身体の血が熱を持ったように内側から火照る。
今年も終わりに近づき、残すところ2ヶ月も切ったというのに、夏が戻ってきたかのようだ。
「――で、シオリはどう思う?」
「……え? なんて?」
不意に級友の声がクリアになる。
雑音の中で級友の声だけ大きくしたような感覚に、きょとんっと級友を見つめてしまう。
「いや、そんな難聴系主人公みたいな切り返しはいいから。
別に私告ってないし。
ていうか、聞いてた? 私の話」
「え、あー」
なんの話だったか。
思い出そうとしても、そぞろな意識だったので脳にはなにも留まってはいない。
瞳だけ動かして天井を見る。が、答えが書いてあるはずもなく。
半眼でじーっと、視線で咎めてくる級友に、「ごめん」とバツ悪く返すしかなかった。
級友がこれ見よがしにため息をつく。
「今日ずっとぼーっとしてるけど、なんかあった?
話があるなら訊くよ」
「
ふにふにと急に頬を弄ばれる。
無抵抗でされるがまま。けれど、やっぱり頭の中では図書室の少女の影がチラついて離れず。
「私の話を聞けー!」と更にぷんすか怒り出した級友にこれでもかと頬を蹂躙された。
■■
1階エントランスホールに繋がる階段を降りる。
隅っこに並ぶ自動販売機の近くでは、床の汚さなんて気にしないのか何人かの男子生徒が横になってたむろしていた。
暖房もなにも効いていないエントランスホールの床は、氷と言って差し支えないほどに冷たいはずなのに。
よくも楽しげに転がれるものだと感心してしまう。
僕は暖房の効いた図書室でぬくぬく。
……と、先週までならしていたのだが、かじかんで固まって棒のように伸びた足は逃げるようにエントランスホール横にある図書室を避けていく。
一昨日の修羅場を目撃したのとて、気まずく足は遠のいた。
けれども、それは他人事で。
図書室に寄るか寄らないか天秤にかけるぐらいには悩んだけれど、行くという選択肢は残っていた。
なぜなら、僕とは無関係だから。
ただ今回は――
「……えぇ」
どうして今日に限って、と口からやるせない声が溢れた。
とりあえず校舎を出ようと向かった昇降口。
1年生の下駄箱が並ぶその列に、最も出会いたくなった図書委員の少女――
紺色のダッフルコートを着て、彼女のだろう下駄箱を開けて佇む惑依さん。
使用する下駄箱から1年生だったのかと初めて知りながら、廊下に触れた上履きの踵を浮かせて、けれども直ぐに下ろす。
惑依さんが行くのを待つか、さらっと通り過ぎるか。
突然の遭遇にどうしようと悩んでいた時、ふと彼女の手に白いなにかがあるのが見えた。
長方形の薄い……手紙?
手紙、放課後、下駄箱、そして図書室の悪女と連想を重ねてうわぁ、と内心嘆く。
どうしてこう出会いたくない場面に立ち会ってしまうのか。
日頃の
ラブレターであろう手紙を持つ惑依さんから視線を外すように瞼を閉じて、口元まで持ち上げたマフラーの中でため息を零す。
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