舞姫

ハシモト

舞姫

「説明は以上になります」


 そう告げると、柊聡ひいらぎさとしはレーザーポインタをテーブルへ置き、楕円のテーブルに座る面々を見回した。椅子がきしむ音と、資料をめくる音が辺りに響く。やがて正面に座る男が顔を上げて柊を眺めた。


「柊君。ご苦労だった。君の説明自体はよく理解できた。だが――」


 男はそこで言葉を切ると、テーブルに座る面々を見回す。


「このプロジェクトに必要な投資は小さくない」


 そう告げると、柊へ視線を戻した。


「先ほどご説明した通り、合弁会社を設立したうえで、複数のファンドから資金を調達します。出資先については内々に話を通してあります」


「そこだよ。その点について、覚書以上の確約が欲しい。それに考えられるリスクと、それ毎の発生し得る損失について、もっと詳細な数字の算出と根拠の提示だ」


 柊はそう告げた男の顔をじっと見つめた。この男はこちらが正式なオファーを出さないでおいて、相手から形に残る約束をさせろと言っているのを、理解しているのだろうか?


 契約とは一方的なものではない。いくつかのプロジェクトの失敗によるプレッシャーが、そんな基本的なことすら忘れさせたのか? いや、単に愚か者を装った保身? おそらくはその両方だ。


「社長。リスクの評価の詳細化については、早急に部内でまとめさせていただきます」


 すぐに答えなかった柊に代わって、テーブルの一番端に座る部長の金沢が声を上げた。


「この件は弊社にとって極めて重要なプロジェクトだ。慎重に検討する必要がある」


「はい。おっしゃる通りです」


 いかにも納得した顔で頷く金沢を、柊はうんざりした気分で眺めた。ここに居る者たちは、時間こそが一番取り返しのつかないリソースであることも忘れたらしい。


「来月の役員会でも、引き続き報告をお願いする」


「はい」


 柊はテーブルに置いたノートパソコンを閉じると、扉へと向かった。そして廊下へ出た瞬間、小さくため息をつく。


 この男たちは全てが出揃った状態にならないと、事業の可否も決められないのだろうか? そうだとすれば、算数が理解できる小学生でも、ボードのメンバーは務まることになる。


 柊は金沢の役員たちへの追従の言葉を背後で聞きながら、エレベーターホールへ向かった。




「柊、役員会でゴーは出なかったらしいじゃないか?」


 柊がコーヒーサーバーの前へ向かうと、同じ部の伊藤が肩をすくめて見せた。伊藤は柊よりもいくつか上の先輩だ。


「ええ。リスク評価の詳細化、可能な限り具体的な数字を出せとのお達しですよ」


「その手はどこまでやってもキリがないんだがな。うちの上も中国やロシアでの大損失があるから、相当にビビっているんだろう」


「そうですね。そうだ、伊藤さんが社長をやってくださいよ。話が早く済みます」


 柊の台詞に、伊藤がカラカラと笑って見せる。


「俺か? 俺みたいなはみ出し者には絶対無理な話だ。でも柊、お前も無理だな。一匹狼な上に、とてつもなく優秀な奴が上に立ったら、下にいるやつは全員首をくくりたくなる」


「お世辞はどこかのクラブの女性にでもとっておいてください。リスク評価の方はなんとでもでっち上げられますが、投資先からの覚書を取れと言うのが問題です」


「こちらからは何も正式なオファーを出していないのにか?」


「ええ。どんだけ上から目線なんですかね。交渉上もマイナスでしかありませんよ」


「会社の看板で全てがうまくいった時代を忘れられないのさ。国もドイツに抜かれそうで、五本の指の中にだっていつまでいられるか分からない。うちの会社ときたら、この国以上に急降下だけどな」


 そう言うと、伊藤は手を墜落する紙飛行機みたいに動かして見せる。


「それで、用事はなんですか?」


 柊はコーヒーサーバーのエスプレッソのボタンを押しながら、伊藤に問いかけた。見かけはちゃらい感じを演じているが、伊藤は優秀な男で無意味なことはしない。何か用事があって、ここで自分を待っていたのは間違いなかった。


「そうだな。一つはそのコーヒーサーバーは本日の夕方から故障で、お湯すら出ない」


 伊藤の言葉に、柊はエスプレッソのボタンから指を離して機械を眺めた。電源は入っているらしいが、全く持って動く気配はない。


 柊はだいぶ前に煙草をやめていたが、その代わり周りがカフェイン中毒ではないかと心配するぐらいに、コーヒーをがぶ飲みするようになった。自分でもコーヒーなしだと、能力の何割かが失われる気がするぐらいだ。


「それと部長が今後の方針の打ち合わせをしたいそうだ。説明資料を作って、役員たちへそれを持っていきたいらしい」

 

「まいったな……」


 柊の口から思わず言葉が漏れた。打ち合わせと言っても、先ずは金沢の演説を聞くところから始まる。すぐに終わるとはとても思えない。それをコーヒーなしで聞くことになると思うと、心の底からうんざりした気分になってくる。


「この時間だったら、まだコーヒー屋は開いているんじゃないか?」


 柊の表情に気付いたらしい伊藤が、下を指さして見せる。


「いいんですか?」


「そのぐらい待たせてもいいさ。本来なら今日は即刻解散でもいいぐらいだ。とりあえず俺が部長の演説を聞いておいてやるよ」


「すいません」


 伊藤は片手を上げると、オフィスへ戻っていった。



「ずいぶん混んでいるな」


 柊はビルの一階に入っているコーヒーチェーン店の前でぼやいた。昼はノートPCを広げた男女に占拠されているが、この時間になれば、店員が手持ち無沙汰にしているだけだ。だが今日は若い女性のグループやカップルが、店の外まで行列を作っていた。


 振り返ると、落ちた葉の代わりに、オレンジ色の光をまとった街路樹がまぶしく光っている。どうやらそれを見学に来た人たちらしい。サンタの格好をした若い女性が、カラオケ屋の看板を手に道を歩いて行くのも見える。


 柊は自分が下りてきたビルを見上げた。一番上の役員室がある階以外は煌々と明りが付いている。オフィスに戻るか? そう思ったが、裏通りの再開発予定地に、小さな喫茶店があったのを思い出した。


 戻っても金沢の意味のない演説を聞くだけだし、それに伊藤の方が、自分よりもよほどに金沢のことをうまく扱えるだろう。


 ダウンコートの襟元を手繰り寄せると、柊はビルの間の路地へ入った。どこから迷い込んだのか、猫の鳴き声を聞きながらそこを抜出すと、未だに昭和の風情を残す、古い雑居ビルが点々と立つ場所へ出た。


 もっとも以前とは違って、ビルよりも空き地と駐車場の方が目立つ。いくつかの雑居ビルはすでに取り壊しが決まっているのか、窓に明かりすらない。


 それでも前方に、ソンブレロメキシカンハットを頭に被った黄色い看板が光っているのを見つけた。店員が店から出てきて、看板へ手を掛けようとするのを見て、慌てて店先に向かって駆け出す。


「コーヒーをテイクアウトしたいのですが、まだ大丈夫ですか?」


 柊の問いかけに、年配の老人が看板に手をかけたまま顔を上げた。


「大丈夫ですよ」


 老人はそう言うと、柊の為に店の扉を押す。中からはコーヒーのなんとも言えない香ばしい香りが漂ってくるが、閉店間際のせいか、中に客は誰もいなかった。


「ご注文は?」


「ブレンドを二つでお願いします」


 どう考えても戻るのは遅れる。伊藤にも手土産ぐらいは持っていかないといけないだろう。金沢は紅茶派でコーヒーは飲まないから、二つあればいい。老人は柊の注文に頷くと、アルコールランプに火をつけた。


 やがてポコポコと言うお湯の沸騰する音が響き、老人は挽いた豆をサイフォンのロートへ入れる。下からお湯がロートへと上がっていき、老人が素早くへらでコーヒーを攪拌した。やがてコーヒーは芳醇な香りを振りまきながら、まるで魔法みたいに下のフラスコへと戻っていく。


「お待たせしました。ブレンドコーヒー二つで880円です」


 柊は財布から小銭を出し、持ち帰り容器に入ったコーヒーを受け取った。かじかんだ手にコーヒーの温かさが心地よい。


 外へ出ると、隣の雑居ビルではちょうちんが赤い光を放ち始めている。その隣にある安っぽいラブホテルへ、イルミネーションを見に来たらしいカップルが、そっと消えていくのも見えた。


 柊がそんな風景の間を拔けて、役員への報告について何を言おうか考えながら、駆け足でビルの間へ駆けこもうとした時だ。急に暗がりから何かが飛び出してくる。


 柊は体をひねって必死にそれを避けようとしたが、コーヒーを持つ手が相手にぶつかってしまった。ぶつかった手の先にやわらかいものを感じる。どうやら相手は女性らしい。


「大丈夫ですか!?」


 柊は慌てて声を掛けた。目の前にはサンタクロースの衣装に身を包んだ女性が立っており、二杯分のコーヒーがかかった自分の姿を茫然と眺めている。


「ちょ、ちょっと!」


 少し小柄な女性は、自分の赤い衣装に思いっきりかかったコーヒーに慌てた声を上げた。


「申し訳ありません」


 柊はポケットからハンカチを出し、服の上を流れるコーヒーを拭いた。フェルト地の服で生地が厚かったため、やけどはしなかったのがせめてもの救いだ。


「染みになるじゃない。これって借りものなのよ!」


 女性は口を尖らせた。アルバイトの女子大生かと思ったが、年はもう少し上だ。それに化粧のやり方が学生のそれではなく、夜の商売に近い。クリっとした目の童顔で、愛嬌のある顔立ちをしている。


「クリーニング代と、ご迷惑をおかけした分は私の方で――」


「お金だけの問題じゃないの。これから毎日誰かが使うやつなのよ!」


 柊は女性の台詞に少し驚いた。正論だ。世の中には金でどうにか出来るものと、出来ないものがある。女性が無言の柊を尻目に辺りを見回した。そして何か思いついたらしく、ぽんと手を打って見せる。


「お兄さん、悪いけど付き合ってもらうからね」


 そう声を上げると、女性は柊の手を強引に引っ張りつつ、先ほどカップルが消えた入り口へ向けて歩きだした。



 風呂場から水音が響いている。それを聞きながら、柊はテーブルに置かれた紙タバコのパッケージを手にした。煙草をやめてからずいぶん経つが、今は何故かそれを無性に吸いたい気がする。


 煙草を手に、柊は何がどうしてこんなことになっているのかを思い返した。ホテルに着くなり、女性は上着を風呂場で洗い始めた。そこまではまあいい。問題はその後だ。むしろ柊の方が押し倒されるように体を重ねた。


美人局つつもたせか?』


 最初はそう思ったが、そういう訳ではないらしい。女性は事が終わった後で風呂場に戻ると、洗った服を絞って乾かそうとしている。柊は手伝いを申し出たがあっさりと断られた。


「落ちそう?」


 柊が風呂場から出てきた女性へ声をかけた。


「すぐに洗ったから落ちたと思う。それに化繊だから何とかなるでしょう」


 女性がタオル一枚巻くことなく、素っ裸なまま笑って見せる。


「でも付き合わせて悪かったわね。私もここしばらく色々と溜まっていて……」


 しかし女性はそこで言葉を切ると、柊の手に煙草のパッケージがあるのを見て、怪訝そうな顔をする。


「やめときなよ。体に悪いよ」


 そう言うと、柊の手からたばこの箱をひったくった。そしてパッケージごとひねりつぶすとゴミ箱へと放り投げる。


「あんたのじゃないのか?」


「そうだけど。私もやめることにした」


「はあ?」


「だからお兄さんもやめなよ」


「ああ、分かった」


 柊はそう答えつつ、目の前の裸体へ視線を向けた。年は20台の後半ぐらいだろうか? 適度に鍛えているらしく、無駄な肉はついていない。だが女性らしい曲線も留めている。


「あら、今頃になって眺めているわけ?」


 女性が柊に胸を突き出して見せた。それはきれいな曲線を描いた双丘で、その先端に小ぶりな乳首が乗っている


「これでも体にはちょっと自信があるんだ」


 そう言うと、女性はベッドから飛び降りた。そしてつま先立ちになると、頭を膝につきそうなぐらいに折り曲げる。おろされた手がゆっくりと持ち上がり、その指先がそれぞれ別の命を吹き込まれた如く動き出した。


 女性はそのままゆっくりと上半身を持ち上げると、肩から薄絹を脱ぐ仕草をする。柊の目に、存在しないはずの衣装がはっきりと映った。


 そのまま足を開脚して床へつけると、どこか遠くを見る表情で薄絹をどこかへ投げ捨てる。そのまま天高く手を掲げ、背中をブリッジさせつつ、上体を徐々に後ろへとそらしていった。


 柊の前に彼女の女性器が隠されることなく露になる。しかしそこから感じるのは色気というより、古代の人があがめた女神みたいな神聖さだ。もしかして子供がいるのだろうか? その先の下腹部には長く少し目立つ傷も見える。


「どう? エロかった?」


 女性はそうつぶやくと、まるでサーカスの軽業師が身をひるがえすみたいに起き上がった。そして柊ににんまりと笑って見せる。


「あんたは……」


「そう。サンタクロースはバイトで仮の姿。本業はストリッパーよ。もっともいつも踊っていた小屋はつぶれちゃって、最近は全然踊っていないけどね」


 今度は切れのある動きで腕を横に振りながら、女性が激しいステップを踏んで見せる。


「やっぱり踊っていないと肉がついちゃうよね。前はヒップホップとかもやっていたんだけど、こっちをやったらはまっちゃって」


「はまる?」


 そう告げた女性が自分の下腹部へ視線を向けた。


「お兄さんに言う話じゃないけど、初めて子供が出来た時に子宮にしこりが見つかってね。最初は子宮筋腫かもしれないと言われたんだけど、どうやら悪性だったらしいの。それで子供も流して、子宮もとっちゃった」


 無言の柊をちらりと見ると、女性は言葉を続けた。


「変な慰めの言葉をかけるより、黙っていてくれる男の方が好きよ」


 そう言うと、口の端を小さく持ち上げて見せる。


「子供を諦めればあんたは助かる。だけど子供を諦めないなら、あんたも子供も助からないと言われた。医者は子供が私に病気を知らせてくれたんだと言ったけど、私から言わせれば、なんでもっとまともな生活をしなかったんだって言われた気がした」


 女性が自分の下腹部にある傷へそっと手を添えた。


「だからかな。舞台の上で踊っているときは、まだ私が女であることを確かめられる。そんな気がするんだよね」


 その姿を柊はかける言葉もなくただ見守った。


 ブー、ブー、ブー!


 不意に女性の背後で彼女の携帯が振動音を立てる。


「まずい! もう戻る時間だ」


「服はまだ乾いていないだろう? いくらなんでも風邪をひくぞ」


 そう問いかけた柊に、女性が壁にかかっている柊のダウンコートを指さした。


「そう思うのなら、あなたのコートを貸して頂戴!」




「今度は人にコーヒーをかけないように気をつけてね!」


 そう告げると、女性は柊に対してフンと鼻を鳴らして見せた。濡れたサンタクロースの衣装を入れた、フロントからもらったゴミ袋を背中に担いでいる。


 サンタクロースの衣装のままなら演出の一部とも言えるが、足首まである男物のダウンコートでごみ袋を担ぐ姿は、まるで古典的な漫画に出てくる泥棒の姿そのものだ。


「私の連絡先。連絡してくれたらコートは返すから」


 女性が差し出した紙を柊は手に取った。それはパンフレットで派手な化粧をした女性たちが並んで映っている。柊はその中の一人に目を留めた。


舞歌まいか?」


「来週の香盤。ちなみにそれ、私の本名なんだ!」

 

 そう声を上げると、舞歌はさびれたネオンの先へと足早に駆け去った。



 柊は朝食の片づけをしながら、カウンターへ置いた携帯をちらりと眺めた。その画面は信じられない数の不在着信があることを告げている。柊はそれを冷めた表情で眺めると、江戸錦が泳ぐ水槽へ携帯を投げ入れた。


 だが水の中でも、画面は新たな不在着信の存在を告げてくる。その前を赤と黒をまとった江戸錦が悠然と泳いで行くのを見て、柊は口元に苦笑いを浮かべた。


 だがすぐにカウンターの片隅においた写真へ手を合わせて部屋を出る。そして電車に乗ると、昔は盛場だったが、今はすっかりさびれた街の駅で降りた。


 もらったチラシを手にあたりを見回すが、雑居ビルがならんだ複雑な迷路みたいな街並みに、目的の路地が見つからない。携帯で調べようとポケットに手を入れたが、携帯は部屋の水槽へ入れたままだ。


 柊は再びチラシに目を落とすと、一軒一軒のビルを確かめて、目的のビルの前へ立った。ピンク色の外看板が劇場の存在をわずかに主張している。まだ昼前の時間だったが、看板の照明はすでに点いていた。


 吸い殻が何本も落ちている入り口を奥へ進むと、扉の先から昔のアイドルの曲が聞こえてくる。受付で中年男性が入り口横にある券売機を指さした。


「お客さん。今日は特別公演で、早朝割引は終了だから、7000円になります。ちょっと待って。こいつは癖があってね」


 カウンタから出てきた男性が柊から一万円を受け取ると、自分でそれを券売機へ差し込んだ。そしてお釣りの三千円を柊へと戻す。


「うちは平日の入れ替えはないから、ごゆっくり」


 柊は受け付けがめくった、元の色がもう何色だか分からないほど灰色に汚れたカーテンをくぐった。その先ではミラーボールが回り、懐かしいスキーソングが大音響で流れている。見れば席は50を超えるかどうかの小さな劇場だ。


 意外なことに、席の半分ぐらいはすでに埋まっていた。そのほとんどは間違いなくかなり高齢な人たちだ。柊は券売機に60歳以上の割引チケットがあったのを思い出した。それを使って、一日をつぶしに来た人たちだろう。


 舞台の上ではランジェリー姿の女性たちが五人ほど並んで立っていた。一人はギリギリ20代ぐらいに見えたが、残りの女性はそれなりの妙齢に見える。


 それに舞歌の姿はない。もしかしたら今日は休みだったか? 事前に電話で確認しなかったことを少し後悔しつつ、柊は一番後ろの席へ腰を下ろした。


「ここからはお待ちかねのバラエティータイムです。先ずは抽選から!」


 そう声を上げると、女性が二人前へ進み出た。一人が差し出した抽選箱に、一番ふくよかな女性が手を差し入れる。


「えっと、12番! おめでとうございます。仲良しタイム!」


 一番前の席に陣取ったジャンパー姿のおじさんが勢いよく手を上げる。


「いっちゃん、おめでとう! 今日は誰にする?」


 おじさん、いや、おじいさんは背後に並ぶ女性の中で、眼鏡をかけ、コスプレ風の下着を着た一番若そうな女性を指さした。


「ももちゃんね! では皆さん、いっちゃんとももちゃんに拍手!」


 会場からまばらな拍手が上がる。眼鏡をかけた女性は一番前の席へ移動すると、ブラを外しておっさんの膝の上で腰を振った。何人かの当選者が呼ばれ、それぞれ胸をもんだり、ハグされたりして顔をにやけさせる。


 続いて女性が全員で客席へ降りてくると、男性たちへ挨拶しながら席を回り始めた。どうやら全員が誰かの胸を触れる仕組みになっているらしい。柊の前へも眼鏡をかけた子が近寄ってくる。


「お兄さん、仕事はお休み?」


「ああ、休みだ。一つ聞きたいのだけど、舞歌さんは?」


「お兄さんは舞歌さん目当て? 残念ね。あの子は踊りだけで、エンタメやポラはやらないの」


 そう言うと、柊の手を取って胸へ当てる。そして次の席へと移っていった。


「ポラとスペシャルをご希望の方は、今からみくさんと、りっちゃんが席を回りますので、チケットの購入をお願いします。チケットは一枚500円、ポラは一枚、女の子と二人でおしゃべりできるスペシャルは三枚になります!」


 アナウンスが流れると、何人かが席をたってステージの端へと向かう。それは前と同じだが、それ以外はおっパブみたいなものだな。柊はそんなことを考えながら劇場の中を見回した。


「皆様、エンタメタイムをお楽しみいただけましたでしょうか? 続いては本日のスペシャルゲスト、舞歌さんのステージをお楽しみください」


 照明が落ち、真っ暗な中を人影が舞台袖から進み出た。赤いスポットライトがその姿を照らす。


 少し切ない感じがするメロディーが響き、たかれたスモークの中で、上半身を下におろした女の手がゆっくりと動き出す。客席からは大きな拍手も上がり、その拍手に答えるように、舞歌は顔を上げ始めた。その目はここではない、どこか遠くを見つめている。


 そして身にまとった薄手の衣装を翻しながら、まるで神楽を踊るみたいに回りつつ、花道を抜け、舞台の中央へと進み出た。そこで大きく足を広げて、舞台の上へ身を伏せる。


 回転し始めた舞台の上で舞うその姿に、客の間から再び大きな拍手が上がった。だが拍手だけだ。残念なことに、昔はどの劇場にもいたはずの、リボン職人はもういないらしい。


 舞歌以外の5人の女性たちのステージを一通り見終わった柊は、エンタメショウのアナウンスの声を背後に席を立った。昔ながらの踊りを踊ったのは、舞歌の他は一番年かさの女性一人だけだ。


 どうやら柊が知っているストリップ劇場とここは似ているようで違う場所らしい。そんな感想を抱きつつ受付横を抜けようとした時だった。


「お兄さん!」


 背後から声があがった。柊が振り返ると、白いスポーツコートを着た舞歌が立っている。


「来てくれたのね。でも来るなら前もって電話をしてくれればよかったのに。客席で見つけた時は、次のステップを忘れそうになったわよ!」


 そう告げると、小さく頬を膨らませて見せる。


「柊だ」


「えっ?」


柊聡ひいらぎさとしだ」


「ふーん。ちょっと変わった名前ね。でもヒッシーだから呼びやすいか。私のことはマイマイと呼んでね」


 そう言うと、女子高生みたいに、両のほっぺに人差し指を当てて見せる。


「借りてたコートは楽屋に置いてあるから、すぐにとってくるよ。それはそうと、私のステージはどうだった?」


 舞歌は期待する顔で柊を見つめた。


「きれいだったよ。だけど――」


「だけどなに?」


「艶がない」


「ちょ、ちょっと待って」


 柊の言葉を聞いた舞歌の顔色が変わった。そして怒ったような困ったような、何とも言えない複雑な表情をしながら顔をうつむかせる。


 やがて舞歌は顔を上げると、柊の顔をじっと見つめた。その表情は先ほどまでの笑顔と違って真剣だ。


「ヒッシー、あんた何者? どうしてそれが分かるの?」



 柊はいつもよりはるかに遅い時間の電車で都心を拔けると、高級住宅街の近くにある駅で降りた。駅の正面は僅かに丘陵地になっており、そこには背の高いマンションなどは一棟もない。


 それはそうだろう。ここに住む人たちにとって、誰かが上から自分たちの庭をのぞき込むなんてことは、絶対にあってはいけない。


 柊はその坂をゆっくりと上ると、一軒の家の門の前へ立った。車が優に出入りできそうな門は今時の明るいオーク材風だが、その奥には雪囲いをした松が見えている。柊は門の横の通用口にあるインターフォンを押した。


「はい」


「柊というものですが、にお会いしたいと伝えていただけませんでしょうか?」


「はあ」


 インターフォンの向こうから、年配の女性のいぶかし気な声が聞こえてくる。


「奥様にそう言っていただければ分かると思います」


「少々お待ちください」


 柊が通用口の前でしばらく待つと、白いエプロンを身にまとった中年の女性が扉を開けた。


「柊様、こちらへどうぞ」


 お手伝いさんらしい女性の後に続いて、柊は玄関横の日当たりのよい応接室へと通された。そこからは冬の準備を終えた庭がよく見える。


 しばらく待つと、猫を胸に抱いた年配の女性が部屋へと入ってきた。だがその背筋は今どきの若者よりもよほどにまっすぐに伸びており、歩く姿には一部の隙も無い。


「坊、一体何年ぶり、いや何十年ぶりかしら」


 女性は柊の姿を見ると、感慨深げに声を上げた。


「おあねさん、こちらこそ長くご無沙汰しておりました」


「懐かしいね。私をそう呼ぶのは二人だけ。今は坊、あんた一人だけだ」


 そう告げると、柊へ椅子に座る様に即した。

 

「エリートサラリーマンになって、忙しくしていると聞いていたけど。血は争えないね。父親が見たら――」


「お姐さん、私の父親はもうこの世の人間ではありません」


 柊の言葉に、老女は小さくため息をつくと、膝に置いた猫の背中をなでた。


「坊にとってはそうだったね。それで今日はどういう風の吹き回し」


「今日はお姐さんに、お願いがあってお邪魔させていただきました」


「お願い? 私があんたに手伝ってあげられるようなことなど、何もないと思うけど?」


「いえ、これはお姐さんにしか頼めないことなんです。さなぎを蝶にしていただきたいのです」


 柊はそう告げると、女性へ向かって深々と頭を下げた。

 



 柊は舞歌から聞いた住所の近く、下町の駅で降りると、駅横の小さな路地へと足を踏み入れた。線路沿いにある、長屋みたいに横に長くつながった建物が目的地だ。


 そこは小さな酒場が集まった通りだが、ランチも終わった昼のこの時間はひっそりとしている。柊は一階の南国風居酒屋の横にある、扉の呼び鈴を鳴らした。


「はーい!」


「柊と言うものですが――」


「あー、今開けるから、ちょっと待っていて頂戴」


 柊が全部を言い終わる前にインターフォンが切れた。二階から誰かが降りてくる足音が響いてくる。


「マイマイの紹介のご仁だね。ヒッシーって聞いていたから、てっきり菱田かと思っていたら、柊とはね」


 背の低い老人が、そう言いながら頭をかいて見せる。


「名前がさとしなんです」


「それでヒッシーか。俺は福山というものだ。マイマイからはふく爺と呼ばれている。マイマイがちょっといい男と会ったと言っていたけど、あんたみたいな堅気も堅気が来るとは思わなかったな」


 そう言うと、柊が着ているスーツを眺める。


「まあ、ちらかっているところだけど、上がって頂戴」


 福山はバケツやら、紙の束やら、色々と物が置かれた急な階段を二階へと上がっていく。


「ちょっと狭いけど、そこに座ってもらえる?」


 老人は窓際に置かれた小さなテーブルを指さした。入り口は居間兼食堂の少し手狭な部屋で、これでもかと言うぐらい、あちらこちらに荷物が積まれている。


「昔のチラシやら小物やらを持ち込んだら、ともかく物でいっぱいになっちゃってね。それよりもこんな年寄りに何の用だい」


「はい。劇場の再開についてのご相談です」


「はあ!?」


 柊の言葉に、老人がさも驚いた顔をして見せる。


「柊さん、あんたサラリーマンだろう。それも見るからに立派な会社のエリートだ。今どき小屋をやろうなんて酔狂な考えはやめときな。もうからないよ。それに金はどうするんだい? あんたが頭を下げに行っても、銀行は貸してくれたりしないよ」


「クラウドファンディングで資金を募ります。実際にその成功例もあります。必要な資金の調達方法、損益分岐点の計算を含め、資料をお持ちしました。一度目を通していただけませんでしょうか?」


 そう言って柊が差し出した資料を、福山はさもめんどくさそうにそめくって見せた。だがすぐにそれをテーブルの上へ置く。


「柊さん、金の問題だけじゃない。機材はもう部品を自分たちで手作りしていたような骨董品だ。それにスタッフはどうする?」


「元いた方に戻ってもらうことは出来ませんか?」


「もう閉めて一年近くだ。もといたスタッフだって、おれを含めてとっくに引退する年のものばかりで、田舎に戻って畑でも耕しながら雀の涙の年金暮らしだよ」


 そう言うと、福山は小さく肩をすくめて見せる。


「それだってそれほど悪いもんじゃない。よっぽど健康的で長生きできそうだ。だから戻りたいなんて奴はいないぞ。それに再開発で立ち退きを迫られていたから、仮に再開できたとしても長くはもたない」


「立ち退きの件は私に任せてもらえませんでしょうか? その手の交渉事は慣れています。それと短期間でいいので、やはり前のスタッフの人たちに戻ってきてもらえると助かります。その間に私が仕事のやり方を覚えて、新しいスタッフにそれを教えます」


「ちょっと待ってくれ。あんた自分でスタッフまでやるつもりかい?」


「もちろんそのつもりです。務めていた会社には辞表を出しました」


 福山が呆れた顔で柊を眺める。そして小さくため息をついて見せた。


「柊さん。金と時間を使うなら、もっと別なところに使った方がいいよ。あんたいくらマイマイに惚れたからって――」


 そう声を上げたところで、福山が首を傾げた。そして柊の顔をじっと見つめる。


「柊さん、前にどこかで会ったことがあるかい? 記憶にないが、もしかして客だった?」


「いいえ、今日初めてお会いしました」


「俺の気のせいか……」


 福山が窓際においてあった灰皿をテーブルの上に置くと、胸ポケットから出した煙草に火をつける。


「柊さん、マイマイに惚れただけじゃないね。あんた他にも訳ありだ」


 そう告げると、福山は白い煙をゆっくりと吐き出した。



 福山の家を出ると、空にはすでに夕刻の気配が漂い始めていた。駅へ向かって歩き出したところで、柊はポケットの中でうるさく振動音を立てる携帯に顔をしかめた。


 会社にはメールでも連絡してあるし、内容証明郵便も送ってある。なので電話に出る気はないが、こううるさくてはたまらない。


 柊は電源を切ろうと携帯へ手を伸ばした。だがそこにあるメッセージを見て、電源ボタンを押す力を緩める。そして素早くメッセージの内容を確認すると、駅に向かって歩き出した。




「Mr.ヒイラギ。急な呼び出しで申し訳ない。たまたま我々全員の時間があってね」


 そう言うと、目の前の相手は柊へ、円形に配置された会議室のテーブルを指し示した。そこには柊のこれまでの交渉相手だった面々が座っている。柊はコートを手に一礼すると、椅子へ腰かけた。


「君の上司だったMr.カナザワから私のオフィスに何度も連絡があってね。君がやめたと聞いて驚いたよ。だけど納得もしている」


 眼の前に座る人物が、柊に苦笑いを浮かべて見せた。


「だけど彼の要求はなかなかにユニークだね。うちの法務がクリスマス休暇に入っているから、すぐに返事はできないと断っても、納得してもらえない。君とは違う意味でタフネゴシエーターだ」


 柊はテーブルに座る面々を見回した。全員がビシッと高級スーツで身を固めている。たとえ真夏の炎天下であっても、ラフなかっこなど決してしない。


 それでいて必要があれば、相手に合わせてネクタイを即座に外し、上着を脱いで腕まくりもして見せる。そういう男たちだ。


「Mr.ヒイラギ、我々は君のことを正当に評価している。できれば続けて一緒に仕事をさせてもらいたい。君にはしかるべきポジションと、しかるべきスタッフを用意することを約束する。もし前の会社から連れてきたいスタッフがいれば、それも全て受け入れよう」


 男はそう告げると、まっすぐに柊の目を見つめた。


「どうか前向きに検討してもらえないかね?」


「申しわけありません。とあるところで、マネージャーをやらせていただくことになっています」


 柊の言葉に、会議室にいる数人の男たちからため息が漏れた。


「我々としても、可能な限り早く手を打ったつもりだったが、どこかに先を越されたと言う事かな? 君がどこへ移るのかはすぐに我々の耳にも入ると思う。できれば我々を出し抜いた相手を、君の口から教えてもらえないだろうか?」


「はい。とある踊り子と劇場のマネージャーをやらせてもらうことになりました」


「劇場!?」


「ストリップ劇場です。もし今度東京に来ることがありましたら、ぜひに足を運んでください」


 柊は日本人らしく、深々と頭を下げて一礼すると、会議室を後にした。



「ちょっと。なにがあっても来いというから、バイトを休んできたけど、こんな高級住宅街に何の用がある訳?」


 柊の後ろを歩く舞歌が口を尖らせた。


「一回ぐらい寝たからって、自分の女とか勘違いしていない? 友達へ紹介するとか、絶対にやめてよ!」


「少なくとも友人とかじゃない。もっと古い付き合いだ」


「えっ! まさか、いきなり親に会えとか言っていないよね!」


「その心配はない。俺の親はもうこの世にはいない」


 柊の台詞に、舞歌がすごくうしろめたい顔をした。


「ごめん。でもあんたも私と同じなんだね」


「そうらしいな。それよりここだ」


 柊はそう告げると、オーク材の門の横の通用口を指さす。それを見た舞歌が驚いた顔をした。


「ちょ、ちょっと。なんかとっても偉そうな人が住んでる家じゃないの!」


 柊は舞歌の台詞を無視すると、インターフォンのボタンを押した。


「柊です」


「はい。奥様がお待ちしております。そのまま中へお入りください」


 柊は緑のランプに変わった通用口のドアを開けた。


「ヒッシー、こんなかっこじゃ中に入れてもらえないよ!」


 スポーツダウンコートを着た自分の姿を眺めながら、舞歌が悲鳴を上げる。


「心配するな。大丈夫だ」


 舞歌はこれでもかと言うほど嫌な顔をしてみせたが、柊はその体を引きずるようにしながら玄関へ向かった。先日の家政婦が柊たちを出迎える。


「いらっしゃいませ。奥様はけいこ場でお待ちしております」


 そう告げると柊たちを奥へ案内した。舞歌はまるでお化け屋敷にでも足を踏み入れたみたいに、周りをきょろきょろと見回していたが、どうやら諦めがついたらしく、大人しく後ろをついてくる。


 縁側を進み、その先にある離れの稽古場へと入った時だった。


「きれい」


 舞歌の口からつぶやきが漏れた。稽古場では一人の老女が舞をまっている。でもその姿からは年齢を一切感じさせない。春を楽しみ、恋に憧れる少女の姿がそこにある。


「これって……」


「藤娘だ。藤の花の精が恋に揺れる女心を演じる演目だよ」


「女心?」


「それが見えるか?」


「うん、見える。見えるよ」


 老女は舞を終えると、柊たちの方を振り返った。


「久しぶりにおあねさんの踊りを見せていただきました。いまだに現役ですね」


「お世辞はよしておくれ。今となっては年寄りの暇つぶしみたいなものだよ」


 そう柊に告げると、舞歌に向かって深々と頭を下げて見せた。


「はじめまして、私は大山久子と申します」


「う、内海舞歌です」


 舞歌が慌てて頭を下げる。


「ちょっと、ヒッシーって何者? どうしてこんな立派な先生の知合いなの?」


 舞歌の口から思わず漏れた言葉に、久子が口に手を当てて含み笑いを漏らして見せた。


「そこにいる坊とは、まだ母親の乳を飲んでいた時からの付き合いでね。今日はあなたをお連れしてくれるよう、私からお願いさせていただきました」


「は、はい!」


「聡から、あなたも踊られると聞いております。どうかこの老婆に、若い人の踊りを見学させていただけませんでしょうか?」


「へっ!」


 久子の言葉に舞歌が目をパチクリさせる。そしていかにも困ったという顔をして柊の方を見た。だが柊の真剣な表情を見ると、手にしたスポーツダウンを柊へ押し付ける。


「うん。せっかく見てもらえるんだもんね。久子さん、躍らせていただきます」


 舞歌は一歩一歩、何かを確かめる様に稽古場の真ん中へと進んで行く。柊は久子と一緒に稽古場の横へ座った。


 腕を広げて大きく深呼吸をして見せると、舞歌は柊たちの前で頭を膝につけて静止する。そしてゆっくりと手を上へ上げ始めた。




「坊の言う通りだ。まださなぎだね。でも筋は悪くない」


 応接室で久子が柊に語りかけた。舞歌が手洗いに行ったため、部屋には柊と久子の二人しかいない。


「それで、引き受けていただけますでしょうか?」


 柊の言葉に久子が小さく微笑んで見せる。その表情に、柊は自分がまだ幼かった頃を思い出した。


「坊、引き受けるよ。何より踊りに魂がこもっている」


 そう告げると、久子は何かを懐かしむ様に、膝に乗せた猫の背中を撫でた。


「一生懸命やる人や、楽しんで踊れる人はいる。だけど魂を込められる人はそうはいない。その人が背負っている業そのものだからね。込めているつもりになっているだけだよ。私の弟子でもそれが出来たのは一人だけだ」


 そう言うと、久子はどこか遠くを見つめた。


「ありがとうございます。稽古代は私が払います」


「あんたの母親は私の弟子だったかもしれないけど、助けられたのはむしろ私の方だ。それに坊はちゃんと私との約束も守ってくれた」


「約束?」


「惚れた女が出来たら、私のところに連れてくると約束しただろう?」


「惚れた? 私がですか?」


「そうだよ。世間はそれを惚れ込んだというのさ。だけど一つだけ返してもらいたいものがある」


「なんでしょう?」


「あの子の次の舞台を私たちにも見せておくれ」


「姐さんがですか!?」


「何をそんなに驚くんだい。私はもう十分に大人さ。それに踊りに貴賎なんてないよ。演じているのは全て同じ人だ」


 そう言うと、久子は口元に手を当てて笑って見せる。


「まだまだ粗削りだけど、あの子の踊りは自分の体が動くことの、踊れることの喜びと感謝に満ちている。最初に覚えて、最初に忘れてしまうものさ。だからそれを思い出させてもらう」


「はい、おあねさん。でももぎりの意地にかけて、チケット代はもらいませんよ」



「ヒッシー、遅いよ。もたもたしていると日がくれちゃう!」


 駅へと続く坂道を下っていく舞歌の行き足は、行きと違って軽やかだ。それに顔も少し上気して見える。


「ずいぶんとご機嫌だな」


「あったりまえでしょう。すごい先生に踊りを見てもらえたんだよ! それに稽古もつけてもらえるだなんて、夢みたいじゃない?」


 そう言うと、本気で頬をねじって見せる。


「おい、プロだろう。顔にそんなことをするんじゃない」


「ヒッシーって本当に生真面目よね。でもヒッシーのおかげよ!」


「どういう意味だ?」


「稽古をつけてもらえることになったことよ。だって踊りは全然だったじゃない。緊張しまくって、手足が震えるのを抑えるだけでも、それはもう大変でした」


 がっくりと肩を落として見せる舞歌に、柊は思わず苦笑いをした。


「それは違う。昔馴染みが頼んだからって、引き受けるような人じゃない」


「そうよね。そんな感じよね。でもヒッシー、私を連れてきてくれたのって――」


 舞歌の言葉の途中で、柊の携帯が振動した。前の会社関係はほとんどブロックしたから別の何かだ。


「ちょっと待て」


 そう声を上げて携帯を取り出す柊を見て、舞歌が少しだけ不機嫌そうな顔をして見せる。


「なに? 彼女からでもかかってきた?」


「違う。振った相手だ」


「なにそれ!」


 舞歌は続けて何かを言おうとしたが、柊は片手をあげてそれを制すると、携帯を耳へ当てた。


「Mr.ヒイラギ」


「あなたが直に連絡をくれるとは、珍しいこともあるんですね」


「これは会社のビジネスとは別で、私個人が友人として君にかけている電話だ。そう思って聞いてくれるとありがたい」


「はい」


「君の方で劇場再開の為に、クラウドファンディングを立ち上げているという話を耳にしてね。因みに前に話をさせてもらった後は、友人たちと大いに盛り上がったよ。そこでだ。私たちに君の劇場へぜひ出資させてもらいたい」


「本気で言っているんですか? 皆さんが手を出すような案件ではないですよ」


「もちろん承知だ。金で夢は買えないが、君の夢へ投資は出来る。これは私の、いや私たちのポケットマネーでの出資だよ。私が出すと言ったら、友人たちから色々と文句が出てね。結局は全員の出資で、形式上、投資会社を立てることにした」


「はい。承知いたしました」


「契約書のとりまとめについては君に任せる。得意技だろう? ではMr.ヒイラギ、よいクリスマスを!」


「Mr.マクネリー。あなたも良きクリスマスを!」


「一体何の電話?」


「サンタクロースからだ」


「どうやったらサンタクロースを袖に出来るのよ!」


 舞歌は訳が分からないという顔をしながら、大きく肩をすくめて見せた。



 柊は印刷から上がったパンフレットを手に、地下へ下る階段を下りた。その背中をまだ春には少し時間がかかりそうな冷たい風が通り過ぎていく。


 劇場のドアを開けて中へ入ると、そこにいた福山が柊にご苦労さんと片手を上げた。


「ヒッシー、あんた中々にすごいやつだな。本当に再開させちまいやがった」


 そう言うと、福山はほとんど毛のない頭をかいて見せる。その顔は自宅で見た時よりもはるかに血色がいい。


「福山さんが色々と声をかけてくれたおかげですよ。それに今回の再開公演はオールスターのようなものですからね」


 柊は手元にあるパンフレットを眺めた。小屋自体がなくなった今、全国をまたにかける売れっ子と言うのも少なくなった。それでも踊りと人柄に魅せられて、ファンがその後を追いかける踊り手は存在する。そんな踊り手たちがここに集まってくれていた。


「おかげで事務所の電話は鳴りっぱなしだよ。本番前に声が枯れちまいそうだ」


 福山がそうとぼけてみせる。しかし少し心配そうな顔をすると、入り口のカーテンをちらりとめくって、中を覗き込んだ。中から久子の凛とした声が聞こえてくる。


「皆さん、郷に入っては郷に従えです。今日はここのやり方に従って見学します。よろしいですね」


「はい。お師匠さま」


 久子の声に、席を埋めた妙齢の女性たちが一斉に返事をした。


「しかし今日のプレに来ているお姉さんたちは何者なんだ? 只者でないぐらい俺でも分かるぞ」


「今回の件で色々と約束をしていましてね。その一つです」


「まあいい。客は客だ。楽しんでくれればそれでいい。俺は中に戻るから、ここの準備は頼んだよ」


「はい」


「柊、チケットの箱はここでいいか?」


 福山と入れ替わる様に受付へきた伊藤が、段ボール箱を柊の前へ置いた。


「ありがとうございます。でも伊藤さん、平日ですけど本当にいいんですか?」


「誰かさんがバックレたおかげで、うちの部は開店休業中だ」


 何故か柊がここにいることを嗅ぎつけて、手伝いに現れた伊藤が肩をすくめて見せる。


「申し訳ありません」


「そうだ。お前のせいだ。だけど個人的には悪くない。ラインにいることなかれ主義の連中の首もかなり飛んで、風通しはよくなる。会社にいていらぬ火の粉が飛んでくるより、ここでお姉さま方の相手をしている方がよっぽどましさ」


 そう言うと、ちらりと楽屋の方を覗き込む。


「そんな事より、こんだけ色気のあるお嬢さん方の楽屋に、大手を振って入れるんだぞ。やらせろ!」


「でも伊藤さんが照明を扱えるとは知りませんでした」


「ああ、俺の親父が制作会社の大道具とかの下請けとかやっていてさ。アマチュア劇団の舞台なんかも手伝っていたりしてね。そん時のバイトで覚えたのよ」


「伊藤ちゃ~ん、私のオープニングの衣装って、どこにあったっけ?」


「はいはい。ちょっとお待ちを!」


 楽屋からの声に伊藤が踵を返して飛んでいく。その後ろ姿に柊が思わず口元を緩めた時だ。スポーツダウンを着た舞歌が楽屋から受付の方へ顔を出してくると、柊の顔を眺めながら怪訝そうな顔をして見せた。


「やっぱりそうだよね。前より太ったでしょう。もしかして、突然ごはんの美味しさに目覚めた? それになんで無精ひげなんか生やしているわけ?」


「もぎりも演出の一つだ。見かけはさらにその演出だ」


「あ――、やっぱり思った通りだ。もっと気楽にやれないの?」


「これが俺のやり方だ。いまさら変えられない」


 舞歌が手のひらを上にあげて、天を仰いで見せる。


「私もそうだけど、あんたも本当に意地っ張りよね。ねえ、ヒッシー?」


「改まってなんだ」


「私さ、ヒッシーの期待に応えられるよう、一生懸命に踊るよ。だからヒッシーにいらないと言われるまで、一緒にいてもいい?」


「当たり前だ。俺はお前の為にここに居る」


 柊の台詞を聞いた舞歌の目が大きく見開かれた。だけど目から零れ落ちそうとする何かを気合で止めて見せる。


「ば、ばっかじゃないの! 本当に生真面目なんだから!」


「オープニング開始5分前です! お姉さま方、準備をお願いします」


 楽屋の方から、伊藤のベテランみたいな呼び声が聞こえてきた。


「あいよ!」


 舞歌はそう答えると、柊に小さく手を振って、楽屋へと戻っていく。


「客席のお姉さま方に、私たちの色気ってやつを見せてやりましょう!」


 楽屋から舞歌の気合の入った声も聞こえてくる。柊はチケットの段ボールを足元へしまうと、そっと入り口のカーテンをくぐった。その先では天井でミラーボールが回り、ピンクと白のライトが年季の入ったステージを照らしている。


「では本日全員の出演者によるオープニングショー!」


 ふく爺の今日のオープニングを告げる声と、出演者の紹介が続く。むせるようなタバコの煙がないのはちょっと寂しい気もするが、スモークがその名残ぐらいは伝えてくれるだろう。


 音楽に合わせた完璧な手拍子。舞歌を先頭に、今日の出演者たちが花道へ向かって歩き出すのを見ながら、柊は心の中で手を合わせた。


 母さん、僕は帰ってきたよ。あの子舞歌と共にここへ。


<完>

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

舞姫 ハシモト @Hashimoto33

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ