ワイングラス

「真弓さんは元気?」

 テーブルの向かいから父が聞く。それが元夫としての務めみたいに。それが自分と子供を繋ぐ事柄みたいに。本当は、子供の俺らこそが父と母を繋ぎとめてしまっているのだとしても。

 連れられてきた店は駅からは少し離れたところにあって、バルのようなレストランのようなところで、普段チェーン店ばかりの俺にはどういうジャンルのどういうシチュエーションの店として人がここに来るのかピンとこなかった。

「俺も最近帰ってないし」

 そのままを答える。白いワイシャツに黒い腰のエプロンをした学生アルバイトには見えない店員が、布張りのメニューを俺らの前に置く。

「あまり帰らない?」

「夏休み前半に何回か。地元のやつらに会いたいのもあったから。あとはバイトとかしてたし」

 そうだな、と父が何に対してでもなく同意する。


 大学はどうですか、と父親から連絡が来て、別に何事もないよ、と返した。本当に何事もなかったから。

 学校も家もバイトも全てが新しい生活に最初はさすがに疲れたけど、夏を過ぎた頃にはそれらのひとつひとつがローテーションとなって落ち着いていった。

 一人暮らしするよと報告すると電話口で父は、そうか、と言った。驚いたり心配したりはされなかった。母から既に聞いていたのかどうかは知らない。

 今まで、俺のことで父に驚かれたり心配されたりしたことはほとんどなかったような気がする。そういうのはちゃんと母親業をやっている方の役目で、離れているこちらがやるのは見守ることだけと思っているようだった。

「前より近くなるな」

 アパートの住所を伝えると父はそう言った。

 郊外の住宅地である俺の家よりも父の家は都心で、俺らにとってそっちは遊びに行く方で、人も物も情報も多く新しく見えるところだった。


 子供の頃、姉と俺の二人で父の家に遊びに行っていた。父は俺たちを電車に乗せ、ビルの中にある小さい水族館とか、映画館とか、小学生向けの展示をやっている博物館なんかに連れて行った。食事の時間は適当で、俺が夕方に甘いものを食べて夕飯が入らなくてもそれでいいじゃないか、という顔をしていた。姉と三人、一日父の家で人生ゲームをしたこともあった。家にいれば父が食事を作ってくれた。泊まりのこともあれば日帰りのこともあった。そういう距離だった。


「変なところに寄り道しないのよ」

 あるとき、家を出る前に母が行った。

「変なところってどこ」

 俺が聞くと

「子供だけでお金は使わない」

 とかなり広い禁則事項が言い渡され、あんたが余計なこと言うから、とあとで姉に文句を言われた。父の家に行くのは、イベント的な楽しみとともに、厳しい母に対する甘い背徳感があったように思う。父と母が離れて暮らすようになったのは俺が小学校の二年の時だった。


 食事でも行こうか。父から連絡が返された。いいよ。そう答えて、バイトのない日をいくつか伝えると一番早い日を指定された。場所はどちらの家の最寄りでもない駅名を言われた。

 姉と二人のときは電車で行って、駅まで父が迎えに来てくれていた。それだって待ち合わせだったのだけど、今回の方がより待ち合わせという感じがした。それぞれに生活のある人間が、そのときだけお互いの時間を交差させている。

 仕事帰りということには顔を合わせてから気づいた。平日の父には当然仕事がある、ということと同時に、平日に電車や街中で見る会社員の一人に父がいる、ということに改めて気づいた気がした。グレーのスーツにノーネクタイ姿の父が雑踏の中に何も言わずにいたら、俺は気がつけるだろうかと思った。


「最初は生活に慣れるだけで精一杯だろ」

 何十年も前の、自分の一人暮らしの始まりを思い返すように父が言う。

 ジャケットを脱いで席に座り、オメガの腕時計のステンレスのベルトを外し、テーブルの端に置く。その端はきちんと神経が行き届いている範囲に見えた。

「そろそろ落ち着いた頃だろうから、誘ってもいいかと思ってね」

 弁明のような、それがこちらとの適切な距離のように言う。

「そーだね」

 メニューに続けて店員が置いた水のグラスに口をつけて答える。ただの水かと思ったら、すっとレモンの香りがした。

「難しいことないと思ってたけど、生活するだけで疲れた。でももう慣れたよ」

「うん。なら良かった」

 俺の顔を見てそう言った。父独特のくだけた口調だった。言葉が丁寧なまま、端々がくだけている。

 父の顔を久しぶりに向かい合って見たと思った。店の間接照明のせいだったかもしれないけど、目元のシワが深くなったように見えた。笑うとくっきりする目尻のシワ。


 板張りの床に店員の足音が響く。テーブルに置かれたメニューを手に取ると、ドリンクと食事でそれぞれ一冊ずつあった。壁の方にもチョークで手書きされた黒板のメニューがあるけど、あんまり店のシステムがわからない。俺が食べ物のメニューをひらくと、父がドリンクの方をこちらに差し出した。

「大学生なんだから、もう飲んでもいいだろ」

 実の父親が公然と未成年飲酒を進めてくる。そこは俺が飲むのを止めるくらいであってくれよと思う。

「俺まだ未成年だよ」

 答えると、そう? と聞き返された。笑った目尻にシワがよる。俺は笑ってもそういう目にならない。母親似なのだ。いい、と意地になって首を振った。


「姉ちゃんの声がさ、母さんにどんどん似てきてて、俺になんか言うときの口調が最近特にそっくりなんだよね」

 母親の近況の代わりに思い出して言った。子供対大人の二対一だったはずが、近頃は女対男の二対一で俺が少数派になってる気がする。

「そういうものなんだな。まあもちろん、一緒に暮らしてるからなんだろうけど」

「電話したら一瞬どっちかわかんないの」

「圭一がわからないんじゃ、僕はもっとわからないだろうなあ」

 椅子にもたれた父は、そう言ってゆっくりと笑った。俺ら三人の話を聞くといつも父は嬉しそうな顔を見せた。自分が含まれない三人であることにどこか満足そうでもあった。


 決まったか、とメニューをめくる俺に聞く。俺が頷くと片手を挙げて店員を呼んだ。水のグラスを置いたあと下がっていた店員が近づいてきた。平日だからか小さな店内に客はまばらで、ホールにいる店員はその一人で今は事足りているようだった。

「飲み物はいいのか。アルコールじゃなくて」

 父が再度聞いた。

「ジンジャエールにする」

「じゃ、ひとつはそれで。あと、ハウスワインはある?」

 ございます、と店員が答える。なら白をもらおうかな、と父が言う。言葉が丁寧なまま、端々はくだけている。

 店員が店の奥に下がっていく。奥にキッチンと通じる小窓のような小さなカウンターがあって、出来上がった料理はそこから出されるようだったが、俺が来てからはまだサラダが一度出されたきりだった。


「電話はわからないよな」

 父がさっきの話を続けた。

「声質って遺伝なんだね」

 同意して答えた。俺と父さんが似てるのかわかんないけど。そう付け足すと、

「どうだろうな」

 としか言われなかった。父はそれでもどこか満足げな顔をすると、真弓さんと合言葉でも決めておこうかな、と冗談の口調で言った。ふうん、と思う。合言葉決めるとしたら母さんの方なんだね。

 店員が俺らのテーブルの横に立ち、中央に店の緑色のロゴが描かれた白い厚紙のコースターと、それからワインのグラスを父の前に、俺の前にはジンジャエールをそれぞれ並べる。父は椅子にもたれたままその手元を丁寧に見守り、店員が小窓のカウンターの中に立ち去るのを充分に待ってからグラスを取り上げた。

「じゃ、遅くなったけど。大学入学おめでとう」

 俺と乾杯したくて酒を勧めたのか、とそこで気づいた。

「ありがとう」

 満たされた子供の素直さでそう言った。このシチュエーションでこっちのグラスにストロー刺さってんのは本当にダサかった。カウンターの奥のキッチンで肉を焼く音と人が動く気配がしていた。


「ビールとか日本酒がそうだけどね」

 グラスを置いた父が話を続ける。

「人に注いでもらったら、一回は口をつけること。注いでもらってそのままテーブルに戻さない」

「わかった」

 ゼミ飲みの、コールばっかの飲み会は死ぬほど嫌いだったけど、誰にも見られていなくてもそうしようと思った。

「あとちゃんぽん飲みは一番悪酔いするからやめろよ」

「気を付ける」

 できる限り、と心の中で付け足しながら。

「ま、でも」

 心の中で付け足したのがわかったかのように、父はニヤッと笑った。

「酒の失敗は学生のうちにやり尽くしておけよ」

 つられて俺も笑った。今の自分の笑い方はこの人に似ていただろうと思った。父の酒の失敗を、今度帰ったら母に聞いてみようとも思った。なんとなく、母は知っているだろうと、それを父が考えているだろうというのがわかった。

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