ベランダ

 ちょっと実家に戻ったら姉だけいた。髪がきれいに黒く染められていて、どんな改心をしたのかと思ったら就活だった。俺も二年後か。

「荷物取りにきた」

 俺が言うとふうん、と姉は興味なさそうな返事をしながら部屋まで様子を見に来る。


 大学入学前に、とりあえず必要最低限の荷物だけで引っ越して、といっても二時間あれば帰れるような距離だから、季節物なんかはその都度取りに帰っているような状態で秋まできてしまっていた。

 生活には必要ないけれども必要な、本とか漫画とかはそのうち送ろうと思いつつ、結局生活に必要ないから後回しになっている。先々代のスマホなんて今さらどうしようか。大事に持っていくものでもないけど今すぐはちょっと捨てずらい。電源がつくならアラームくらいには使えるだろうか。存在を忘れていたイヤホンを見つける。予備を買おうと思ってたからラッキーと思う。


 自分の部屋を家捜ししていると、開けたままの入口から姉がこちらを覗く。

「お父さんの家、行ったんだって?」

「行ったよ。そんな変わってなかったけど」

 両親が離れて暮らすようになったのは、俺が小学校の低学年のときだった。二個上の姉と俺で電車に乗って、小学生の頃は父の家に遊びに行っていた。姉が中学生になる頃にその習慣は自然となくなっていたけど、それぞれ一人で行くことはあった。正直、独り身男性の生存確認みたいな意識がなかったこともない。


 久しぶりに泊まりに行っていい? と連絡したら父は日程も聞かずにOKしてくれた。高校一年生ぶりに来た父のマンションは記憶と変わっていなくて、高校と大人の三年間の長さの違いを感じた。実家からJRと地下鉄を乗り継いだ父の家は、今行ってみると拍子抜けするほど近かった。

 多分、姉も俺も、自分の家じゃないけど自分の家のような感覚で遊びに行っていたと思う。


 父の家。そう言うと人に変な顔をされることがあると、どこかの年齢で気づいた。「お父さんのうち。お母さんのうちはオレんちだよ?」変な顔をした人はその後に何かを納得すると、大抵は社会のことをすっかりわかっているというような顔をした。

 俺のイメージする一人暮らしは父の家でできている。例えば本を読んでいて登場人物が一人で住む家が出てくると、無意識に父の家を思い描いてる。

 一人暮らしをしたら父の家のようになると思っていた。実際全然違う。広さってこと以外にも。それとは別の余白がここにはある。俺のアパートはそれと比べると仮住まいみたいだ。


 古い携帯はいいとして、服をどうにかしようと実家の衣装ケースを開けた。高校のときに買った服、今見るとダサくて一つも着れないかもしれない。

「前みたいに急に押しかけたりしてないでしょうね」

 作業をする俺の背中に姉が言う。やっぱり母親に口調が似てきたと思う。前みたいにって家出のこと? あなたもしたでしょうが。

「お父さんだって予定とかあるでしょ」

「ちゃんと連絡してから行ったし、いつでもいいって感じだったよ」

 服の選別をしながら言い返す。なんと、高校一年のときに買ったロンTが出てきた。和柄はさすがにダサすぎる。もしかしたら裏地がチェックのパーカーとかも発掘してしまうかもしれない。面倒になって衣装ケースを一段まるごと外に出した。もう今着れるやつ以外全部捨てるのが早そう。

 姉にさらに言い返されるのを待っていたが何も返ってこない。何? と思って顔を向けた。

「お母さんとお父さん、今、ケンカしてるっぽくて」

「はあ?」

 話がつかめず、俺は物に埋もれたまま作業の手を止めた。

「既に離婚してる二人が、どうやってそれ以上ケンカするの?」

 これだから単細胞は、と顔に書いてあるのを隠しもせず、姉は大げさにため息をついてみせた。なんだよ、いつまでも自分だけわかってるつもりでいるなよ、と俺の顔には書いてある。

「二人、なんとかいい距離感保ってきてたじゃん。それを私たちが乱したらいけないでしょ」

「え、待って、俺が家行ったことでケンカしてんの?」

「そうじゃないよ。そうじゃないけど、お母さんの距離感とお父さんの距離感はちゃんと区別しなって話」

 部屋のドアにもたれて、姉は首を振る。黒染めの人工的な黒髪が肩の上で揺れる。

「子供じゃないんだし」

 大人ぶった言い方になったと口にしてから思った。

「こっちはこっちで勝手に会えばいいんだから。二人の仲と親子仲は関係ないでしょ」

 関係ないでしょ、それは、父がそう思わせてくれていたからなんだよな思った。父が父であることを俺らに疑問を持たせないためには、この場合努力が必要だったはずだ。関係ない人として生きていくことだって、本当はできたはずだった。

「まあ確かに、あれはあれでうまくいってたんだよな」

 そう言って作業を再開する。再開してからすぐまた手を止めた。「一服しよ」と声をかけ、姉を追い越して部屋を出た。


 姉は中学の時、俺は高校の時、一回ずつ家出をしたことがあった。父の家に居座って家に帰らなかった。

 姉の家出の時、俺はまだ小学生だった。不自然に一人少ない家で苛立った母の声が聞こえて、何が起こっているんだろうとそわそわしていた。そして姉の発想に感心した。その手があったか、と思った。父の家は確かに自分たちの帰る場所ではないから、家出と言えば家出だ。家出ではあるけど、友達の家だとか野宿のような一秒でも早く連れ戻さなければいけない場所でもない。

 もし物理的な意味だけではなく“父側”に出て行くというニュアンスまであるとしたら姉、やるなと思った。


 俺の方はそこまで深い意味はなくて、ちょっと頭冷やさせてくれって感じで、ふらっと行った。母も、中学二年の女子が帰ってこないのと、高校一年の男子が帰らないんじゃ事の重みが違ったんだと思う。

 翌日の学校とか帰ってからどうしたとかよく覚えていない。何も聞いてないけど、父から母に連絡はいっていたんだろう。「圭一お預かりしてます。ご飯はよく食べています」とか。考えるとそれが最後に泊まった時だった。


 ベランダの窓からひんやりした空気が顔を撫でた。やっぱり使ってない自室の空気はこもっている。足の先にサンダルを引っ掛けて外に出た。ベランダの冷えた鉄の手すりにもたれ、下を覗くと前と変わったような変わらないようなマンションの植木が見えた。百円ライターで火をつけている横に姉が来る。

「うわまじ。iQOSにしたの」

 横顔に話しかける。

「エコですよ」

「あっそ」

 両親が、俺ら二人のことで迷惑をかけあったり心配することでかろうじて(というより、仕方なく)繋ぎとめられていた部分があったように、両親のことを話したり知恵を働かせて俺と姉は結束してきた。

「で、なんであの二人はケンカしてんの」

「よくわからない。電話でちょっと言い合いしてたのよね」

「それ別の人じゃないの」

 そんなわけないでしょ。あり得ないという口調で姉が言い返す。お母さんがお父さんと話してるかどうかくらい、聞けばわかるよ。

 他意はなかった。そのままの意味で言った「別の人」だったけど、「別の男」に聞こえた気がした。自分で言った言葉に自分で引っ張られて、俺は黙る。吐き出した煙が外へ漂う。


 大人は子供に与える影響の大きさをわかっている。子供も、自分たちが大人に影響を与えてしまう存在であることをわかっている。そして肝心な場面では出る幕のないことも。その無力感を他人事に変換するのには慣れていた。


「iQOSって焼き芋みたいな匂いしない?」

「どういうこと」

「なんか独特な匂いするじゃん」

 俺が言うと姉は、また圭一が変なこと言ってる、という顔をした。

「でもそう言われると、なんか焼き芋食べたくなってきたー」

 電子タバコを片手に手すりから身を乗り出して、また、えらく呑気な声だ。男女差ではなく姉のこういうところは母似だ。


 昔は母親が厳しくて父親が優しいと思っていた。でも、最近なんとなくわかってきた。毎日暮らしていれば小言だって多くなる。父親の優しさは遠慮と表裏一体だ。

 そもそもこの場合、厳しいの対義語は優しいではないのだと思う。寛容、寛大、大らか、適当。そうだとしたら、むしろそれこそ母親の方が当てはまる。それなら父に当てはまるのは何なのだろう。


「焼き芋って落ち葉が大量にないとできないよね?」

 俺には厳しくてあとは大らかで適当な姉は、まだ焼き芋のことを考えている。濡らした新聞紙に包んで、その上からアルミホイル、だっけ? 家じゃできないよねー。半分ひとり言のように続ける。なんか壮大なことになってない?

「イトーヨーカドーの野菜売り場に焼き芋売ってるじゃん」

 俺が言うと、たしかに、とひらめき顔になる。大らかで、適当で、あとアホ。

「ちょうど夕飯の買い物行こうと思ってたし、ちょっと行こうよ」

「ええ」

 大らかで適当で、話が早い。全部俺にはない。

 母は仕事だし、姉が食事担当に定着したのは大学生になったあたりからだ。でもだいたい姉の胃袋三人分で作るから俺は足りなくて、おかげで俺も何かしら作れるようにはなった。できることはできる人がやる。が基本の家だった。


 姉は言い出すとさっさと部屋に戻る。

 母姉俺の三人だと、二人のどっちかが言い出したその場のノリで物事が決まった。父姉俺ではそうはならなかった。その三人なら父が決めた。どこに行くか何を食べるか。

 姉が母に何かをしようと言うのは提案とかお誘いに聞けたけど、俺が父にそう言うとすれば、それはわがままに聞こえる気がした。父が決めてくれたことを享受するのが一番良いことだと思われた。


「まだ部屋全然片付いてない」

 足元で煙草の火をもみ消し、部屋に向かって答える。

「泊まってけば」

「それもめんどい」

 灰皿が見当たらなかったので、吸い殻は箱と包装ビニールの隙間に押し込んだ。姉を追って部屋に戻りながら、母と姉の思いつきに身を任せるこの家の居心地を思い出していた。

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風貌 芳岡 海 @miyamakanan

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