風貌

芳岡 海

犬小屋

 借りたアパートの近くに、スーパーは三軒あった。

 駅を出てすぐに一番大きいのがあって、そこは北海道フェアとかエスニックフェアとかいつも何かしらやっていて平和だった。もとから持っていたポイントカードも使えた。

 歩いていくと住宅街に、コンビニみたいなサイズのスーパーがあった。

 一番安いのは、少し離れたところにあるローカルなところだった。酒が充実していた。見たことないメーカーの一リットルパックのミルクティーが置いてあった。レジの横の透明のアクリルケースの募金箱に、半年前にニュースになっていた豪雨災害の募金を集めていますという紙がユニセフ募金の紙の上から貼られていた。

 最初の二週間でいろいろ行ってみて、結局駅から一番近いところで落ち着いた。そこまで激安ではないけど、ポイント貯めればいいということにした。それに総菜が美味しかった。あんまり買わないとは思うけど。


 自炊好きかって言われると、嫌いではない、くらいだと思う。

 外で食べる金もそんなにないから、高校生の頃から腹が減ったら実家で料理はしてた。よく作りすぎちゃってそのまま母と姉の夕飯の足しになっていた。家にあるものは自由に使って良かったけど、使い切ったら連絡することだけルールだった。一回思い立ってクッキー焼いたら、母と姉はおもしろがってぱくぱく食べていた。

 母と姉と俺の三人暮らし。できることはできる人がやる。できない人の分までできればやる。そんな家だった。


 牛肉は本当に高い、バターもビビるくらい高い、もやしは本当に安い。ということを、二ヶ月ほど経つ一人暮らしのあいだで知った。豚バラより豚小間の方が安い。しらすって意外と高い。野菜の値段はすぐ変わる。ということも初めて知った。そう言ったら「当たり前じゃない」と母ではなく姉が知ったような顔で言った。「圭一は気まぐれで作るくらいだったけど、私は日々の買い物だってしてたよ」あんた実家暮らしでしょ、と言いそうになったけど反論しなかった。大変だからといって一人暮らしがえらいわけじゃない。


 頑張れば大学まで通えないこともなかったけど、大学の立地が悪いせいでドアドアで二時間以上かかるし、ラッシュ時間帯の電車はしょっちゅう遅延する。往復で一日四時間半は移動時間にあてることになる、ということが決め手になって母親は一人暮らしに賛成した。そういう非生産的なことが嫌いな人なのだ。


 平日夜の終わりかけのスーパー。

 遅い時間に野菜売り場より総菜売り場の方が混みあうのはどこも一緒だ。

 いわゆる女手一つというやつで姉と俺を大学までやって、俺は一人暮らしまでしていて、母親は実はすごいのかもしれない、と売り場に踊る特売の文字を見ながら思う。まあ、父親も養育費は出しているのか。たまに会ってもさすがにお金のことは聞いたことはない。

 もやしと豚ひき肉だけ買って帰った。四百八十円だった。外食でこれなら安いけど、実際この買い物が安いのか高いのかよくわからない。


 ひんやりしたワンルームに玄関の灯りがともる。ただいま、と頭の中だけで言う。

 確かに実家のマンションに比べたら圧倒的に簡素というしかないこのアパートは、自分で内見して決めた。あとで見に来た母親は、容赦なく「犬小屋みたいね」と言い放った。薄いとわかる壁。箱、という感じの外観。容赦ないときの母親は本当に容赦がないのだ。だって学生の一人暮らしだよ、と俺の方が言った。金を出してもらう側の俺が気を使わないように、という配慮があったのかもしれないとあとで一瞬思ったけど、やっぱり絶対そんなことはなかったと思う。


 犬小屋のように狭い玄関で靴を脱いで寄せて、スーパーの袋はキッチンに、カバンは部屋の床に放った。ベッドに座って携帯を出したところで、母親からの連絡に気づいた。

「近々荷物送るけど、何かほしいものある?」

 引っ越し直後、母親が食品や生活用品の荷物を送ってくれた。それの二回目があるらしい。仕送りと言えば仕送りだけど、それって故郷のお袋がふるさとの味を送ってくれるみたいなイメージじゃないの。うちのは普通にまとめ買いした缶詰とか、コストコのパンとか、乾燥わかめが入っていた。隙間埋めとしてトイレットペーパーが一個だけ入っていた。

 家の一部が空気ごと送られてきたような箱の中だった。でも箱の上部に貼り付けられた送り状に、吉澤圭一様、と母の字で俺の宛名が書かれたのを見るとよその家の人間になったようだった。

 なんか今いるものあったっけ、と思って部屋を見回す。

 最近はこの部屋も一通りの物が揃ってきていた。引っ越し当日の夜、カーテンだけ取り付けて、ベッドにマットレスしかなかったこの部屋は、本当に犬小屋か、もしくは独房だった。

 今は人間味が出てきたと思う。生活感ともいう。炊飯器を置いているラックの下の段には、先週宅飲みしたときに残った焼酎のパックが置かれている。その横のダイソーの収納ケースに、レトルトのカレーとお茶漬けと無印のパスタソースとが突っ込まれている。まあまあストックはあるなと思う。炊飯器の横にスピーカーが置いてあって、それと炊飯器のコンセントがごちゃついているのが目について、結束バンドできれいにできないだろうかと余計なことを考える。ラックと壁のすきまに押し込んだ四十五リットルのゴミ袋を見て、取りやすいけどよく考えるとあれって収納したことになってる? とさらに余計なことを考える。

 生活感。実家の頃に消したくても消せないどうしようもないものだと思っていた一個一個が、自分の痕跡に思える。


 怠いより空腹が勝って立ち上がった。さっきのスーパーのビニール袋を取り上げる。

 買ってきたもやしの袋を開けて、豚ひき肉のパックも開け、フライパンを出して全部入れる。安い他にこの食材がいいのは、包丁を使わなくていいところ。思い出して塩コショウを振る。さらにあとから思い出してサラダ油を入れる。

 火と換気扇がつくと、ようやく部屋が稼働し始めるようだった。なんかかければ良かったと、スピーカーの方を思い出すけどもういいかと思ってやめる。


 ラジオや音楽を流しながらキッチンにいることが多いからだろうか。コンロの前にいても、少し体が部屋の方を向くのが癖になりかけている。

 先週宅飲みしたとき、夜中に食べたくなってチャーハンを作った。俺がここに立って白米を温めたり冷凍のネギを出したりフライパンの油を熱しているあいだも、来ていた友人二人はありがとうとかいい匂いだとか言ってくるだけで動かない。俺は体を半分部屋に向けて会話に入っていた。働けよ、とちょっと言ったけど、あんまり悪い気はしていなかった。


 狭い部屋だ。狭すぎてよくいろんなところに手や足をぶつける。実家を出る自由さだって喜んでいたはずだ。二ヶ月も経って今は生活の動線もできあがってきていた。

 それでもときどき、一人暮らしのこの部屋で体をどちらに向けていたらいいのかわからないようなときがある。


 ハリのあるもやしが少しずつしなっていくのを見ながら、箸でひき肉を崩していく。調理の作業は無心になる。やっていると肉の匂いが漂い始めてきた。料理酒(兼、飲む用の日本酒)を入れて蓋をする。数分したら冷凍の白米をレンチンしよう。

 自分の腹を満たすための準備。料理というよりも、こうして食材に調味料を入れて加熱すると自分の空腹が解消される、そういう仕組みの作業だと思っていた。


 部屋から煙草と、ついでに携帯も取ってきて、換気扇の下で百円のライターで火をつけた。煙は煙草の先で一瞬ゆらめいてから、ひゅうと吸い込まれていった。いるものある? の連絡にまだ返信をしていなかった。

「米」

 とだけ打ったら何か記号みたいだったので、「あと何かうまいもの」と続けた。それから思い出して、「変なパンはやめて」と付け足して、返信した。前回コストコのなんとかプレッツェルみたいなパンが入ってて、食事なのかおやつなのかわからず持て余した。

「じゃあ普通のパン送ります」

 すぐに返信が来る。向こうももう家に帰ってきているようだった。俺が返すより前に、続けて写真が送られてきた。見るとコストコの大袋のロールパンと、絶対四人以上いないと食べきれないだろというでかいティラミスと、いくつかの調味料と姉らしき手が写っていた。

「ティラミス二人占めしてるから、圭一もパンは一人占めしてね」

 こっちが一人暮らしになんとか慣れようというころ、向こうはすっかり女二人暮らしを満喫しているらしかった。


 昔仲良かった友達の家に、犬がいた。小学校の高学年のときだ。友達はちゃんと犬のボスに君臨して言う事を聞かせているから俺は感心した。雑種の白い中型犬で耳がぴんと立った犬だった。友達が名前を呼ぶと、犬は硬いフローリングの床に爪をちゃかちゃか言わせて得意げにかけてきた。室内飼いだから庭に犬小屋はなく、夜はリビングの一角にあるケージで寝かせるのだと言っていた。

 あるとき俺が遊びに行くと、そいつが餌をもらっているところだった。がっついてもぐもぐやりながらも、犬は友達の方をちらちら気にする。「見られてると落ち着かないのかな」と俺が言うと「違うよ」と友達が言った。犬は群れの生き物だから、一人で食べてるのが落ち着かないんだよ。一人占めしていいの? って思うらしいんだ。


 母と姉はティラミスを二人占めしている。あの様子だと、実家の俺の部屋もそのうち占領される。

 こっちはこっちでロールパンとか、犬小屋みたいなこのワンルームとか、自分で作った飯を一人占めしておこうと思った。換気扇の下で煙草を吸うなと文句を言う人間も、フライパンを覗いて野菜が足りないと口を出す人間もいない。家族という群れ生活はしばらく忘れて、誰のためでもない生活をせいぜい満喫してやればいいのだと思った。

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