第3話 とっておきの一冊
洗濯物が乾いて、部屋に戻ってきて、
遠野さんに次に貸す文庫本を物色する。
とうとうこいつの出番か。
一番何度も読んだこいつ。
お気に入りのこの文庫本は、
遠野さんがどんな評価を下すのかわからなくて、
怖くて今まで貸せずにいた。
そのくらい大好きな一冊だ。
早速、遠野さんの部屋に向かう。
この本を読み終えたとき、遠野さんはどんな感想を言ってくれるかなと。
とにかく、それがグルグルしていた。
だから、
遠野さんの部屋の前、
旅行に出るような荷物を持った遠野さんがいるのを、
僕はいまいち理解できなかった。
遠野さんは、そんな僕を見て苦笑いした。
「見られたくなかったなぁ」
何も言わずに出ていくつもりだったんだと、
遠野さんは言う。
「何度目かは、もうわかんないけどな、夜逃げなんだよ」
遠野さんはさらりと言う。
旅行に行くんだとでもいうように。
僕は何と言っていいかわからなかった。
ただ、遠野さんがどこかにいなくなってしまう。
僕に何も言わずに。
怒りより先に、悲しみより先に、
引き留めるより先に、
僕は、文庫本を出していた。
「これ、貸します」
遠野さんは目を見開いていた。
そりゃそうだろう。
夜逃げする人に、いきなり文庫本貸しますっていったら。
僕は夜逃げがなんなのかは、いまいちよくわかんないけど、
とにかくここに住めなくなって、帰ってくることはないということくらい、
そのくらいはわかる。
だから、僕は文庫本を貸す。
「感想、ください、僕の一番の本です」
「ああ」
遠野さんは文庫本を手にして、
「必ず、返すからな」
「はい」
僕は嘘だと思いたくなかった。
思いたくなかった。
必ず返してくれる。それを真実だと思いたかった。
だから、
僕が泣いている事実に、
僕は目をそらし続けた。
「返却期限はありません」
僕は、精いっぱい普通をつとめて言う。
「必ず、返してください」
「ああ、必ず」
遠野さんは、
僕に背を向けて去っていった。
大人は嘘をつく。
遠野さんは、いろんなものから逃げ回っているのかもしれない。
普通でないのかもしれない。
それでも、僕にとっての遠野さんは、
文庫本の好きな、かっこいい憧れの人でした。
遠野さんの部屋が空いたまま、新年が来そうです。
返却期限はありません。
この四季折々の空の下のどこかで、
僕の最高の本を読んでください。
そういう絆も、ありだと思います。
返却期限はありません 七海トモマル @nejisystem
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