死体と涙の生温い

紳士やつはし

第1話

 自分の死体を眺めていた。

 開いた絵の具のチューブを切り刻んでから踏んづけたみたいな有様のそれを見て、僕は一瞬だけ不快になったけれど、特に取り乱したりはしなかった。

 そうか、死んだのか。と思った。

 大切な恋人を暴走トラックから庇って、そして、死んだのだ。

 何の音も聞こえない、静かな空間だった。オレンジ色の日差しが照らす交差点。歩行者用の信号機は、未だにあおく光っていた。横断歩道に取り残された彼女から、二十メートルほど離れた地点で、トラックが電柱に突っ込んで停止している。そのちょうど間くらいの位置に立って、僕は自分の死体を見下ろしていた。まるで絵画に入り込んだような感覚……以前にとある絵画を見て、実際にこんな感覚に陥ったことがあったっけ。確か、モネだったか。

「引き止めて悪い。教えてくれ」

 背後から声がした。

 振り返ると、和服を着た小さな少年が、縁石の向こう側に立っていた。ただし、その和服というのはぼろぼろで、つぎはぎだらけだった。そのひどく汚らしい格好と、彼の整った白い顔の対比が、なんだか不気味だった。

「お前は、満足しているのか」

 少年はそう言った。

 一体、なんの話をしているのか。何に対しての問いなのか。

 考えて答えあぐねていると、少年がフッと息を吐いた。そして言う。

「あまりわからないふりをするものじゃない」

 何を言っているんだ、と思った。わからないふりなんてしているつもりはないのに。

「満足している」僕の口が勝手に答えた。「僕は恋人の代わりに死んだことに、満足している」

 そこで言葉が途切れたが、僕はその後自分の口でそれを否定したりはしなかった。

 彼は無表情で「そうか」と言った。その反応に、どこか機械的な印象を受けた。

「君は誰?」

 僕は問いを返す。この質問も、あるいは「わからないふり」なのかも知れないけれど、少年は案外すんなりと答えた。

「お前たち人間ではない者。簡単に言えば、いや、これは些か簡単にすぎるかも知れないが、お前のためにあえて愚直に表現するならば、」

 神だ。と少年は言った。

 僕は宗教には詳しくないけど、ぼろぼろの和服を着た神なんて聞いたこともない。

 けれど、少なくとも神に近しい存在であることは疑いようもなかった。

 こんな空間にいる時点で、というのはそう思う理由としてもちろんあるけれど、決定的に僕を納得させたのは、先ほどから聞いている彼の”言葉”にあった。

 その声も容姿も少年のもので違和感はないのに、言葉一つ一つの雰囲気が、少年らしさとはかけ離れている。彼の言葉は、僕の眼球の裏を狙って貫くような、余計なものを排除した純粋な威力を持っていた。

 幼い子供に純粋や無垢といった表現をするのは自然なことだけれど、いま目の前にいる彼の『無垢』は異常だ。冷たさすら覚える。それこそ、人間じゃないと思えるほどに。

「なぜ、お前は”そう”したんだ?」

 少年は問いを重ねた。その意味は言うまでもなく、「何故あの娘の代わりに死んだのか」ということだった。

「なぜって……」

 僕は少年の問いに対して、微かな不安を持っている。その不安というのは、答えがあまりにも当たり前だと思うが故の不安だ。「大型トラックに轢かれたら死ぬと思う?」と聞かれたら、イエスという答えが当然すぎて、なんだか自分の思わぬ回答があるのではないかという気がしてくるのと同じだ。

「なぜってそりゃあ、……」

 不安を押し除けつつ返答を述べようとすると、いきなり喉奥で声が重くなった。慎重に、ゆっくりと持ち上げて、その名を口にする。

「凛に……死んでほしくないから」

 どうやら死んだとしても、ずっと慣れなかった呼び捨てがすんなりできるようになったりはしないらしい。

 少年は、顔を少しだけ上に向けた。

「自分が死んだとしても、死んでほしくない、ということか」一つ間を置いて、少年は再び僕を見た。「それはやっぱり、愛って奴なのか?」

 愛。愛か。

「さあ、ね」

 あまり考えたことのない単語だった。そもそも愛という分類が好きではなかった。恋人に対する僕だけのこの気持ちが、『愛』と言う言葉で勝手に括られるのが好きじゃない。それに、自分の何が愛で、何が愛じゃないのかなんて興味ない。だから、僕が彼女の代わりに死んだ理由なんて知らないし、それが愛なのかなんてもっと知らない。ただそうしたいから、しただけ。

「わからない。でも、彼女が大切だからやった。それは間違いない」

 珍しくそんなこと言った。やっぱり、死ぬと性格が変わったりするのだろうか。

 少年はまた、上を向いている。

「そこがわからないんだ」

 少年がそう言うと、彼の姿が霞んで消えた。僕は一瞬だけ目を疑ったが、すぐに受け入れた。

 この少年が消えたくらいで、今更いちいち驚いていられない。

「見てみろよ」

 斜め下から声がしたので見てみると、少年は僕のすぐ隣で、僕とは反対方向を向いてしゃがんでいた。少年は僕の死体を間近で眺めていた。

 つまり、僕の死体を、もう一度みろと言うことか。

 僕はゆっくりと振り返る。そこには何の変化もしていない僕の死体があって、水野凛が、僕の動かない体を揺すっていた。

「水野……」

 呼び慣れたその二文字が口から漏れる。彼女は僕の、おそらく肩であったであろう部位をしっかりと掴んで、弱々しく、震えるように、揺らしていた。

 僕は無意識に、向こうは時間が止まっていると思っていた。でも、そうじゃなかった。しゃがみ込んだ凛のワンピースが、赤く染まっていくのがわかる。ただやはり、音は聞こえない。通りかかった人が何人か歩道に集まっていて、何かを叫んでいるが、わかるのは口が動いていることだけだった。

「しゃがんでしっかり見てみろよ」

 少年が凛の顔を見つめながら、そう言った。

 僕は自分でも不思議なほどすんなりと、その言葉に従った。

 凛の顔を見た。彼女は、初めてみる表情をしていた。大抵いつも冷静だった目は大きく見開かれて、もともと長いまつ毛が生えた瞼の間から、彼女の黒い瞳がむき出しになっている。

 僕の好きだった瞳がそこにはあった。夜の海のような、吸い込まれる魅力の黒で、それでいて、ただの『綺麗』という言葉が合わないようなこの瞳が好きだった。その瞳が、今は目に見えない色に塗りつぶされて、僕だったものを見つめながら小刻みに震えている。

 口元を見ると、凛は何か言っているようだった。その内容を、今度はすぐに理解できた。聞こえないのに、聞こえてくる。僕の名前だ。僕の肩を揺らしながら、僕の名前を、掠れそうな声で繰り返している。

「この顔を見ても、お前は満足したままでいられるのか?」

 そうか。こいつは自己満足だと言いたいのだ。僕の代わりに生きて、彼女は今幸せか。否だ。こうして見ていれば、嫌でもわかる。嫌だけど、わかった。

「俺は最近まで、結構長い間、自己犠牲の愛は正しいと思ってた。美しいとも思っていた。だけど、俺はわからなくなったんだ」

 この光景、状況を、美しいだなんて言えるはずがない。

 そんなのは無責任だ。

 凛が、僕の顔に手を伸ばした。もはや誰かもわからないそれの頬に、触れる。本当に誰かもわからなければ、まだ救いだったかも知れない。だけど、僕のネックレスが、その救いをかき消した。彼女からもらった、シルバーの輪っかを二つ絡ませた安いネックレス。当然血に塗れているそれは、無傷で僕の首から下がっている。こんな残酷な名札になるくらいだったら、こんなもの最初から——

「まあこの場合、どうしようもない話ではある」

 少年が立ち上がり、ぐしゃぐしゃになったトラックを見て言う。

「彼女が死ぬのを見過ごすのはもっと間違っているし、二人とも助かる道を探せと言うのも、その状況を経験していないのにわかったふりをするような、愚か者の言うことだ。だだ……」

 少年は、僕を見た。しゃがんでいる僕を、彼は見下ろした。

「お前がまるでいい事をしたかのように満足していたから、聞いてみたくなったんだ」

 まるでいい事をしたかのように。

 その言葉が、僕の中で反響する。

 僕は率直に言えば、良いことをするのが好きな類の人間だった。

 善い行いが好きだった。具体的に言えばそれを行った後の、自分が善人であると証明されたような感覚が好きだった。今回もそれを、僕は感じていたというのか。

 いや、きっと……感じていた。

 自分が恋人の代わりに死んだことに満足し、そんな自分を、どこかで正しいと思っていた。

 寒気がした。氷の杭を心臓に突き刺された気分だった。

 その時、無表情によって絶望を表していた凛の顔が、歪んだ。

『多分あなたが死んでも、私は泣けないと思う』

 過去に聞いた彼女の言葉が蘇る。涙はもう一生出ないだろうと、凛は呆れ気味に、かつ冗談混じりにそう言っていた。彼女は泣かない人だった。泣きたくても、泣けない人だった。

『私が死んだら、あなたは泣くの?』

 下がりかけた顔をあげた。そして水野の、凛の顔を、しっかりと見た。彼女は泣いていない。これから泣くのかも知れないし、本当に泣かないのかも知れなかった。

 凛の頬に、手を添える。れた。しかし、彼女が僕に気づく様子はない。温度は感じないけれど、ひどく冷たい感触があった。

「ごめん。凛。本当に、ごめん」

 言って手を離し、下を向き、息を吐く。吐いた息はとても重かった。

 立ち上がって少年を見た。彼は呟いた。

「本当に、よくわからんな。やはり満足しているのか?」

 僕は首を横に振った。

「だったら、その顔は何なんだ?」

「さあ、ね」

 自分が今どんな顔をしているのか、それはもちろんわからない。そして今自分がどんな気持ちなのかも、はっきりと認識するのは難しかった。

「ただ、僕は過去に戻っても同じことをするだろうね」

 少年は腑に落ちたように「そうか」と言って手を叩いた。

「よくわからんな」

 その姿は、新しい知識を得た人間の少年そのものだった。

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