命結う、赤い糸。

霜月透乃

命結う、赤い糸。

 私たちが普通の人とは違うと自覚したのはどこからだろう、双子として生を受けてから? それとも、普通の人の“それ”とは違うと言われてから? そんなこともわからないくらい、私たちは小さい頃から周りの人とは違うと認識して生きてきた。


 ぼんやり思い出せる最古の記憶は、姉と私が横に並んで「あなたたちの血液型は他のどの血液型とも当てはまらないのよ」と教えられるもの。


 物心つくかつかないかぐらいの子どもにそんな小難しい話をする必要はないだろうし、そのときの私たちは血液型という概念すら理解していなかっただろう。ただ、私たちは普通じゃなかった。その意味は、幼いながらもすぐに感じ取った。


 双子なのにどうしてか、私の姉――千秋ちあきは、生まれつき身体が弱かった。再生不良性貧血。血液中の白血球、赤血球、血小板のすべてが減少する難病。双子の妹である私はなんともないのに、千秋は、紙で指先を切るだけで命に係わるような、場合によっては輸血が必要なほど深刻なものをその身に宿していた。


 それは私たちにとっては大問題だった。従来の血液型と当てはまらない以上、輸血できる血液はこの世にない。……たった一つ、私の中を憎いほど元気に駆け巡る血を除いて。


 人生のうち、千秋は貧血に苛まれ何度も倒れた。家でも、学校でも。度々倒れる千秋を目の前に、私はその場の恐怖と焦りとともに、胸の内で一つの覚悟が積み重なっていった。


 そしてお互い十六歳になり、学年が一つ上がった高校二年生の冬。千秋は倒れた。


 ただ倒れただけなら、今までと同じく休むだけでよかった。けれど、病院に行った際、診察室で先生の口からとうとう告げられた。今すぐにでも輸血が必要な状況だ、と。


 そう、母親の隣で聞いた私は、最後の一ピースが揃い、覚悟が完全に固まった。そして、衝動のままに立ち上がって、目の前の先生に、覚悟をぶつけた。


「――私の血を、使ってください!」



***



 ぼんやりと、目を瞑りながら横になっている。まるでどこまでも広がる海の真ん中で、波風立たない水面にぷかぷか浮かんでいるよう。なにもなく、穏やかなはずだけど、息苦しさと心地悪さだけはいやにはっきりと感じる。


「ん……うぅ……」


 もぞもぞ、と私の左側が微かに動く。その気配に現実へと戻され、朧げな頭を少しだけ傾けて物音の主を見る。


「千秋……起きた……?」

「うん……おはよ、千鶴ちづる。また私、気失っちゃったんだね。……あれ? ここどこ?」


 私の姉である千秋は、横になりながらゆっくりと頭を動かしてあたりをきょろきょろと見回す。不思議そうな表情は当たり前。私も同じように横になりながら千秋と顔を合わせて現状を伝える。


「病院だよ。倒れて、輸血が必要だって言われたから、輸血して今は病室で寝てる」

「輸血って……血は? ないじゃん」

「私の血を、直接千秋に送ってる」

「はい……!?」


 不思議そうな千秋へ一瞬にして驚きの色が滲む。そんな千秋に私は右手首らへんを優しく触るよう促した。


「……管?」


 指し示したものが手に触れたのだろう、千秋がそう口にする。今、千秋の右腕には管が通っており、それは機械を通じて私の左腕へと繋がっている。


 遡れば数時間前。私が先生を自分の血を使ってくれと言い困らせたときのこと。言い出した直後は先生から血液をそのまま輸血すると感染症やら免疫反応やら、そもそも私の身体がどうのとかの話を諭されるように聞かされ……今思えば説教を受けていた。


 けれど医学に詳しいわけでもない私は、焦燥感に背中を押されるよう「それでも千秋がこのままなにもせず死ぬより何倍もいいです!」ともう一度声を張った。


 そのままずっと折れなかった私に呆れたのか、はたまた私の意志を尊重して母親までもが頭を下げたからなのかはわからないけれど、先生は私の血を使うことに頷いてくれた。しかし、私の血は私の中にしかない。抜き出そうものなら、私が死ぬ。


 そこで取った方法が、千秋と私を管で繋ぐことだった。


 血を共有することにより二人の血液を足して二で割り、それぞれに分け与えているような状況になる。そして足りない分を、うまく血液を作ることのできない千秋に変わり私が二人分補うというものだった。


 説明を聞いた私は、自身に降りかかる負担やリスクを恐れることもなく、首を強く縦に振った。考えなかっただけかもしれないけれど、もし考えていたとして、結論は変わらなかった。この世に存在するリスクは全部、私にとって千秋よりも軽かった。


 そうして千秋と私は管で繋がれ、血液を共有することとなった。


「そんなことして、千鶴は大丈夫なの……!?」


 事の顛末を伝えると、千秋から出てきた第一声はそれだった。自分の寝ている間に理解できない事象が次々と起こっているのに、一番最初がそれなんて、その純心さに少し呆れる。


「私のことは気にしなくていいよ」

「よくないよ!」

「大丈夫じゃん。現に目の前で普通に会話してるでしょ?」

「それはそう、だけど……」


 すぐに染みついてしまった心配そうなかんばせは、しばらく抜け落ちそうにないと悟った。


 正直大丈夫ではない。千秋に分け与えた分、自分の血が減っているだけでなく、千秋から成分の薄い血液が自分の中に流れ込んでくる。そのおかげで今千秋が目を覚ますまで意識が朦朧としたまま、半ばうなされるよう横になっていた。今だって、腕につながる違和感だけで気を失ってしまいそうだが、目の前の千秋にそんな姿を見せたくなくて見栄で乗り切っている。それに懸念点はそれだけじゃなかった。


「血、苦手でしょ? 千鶴」


 たじろぐ私に共鳴するよう、心臓がどよめく。その鼓動を乗せ流れる血が千秋に送られて、それを感じ取ったのか千秋は私に目を細める。


 図星だった。私は昔から血を見るのが苦手で、紙で指を切って滲んだ血だけで全身が粟立つ。今千秋と私をつないでる管を見たらならば、私は失神してそのまま帰ってこられない自信がある。


「千秋が死んじゃうよりいいでしょ! 苦手なものくらい、受け入れるよ」


 その言葉とは裏腹に、私はできる限り管から目を背けようと千秋とは反対側にある病室のドアを見た。その行動に千秋が小さくため息を吐いた。


「嬉しいけど、もう少し自分大事にしてよ」

「そのまま……千秋を見捨てる方が、やだ」


 そのまま見捨てろっていうの? と言いかけ、言ってしまえば喧嘩になる予感がして寸前で言葉をすり替えた。喧嘩なんて今までそれらしいこともしたことないのに、どうしてかそんな気がした。


「というか、本当にできるの? そんなこと」

「知らないよ。私だって医療に詳しいわけじゃないし」


 言いながら、私は千秋側のベッド横に目をやる。手提げバッグのようなものに入れられた見知らぬ小型の機械。ドラマなんかでよく見る点滴と同じようにベッド横でスタンドに吊るされたそれに、千秋の管と私の管は繋がっていた。おそらく、千秋の血液と私の血液をうまく交換してくれているのだろう。そんな機械を今日初めて知ったくらい、私に医療の知識はない。けれど今、目の前に千秋がいて、私も生きている。それだけで千秋の疑問への答えになった。


「この子が、頑張ってくれてるんだね」


 私と同じものを見て、千秋が微笑む。その後ろ姿しか見られない私は、微笑みを浴びる機械にそこそこの重い嫉妬を乗せる。


「もしかしてこの子、先生たちがいざというときの私たちのために作ってくれてたとか?」

「あり得るの? そんなこと」

「さあ? 思いついたから言ってみただけ。でも、千鶴が血を分けてくれたおかげで、いつもより身体が軽い気がする。ほら、こんな簡単に身体起こせちゃう!」


 千秋ははしゃぐ子どものような満面の笑みで上半身を起こす。それによって生じた揺れに少し気分が悪くなってしまって、顔を顰める。


「千鶴は大丈夫? 私に分けてくれた分、体調悪くなってない?」

「別に、平気だよ。ほら……っ」


 元気だと見せるために私も起き上がろうとした瞬間、頭の中の血が重力に引っ張られて全部どこかへ流れ出る、そんな感覚に襲われ、私の世界は明滅した。それに打ちのめされた私は再度ベッドに倒れ込む。


「千鶴っ!?」


 心の底からでた蒼白な声に、心配させてしまったと焦る。千秋に杞憂だと証明するため、目の前が真っ暗のまま無理やりに身体を起こす。


「大丈夫だって……ちょっと、まだ血抜かれてる感覚に慣れてない、だけっ……」


 ベッド横に取り付けられた手すりに半ば倒れ込むよう寄りかかり、乱れた息を整える。これじゃあ杞憂だというにはいささか難がありすぎる。そんなことを気にする余裕もない私は、目の前の暗がりを取り除くことに専心する。


「へろへろじゃん! 無理しないで!」


 千秋が私の身体に優しく手を添えてくれる。ようやく眼前に広がる世界が捉えられるようになってくると、幾分か気分もマシになってきた。けれどそのあとすぐに視界に入ってきた真っ赤な糸がこれ以上なく心地を乱した。


 血の気が引く、という表現がこれほどぴったり当てはまるものもないだろう。そんなくらい、全身の血管がすっ、となるようなおぞましさに襲われた。目に入ったその糸が千秋と私を繋いでいる管で、真っ赤な色がその中を通る血の色だと理解した瞬間。胃の中が大きく荒れたのがわかった。そしてそれは熱いうねりとなり込み上げ、私の喉を焼いた。


「おぇ……」

「ちょっ、ナースコール!」


 あわあわとした様子で千秋がベッドの上あたりにあるボタンを押すと、頭の奥まで劈くようなベルの音が響いた。私は口に手を当て喉奥からベッドの上までをひどい有様にしてくれたそれを受け止めながら、最悪な気分で看護師さんを待っていた。



***



 血を共有している以上、千秋と私の状態はほぼ同じなはず。なのに千秋はあんなにも身体が軽いと嬉しそうにし、私はその重さに打ちのめされた。それはいままでの千秋がどこまで重いものを引きずって来たかを裏付けるものであり、今私が受けている以上に辛いものを抱えてる千秋の前で文句を言うつもりはなかった。けれど血さえ見なければ、まだこんな惨状にならず済んだと思うと、少しやるせない。汚れてしまうくらいなら、気を失ってしまった方が幾分かマシだったかもしれない。しばらくして結局どっちも嫌だと考え直した。


「はい。これで完了」


 看護師さんが私の身体を拭いて、ベッドとともに身の回りを整えてくれた。管で繋がれているために千秋から一部始終を見られているのは少し恥ずかしかったけど。


「ありがとうございます……あの。この服、わざわざ作ってくださったんですか……?」


 わざわざ、と言った後に失礼な単語だったと胸の内で反省する。その言葉をかけられた服は、普通の病衣に左側の袖だけ切り込みを入れられ、それを締められるよう二つのひもが伸びているもの。それは腕を通さずに着られるもので、私たちを繋ぐ管を考慮したものとしか思えないものだった。


「ああそれ? そう。まあ結構古めなものだったから、気にしないで」

「そうじゃなくて、迷惑を……」

「迷惑なんかじゃないって。病院なんだから、患者さんにそれくらいするのは普通。それに着るものなかったら、困るでしょ?」


 当たり前のことを指摘され、遠慮することができなくなり黙る。


「ありがとうごさいます。えっと……桐田きりたさん、ですね」


 黙った私の代わりに千秋が頭を下げながらそう言う。その視線を辿ると看護師さんの身に着けるネームプレートへと向いていた。そこには看護師さんの名前が記されていて、「桐田」の名字が刷られていた。


「あ、そっか。妹ちゃんは管繋げるときに自己紹介したけど、お姉ちゃんは寝てたんだもんね。それじゃ改めて……桐田です。看護師……なのはわかるか。なにかあったら、遠慮せず呼んでね。いつでも駆けつけるよ」


 桐田さんはにっこりと笑う。意気揚々と腕を捲り上げる様子はとても頼もしく感じる。


「よろしくお願いします! 私は姉の千秋です。こっちが、妹の千鶴です」

「よろしく、お願いします」


 先ほど千秋が寝てるときに一度頭を下げたため、もう一度下げることになんとなく違和感を覚えてぎこちない動きになる。


「よろしく。いやぁ、双子だから当たり前だけどさ、どっちがどっちか見分けつかないね。頑張って見分けるけど、もし間違えてたら教えてね」

「はい。一応、目印作ってて。左側編んでるのが私で、右側を編んでるのが千鶴です」


 千秋が自らの髪の三つ編み部分を手にのせて桐田さんに見せる。私たちは二人ともロングヘアだけれど、前髪のサイド、こめかみ付近から真っ直ぐに垂れるそれを私たちは左右分けて編み、見分けられるようにしている。


「あと、ちょっとだけ私の方が身長小さいです」

「……」


 笑い話のように言うそれを、私は良く思っていなかった。双子間で違いが出てしまうのもそうだし、私よりも身体が弱いと見せつけられているようで、嫌いだった。千秋と私には差があって、私は千秋になれない、千秋を助けられない、そう言われているようで。


 胸の奥に滲んだ弱気を紛らわすように、布団の中で千秋の手にこつんと自分の手をくっつけた。その思いが投げやりなそれから千秋に伝わったかはわからない。


「なるほど、了解。参考にさせてもらおう。それじゃあ、そろそろ私はお暇するね。あ、トイレとか行きたくなったら、スタンドから機械入ってるバッグ取り外せば移動できるからね。ただし、二人はあまり離れすぎないこと。離れすぎて管抜けちゃったら大惨事だから」

「え……トイレも一緒に行かないといけないんですか……?」

「まーそうなるね。でもほら、管だけ扉通して片方は外で待ってれば、プライバシーの侵害もなし! そんな感じでやってくのよ」

「なんか……想像以上に、大変そう?」

「大丈夫。なにかあったら駆けつけるからさ、心配はご無用! だから、いつでも頼ってよ」


 それじゃあね、と桐田さんが身の回りをテキパキと片付けて病室を出て行った。ガタン、と戸が閉まるのを合図に、室内から一切の音が消え去った。


「……静かだね」


 苦笑いで千秋がしびれを切らす。私たちの病室は個室だった。私たちが二人ベッドで寝ているところ、管でお互いを繋がれているところ、それらが見られるのをお母さんが慮ってくれたのだろう。その親切に心から感謝をする。やっとのことで落ち着いて部屋を見渡すと、かなり広く感じた。二人で広く感じるのに、元々は一人用の部屋だというのは少し理解ができそうにない。今この広い空間には、静けさが横たわっているだけだった。


「なんもやることないね」

「まあまあ、病人だしさ、休むのが仕事だよ。千鶴はまだ少し体調悪いでしょ? 横になってなよ」


 促されるままに、私はゆっくりと背中をベッドにつける。着地した瞬間、身体を起こしていた代償ともいうように疲れがどっと押し寄せてきた。その隣へ私に合わせて千秋も横になる。顔を顰める私とは対照的に、どこか嬉しそうに私の方を向いてくる。


「えへへ、一緒のベッドなんて何年ぶりだろうねぇ」

「さあ……でも今も家では二段ベッドなんだし、ほぼ変わらないでしょ」

「えー全然違うよ。千鶴を、近くに感じる」

「私は寝返り打ったら千秋が潰れそうでひやひやする」

「そんなひ弱じゃないもん!」


 頬を膨らませてはしゃぐ千秋は元気そうだった。けれど、私よりも一回り痩せている身体、少しでも力を入れれば折れてしまいそうなほどほっそりとした腕。それらを見て、なにがひ弱じゃないだ、と心の中で毒を吐く。


「もう一度同じベッドで寝られて、嬉しい。やっぱり、私が倒れるといいことが起きるなー」

「だから、倒れてる時点でそれ以上に悪いこと起きてるんだって……」


 千秋は昔から「自分が倒れるといいことが起きる」という考えうる限りで最悪のジンクスを話す。倒れること自体が不幸なことなのだけれど、今まで千秋が倒れたとき、失くしてたものが急に見つかったり、苦戦していたゲームがすんなりとクリアしてしまえたりと、そこそこの実例があるのが一番嫌いだ。けれど今回は倒れたうえ入院したのだから、不幸の方が勝っているだろう。


「それに、いいことが一緒に寝ることなんて、言えばいつでも一緒に寝られるんだから、別にいいことでもなんでもないじゃん」

「ええー? 言ったらほんとに一緒に寝てくれたのー? ほんとにー? えー?」


 千秋がにやにやとふざけた口調で私に迫ってくる。私はそれを手で制しながら、無言で返答する。


「……ねえ千秋。目を瞑っても、もう一度目を開けたら、ちゃんとそこにいるよね」

「どうしたの?」


 今までの会話の流れなんて考えないような不安が、私の口を衝いて出た。


「眠って起きたら、消えちゃってそうで、怖くて」

「なんでさー。……うん。ちゃんといるよ。千鶴が目を開けたら、私は必ず、そこにいる。だから、安心して?」


 優しく、千秋がベッドの中で私の手を包んでくれる。千秋がそこにいる、それを教えてくれるように。けれど、それだけじゃ私の不安は消えてくれなかった。


 柔らかくじゃなくて、ぎゅっと握ってほしい。なにがあっても離れないように強く強く握って、私を安心させてほしい。


 そんなわがまままで、血は伝えてくれないみたいだった。



***



 横になっている間に眠ってしまったようで、起きたときには夕方になってしまっていた。瞼を開けると、目の前に安らかな寝息を立てる千秋がちゃんといて、心からほっ、と溜め息が出た。しばらくして私につられるように千秋が目を覚ますと、ちょうど夕飯の時間だったらしく桐田さんがご飯を持ってきてくれた。


「こ、これが……病院食……?」


 ベッド上のテーブルに広げられた料理たちを見て、私たちは唖然とした。


「どうしたの? なんかあった?」

「いえ、想像してたのよりも豪華だったので……」


 目の前に広げられたのはご飯にお肉のソテー、かぼちゃのスープにサラダ、ぶどうまでついていた。


 病院食は不味いということをどこかから聞いたせいで、退廃したディストピアのようなレーションにゼリー、その他栄養を補うタブレット……みたいな、栄養しか考えてないものが出ると思っていた。今思えばそっちの方が栄養失調になるのは考えなくてもわかるけど。


「そりゃあね。いっぱい食べて元気になってもらわないといけないわけですから。ちなみに、あなたたちは貧血だから鉄分とか、その吸収をしやすくするビタミンCとか、血に関するものたっぷりの食事だよ。もちろん、ほかの栄養もちゃんと入っております。だから残さず食べてね。ちなみに残したら無理やり詰め込むから覚悟してね」


 看護師とは思えない邪悪な表情を浮かべる桐田さんに戦慄する。すると千秋が嬉しそうに私の耳に近づいて、手を添えた。


「ほら、やっぱり私が倒れるといいことあるでしょ?」

「だから……もういいや」


 桐田さんにバレないようといった風に千秋がそんな的外れなことを耳打ちした。私はそれに首を振って、目の前のご飯に手を合わせた。最初は桐田さんの脅迫からくる使命感で箸を動かしたのだが、一口食べた瞬間、そのおいしさに自然と箸が進んでいた。


 そこまで時間が経たないうちに食べ終わって、私たちはもう一度手を合わせて食事に終わりを告げた。そのあと桐田さんが食器を下げてくれて、もう一度私たち二人だけの空間が訪れた。


「……? 千秋、なにしてるの?」


 ご飯前に寝てしまったせいかあまり眠くはなっておらず、やることもないのでなんとなくぼーっとしていると、千秋がメモ帳を取り出してなにかを書いていることに気がついた。


「んー? メモ取ってるんだよ」

「それくらい見たらわかるってば」


 千秋はよくメモ帳を取り出してそれに物事を書き記す。今どきスマホでもメモは残せるけれど、手書きがいいとこだわりを持つ千秋の可愛らしい装飾を施されたピンクのメモ帳は、十年近く目に馴染んだものだ。けれどそんなものでも病室で見るのは少し違和感があった。


「入院してまで、なにかメモ取ることあったっけ、って」

「うーん……ないしょ♪」

「はあ……?」

「そんな訝しげな顔しない! 人間誰しも、隠し事くらいあるものだよ?」


 勢いよくパタン、とメモ帳を閉じる千秋には賛同するけれど、同じベッドに寝て、管で繋がれ血液まで共有しているほどの仲でも隠すほどのことなんて相当のものだ。けれどそこまで詮索する気もないし、必要もない。私はそのまま横になり、時々千秋と続かない会話を交わしながら、眠くなるのを待った。



***



 数日経って、腕の違和感にも慣れてきた。管を直接見たとて、気は遠くなっても吐くことはなくなった。ずっとベッドの上に拘束されていても、苦ではなかった。千秋がいたし、本もゲームも頼めば家から持ってきてもらえて、暇つぶしにも困らなかった。


 学校も、最近は理由があれば先生にネットを繋げてもらって遠隔で授業を受けられるため、テーブルにノートパソコン一つ置いて授業を受けていた。普通双子はクラスを別々に分かたれるのだけど、私たちは千秋の身体が弱いため、すぐに助けられるようにと二人とも同じクラスになった。だから二人並んで別々の授業を受ける必要はないので助かった。


 でも通常の日々よりも代わり映えがないから、飽きるのも早かった。


 それはあと数時間で日曜日に切り替わろうとしていた深夜。二人とも眠れず、起きてなんとなくゲーム機を付けたときのこと。私たちはよく二人で一人プレイ用のゲームをプレイする。操作役の私と、横から見ながら指示を出す千秋。千秋はゲームを見ている方が楽しいらしく、その口から操作したいと聞いたことは一度もない。


「これ、相手の体力削り切れるかなぁ」

「次のターン攻撃来ないよ。もう一ターン準備に回してもいいんじゃない?」


 画面の中で勇者たちがそのゲームの隠し要素として用意された強大な裏ボスに挑んでいるのを指差し、ブレインである千秋に助言を求める。相手の行動パターンなんて把握してなかった私は、意識外からの指摘に一任し、回復や支援に注力してこのターンを見送る。


 すると山のように大きく禍々しい風貌の裏ボスが力を溜めた後、なにもせずにターンを明け渡してきた。


「ほんとだ」

「ね?」

「よく相手の行動パターンなんて覚えてるよね」

「相手の行動を覚えて戦略を立てるのは、RPGの鉄則だよ?」


 双子だからといって、思考まで同じではないらしい。むしろお互いの把握していなかったところを補完するように組まれている。私の場合は千秋がほぼ考えてくれるので思考を放棄しているといった方が正しいのかもしれないが。私は千秋の指先だ、その動きのすべてを掌握されている。


「でもこのターンで倒せなかったら負けるね」


 ターンを一つ消費してまでたんまりと力を溜めた相手は次にこちらが耐えられないほどの攻撃を放つ、それはなんとなくわかった。


「勇者って今どんな感じ?」


 千秋の言葉に私は勇者にカーソルを合わせその詳細画面を開く。するとそこには仲間の支援による攻撃力アップや、防御力アップなどの能力強化を示すアイコンの数々が記されていた。


「いち、にー、さん、しー……うん、このくらいあればいけると思う。たしかあの技って能力強化の数に応じてダメージも上がるはずだから」


 千秋が示唆するそれを思い出す。このゲームにて勇者だけが持っている必殺技。能力強化のアイコンがあればあるほどダメージも倍増するという技。仲間からの応援が多ければ多いほど力が漲る……そんな、世界を救う主人公にふさわしいデザインをされた技だった。


「そういえばそんなこと書いてたね。ホントよく覚えてるよねぇ」

「さすがに必殺技の中身くらい把握してようよ……」


 千秋のアドバイス通り、勇者の行動を必殺技に指定し、そのほかの仲間は少しでもダメージが上がるように相手の防御力を下げたり回復したりするよう指定する。


「お願い……!」


 私は一度両手を握り数秒目を瞑り祈った後、最後の仲間の行動を指定する。すると勇者たちは次々と指定された行動を開始していく。他の仲間たちが行動し終え、最後の一人となった勇者が、豪勢な演出が乗り、見るからに強そうな技をボス目掛け繰り出す。


 仲間の想いを乗せた一撃は、今までこのゲームで見た一番高いダメージよりも一桁大きかった。そんな攻撃を受けた裏ボスは、粉々に砕け散った。


「やった、倒せた……!」


 歓喜の声を上げたのは千秋だった。私はというと、喜びよりもようやく倒せたという達成感に乗ってきた疲れにベッドへと押し倒された。


「ようやくだ……」

「ふふっ、お疲れさま」


 こんなにも疲れている理由は、この勝利よりも前に数十、もしくは百にたどり着きそうなほどの敗北を積み上げていたから。千秋が相手の動きを記憶してしまっていたのもそれが原因だろう。というのもこのゲーム、巷で裏ボスの難易度があまりにも高すぎるで有名で、子どもでも遊べる全年齢対象ゲームなのにここの難易度だけは大人でも泣く、そう評されていた。


「でもこれで、このゲームも完全制覇~。やったね!」


 夜の暗がりに配慮するように、千秋が小声で精いっぱいの声を張って喜びを露わにする。それにうっすら微笑んで、もう一度二人一緒に画面へと視線を戻す。ボスを倒した後のストーリーも読み切って、その世界のすべてを堪能したのちにゲーム機の電源を落とした。


「それにしても、本当にようやくだね。入院する前からやってたけど、ずっと倒せなかったもん。やっぱり、私が倒れるといいことが起きるんだね~」

「だから、倒れてる時点で不幸なんだって……というか、入院したの数日前なんだから、ジンクスの効果もう切れてるでしょ」


 そうかなぁ、と千秋が変に難しい表情をして首を傾げる。私はそれを横目にゲーム機をしまって、ベッドへ横になる。数日経っても横になった瞬間に来る血液の代償は、慣れそうにない。


「千鶴、眠い?」

「……正直、全然」

「やっぱり。私も全然眠たくない。ゲームしてれば眠くなると思ったんだけどなぁ、ゲーム選び失敗したかな」


 眠くなるまでの時間稼ぎに選んだものが常に頭を動かし、一度のミスも許されないものであったのは確かに失敗だったかもしれない。けれど私たちは一度手を付けたゲームを終わらせないと気になるタチだし、そもそもやる前はそれらからくる疲労感で眠くなるだろうと推測していたから、単に予想が外れただけ。


 冴えた目のやり場に困って、天井に視線を移してもなにも見えないほど暗い。こんな時間に起きてゲームをしてるなんて知られたらなにか言われそう、という理由で電気は点けなかったから、夜の暗さをそのまま体験している。


「ねぇ。外、出よっか」

「はあ……!?」


 突然、ワルに染まった千秋の声が聞こえて飛び起きる。夜であることを忘れた大声が部屋中に響く。


「しーっ。おっきな声出すと怒られちゃうよ」

「いやっ、それどころの話じゃないでしょ! もっと怒られること言ったよね!?」


 そう言うと千秋は悪だくみをする子どものような、無邪気さに満ちた笑みを浮かべた。


「うん、怒られるね。でも、出てみたいの」

「なんで……それに、もし倒れたりなんかしたらどうするの? 二人一緒に倒れた暁には、誰も気づいてくれないかもしれないんだよ?」

「そのときは、そのとき。大丈夫だよ。私が倒れるときはなにかいいことが起きるから」

「そんなの当てになるわけないでしょ!」


 夜に響くには、いささか不快なほど大きな声を張った。それに怯えるようにしている千秋を見て、私は自分のしたことを後悔した。


「……ごめん。でも、一度だけでいいの。一度だけ、それだけで満足するから。……千鶴と一緒に、外を見たいの」


 まるで鳥籠に閉じ込められた非力な小鳥のような、そんな欲望。自分の力じゃ外に出ることすら叶わない、そんなか弱さに私は折れた。


「一度だけ、だからね」

「っ……! ありがとう、千鶴……!」


 カーテンを閉めることすら忘れてしまった窓の向こうに昇る月。その淡い光と重なって、何故か泣きそうな笑顔を浮かべてる千秋が今だけ、この世で一番美しく映った。


「そうだ。千鶴、手繋いでよ」

「はぁ……!? なんで……」

「だって、もしなにかの拍子に離れちゃったりしたら、大変でしょ?」


 私たちが離れられる最大の距離は一メートル行くか行かないかくらいの短さ。なにかの拍子でそれ以上離れてしまえば、管が抜けてしまう。


「もし私が転んだり、倒れたりしちゃって、管が千切れちゃったりなんかしたら大変。だから手を繋いで、ね?」


 千秋が手のひらを下向きにして自らの手を差し出す。その手を私は下からぎゅっと離れないように握り込む。


「えへへ。この繋ぎ方だと、まるでお姫様になったみたい」

「ほんと、今日のわがままっぷりはお姫様だ。でも、それだと私は王子様? うーん、なんか……私もお姫様がいい」

「誰も王子様だなんて言ってないよー? 私はお姫様同士でもいいと思うけどな。お姫様とお姫様の、二人っきりで、秘密のお城からの抜け出し。ワクワクしない? 私はむしろ、そっちの方がワクワクドキドキする!」

「私としては、目の前のお姫様がいつ倒れるかでハラハラドキドキですよ……」

「ふふっ。そのために、千鶴が手を握ってくれてるんでしょ? ……さ、私をここから連れ出して。あの月明かりに、連れてってよ」


 千秋の手をできる限り優しく引っ張って、ベッドから抜け出す。千秋は繋いだ手と反対の手で私たちを繋ぐ機械の入ったバッグをスタンドから取り外して手に持ち、病室を後にした。



***



 ピンポン、という知らせの直後、目の前の扉が開くと、微かで、けれど確かに差し込む光に私たちは顔を見合わせ安堵する。


「やっと……着いたー!」

「ちょっ、静かに!」


 喜びから出た千秋の大声は、響き渡るよりも前に、夜空へと消え入った。それを合図に、どうしてかお互い無言になって、代わりに私たちを照らす光を見る。


 月が、そこにある。ここは病院の屋上で、月明かりに連れてって、なんて千秋が言うから一番最初に月の光が浴びられる場所で思いついたここに来た。この病院で、一番月に近い場所。


「いやぁ、ものすごく長く感じた。果てのない道を歩いてるようだったよ」


 千秋が嫌そうな顔を一つも浮かべずにそんなことを言う。私たちのいる病室は四階にあり、この病院は七階建て。屋上に行くまでちょうど病院の半分くらいの高さを昇ってきた。昇るの自体はエレベーターだから楽だったけど、問題は病室からエレベーターに行くまでの間だった。


 私たちの病室は四階の端。そして不便なことにエレベーターがあるのは病室とは反対側の端っこ。そのため四階を横断するように移動しなければいけないのだが、消灯時間が過ぎた病院はこれ以上ないほど暗く、なにかが化けて出てもおかしくなかった。


 そして私たちを脅かすものは暗さだけでなく、人の目もそうだった。もし移動している最中に誰かに見つかってしまえば怒られる。そんな押しつぶされそうなほどの緊張が身体中をぐるぐる駆け巡るのを感じながら、なんとかこの場所にたどり着いた。


 エレベーターだってもしほかの階から乗ってくる人などがいれば、逃げられない。屋上へと着き、エレベーターの扉が開いた瞬間に差し込んだ月の淡い光が、どこまで進んでも解けない緊張をようやく融かした。


「誰もいないね」

「そりゃあ、入院するほど体調崩してる人間が、こんな時間に外出るなんて考えないからね」


 少し嫌味を混ぜて千秋に投げつけたけど、軽々しく笑ってはじかれた。


「それより、早くベンチに座ろ? 正直、ちょっと立ってるの辛いや」

「ちょっ、そういうことは早く言ってよ!」


 私は焦りながら千秋の手を強引に引っ張って、一番近くのベンチに座った。間にバッグを挟んで座ると、大きな溜め息とともに千秋が天を仰ぐ。先ほどまでなんともなかったのに、今は顔色が少し悪い気がした。暗い場所にいたからか、はたまた緊張が抜けた影響か、どちらにせよ千秋の変化に気づかなかった自分に嫌気が差す。


 しばらくして、ゆっくりと千秋が前を向きなおして、目の前の景色を眺める。屋上には、端麗な花々が花壇から上を向いていて、その中を歩いて周られる散歩スペースがある。外出できない患者が散歩できるように配慮された場所らしい。その散歩スペースのところどころに設置されているベンチ。散歩の休憩を取られるその場所は、花壇を一望できるように設置されていた。悠々と咲く花たちを照らすように月の淡い光が降り注いでいる。


「雪、ちょっと積もってるね」


 千秋が白い息とともに言葉を吐く。今は冬で、冬であれば雪も降り、雪が降るならそれは屋上にも積もる。幸い埋もれるほど降ってはおらず、散歩する分には問題はなかった。むしろ花弁に乗っかるよう小さく積もっている白が、冬だけの空間を作り上げて私たちの目を惹く。


「少し冷えるかも……千秋、寒くない?」

「大丈夫だよ。ずっとお布団に籠ってたから、むしろ涼めていいかも」


 なんら苦でもないというふうに千秋が笑う。けれどさっきまでずっと立ちっぱなしだった顔色の悪さまでは隠せていない。


「……? あ、雪降ってきた」

「え、うそ」


 千秋が上を見るのにつられて、私も同じ方向を見る。その瞬間、ひんやりとしたものが頬と目の間に降りた。


 ――雪だ。身体を冷やしてしまうといけないのに、空から降りてくる白に魂を持っていかれてしまったように、二人病衣一枚で空を見つめる。


「……綺麗だね」

「うん……」


 まるで初めて逢った人のような、会話の続かなさ。なのに、沈黙の時間も心地いいと思えるのは、私たちが双子だから? けれど、次に聞こえた千秋の言葉が、静寂を大きく切り裂いた。


「――ねえ千鶴」

「なに?」

「もし心中するとしたら、どうする?」

「はぁっ……!?」


 驚きのあまり空から魂が戻ってきて、その勢いのまま千秋を見る。千秋はにこにことしていて、笑い話をしているのかと勘違いをしてしまいそう。けれど、言葉の意味は本物。


 正直、冗談にもならないし、千秋のことだ、半分くらい本気な気がする。どう返そうか頭の中を必死に巡らす私に、千秋はにこやかに笑ったまま続ける。


「もしもだよ、もしもの話。やっぱり、管切っちゃう? 一番手っ取り早いもんね」

「……やだ。管は、死んでも切らない」

「どうして?」


 理由は、おかしいくらいはっきりとあった。けれどもし言ってしまえばその質問が現実になってしまいそうで、喉の奥に押し込みたかった。でも白い息を吐くのとともに、自然とそれは出て行ってしまった。


「心中するくらい一緒にいたいのに、管切っちゃったら、離れ離れになるじゃん。だから、死んでも管は切りたくない。繋がったまま、死ぬ」


 横目に千秋を見ると、驚いたような表情を浮かべていた。しばらくして、ゆっくりと目を伏して笑って、白い息を吐いた。


「……そっか」


 その姿は満足げで、不安が胸の奥に滲んだ私を一人取り残してしまう。


「千秋。死ぬときは、一緒だからね」

「えっ?」


 予想だにしてなかった言葉を聞いて、千秋が目を見開く。突然心中なんて言い出されたお返しができて、ほんのちょっとだけ心が満たされる。


「それって、心中してくれるってこと?」


 いじわるな表情で千秋がそう笑う。そんな綺麗な話じゃない。これは千秋が死なないよう現世に縛りつける――呪いだ。


 ほどなくして私たちは寒さから逃げるように自室へと戻った。その途中で、事は起きた。屋上から四階へとエレベーターで降り、箱から降りた瞬間、千秋が倒れた。


「千秋!」と血相を変え叫んだ私の声に、近くにいた看護師さんが駆けつけてきた。千秋と私、お姫様二人の秘密の抜け出しは、そこで終わってしまった。



***



 日が昇り、それを瞼越しに感じた私は目を覚ます。


「おはよう」


 寝ぼけ目を擦っていると、そんな声が聞こえた。その声にハッとして、私の頭は一瞬にして冴えた。


「千秋っ……! よかった……体調は? 大丈夫?」

「あはは、そんな大げさな」

「大げさじゃないよ!」


 反発するように出した大声が、まだ少し血の足らない頭に鈍い響きを与える。


「もう、倒れることなんて今回が初めてじゃないのに……そういえば、あの後どうなったの? 私が意識を失った、その後」


 千秋が倒れたあの後、看護師さんに抱えられて自室へと戻った。エレベーターの近くに四階のトイレはあるから、トイレに行った際倒れてしまったと思われたらしく、抜け出したことについてはバレなかった。そう伝えると、千秋はものすごく安心した顔をした。


「そっか、それじゃあ抜け出したお咎めはなしなんだね。やった! ほらやっぱり、私が倒れるといいことが起きるでしょ?」

「だから、倒れること自体がよくないんだって……」


 私は大声の残響に打たれる頭の重さに顔を顰めながら、そのときのことを思い返す。


 カーテンを閉じたからか、抜け出したときよりも暗く感じる病室のベッドに寝かせられた千秋の隣で横になると、眉をひそめて目を瞑る千秋の顔が見えた。そのかんばせに自分の無力さを見せつけられるようだった。


 抜け出しなんてしなきゃよかった。そうすれば、倒れることなんてなかったのに。もしかしたら、もう二度と、目を覚まさないんじゃないか。そんな悔いと恐怖に怯えながら、無理やり目を瞑って自分を眠らせた。どこにもいいことなんて、なかった。


 それなのに夜が明けてみればあっけらかんとした千秋が目覚めを祝福してくれて、安堵したのとともに、自分が馬鹿に思えた。


「でも、また倒れるなんてね。千鶴が血を分けてくれてからはずっと、調子良くなる一方だったのに」

「……」


 その言葉は、私を深く刺した。


「ごめん」

「どうして? どうして、謝るのさ」


 今まで私は、人生でご飯を残したことがない。嫌いなものがあっても、全部食べた。夜更かしをしたことは片手で数えられるくらいしかないし、風邪を引いたことだってない。千秋の体調不良で休んだり早退することはあっても、自分の体調が原因で学校を休んだことだって一度もない。そんな健康優良児だった。


 それは最古の記憶にある、お母さんの言葉。その使命を果たすために、いつだって千秋の代わりになることができるように。私ができる、唯一の方法だった。それなのに。


「ごめん……私の血じゃ、千秋に、普通の生活を送らせることも、できなくて……!」


 言葉とともに、目の奥から熱いものが滲んできたのがわかった。それが溢れてしまわないようにぎゅっと目を閉じるけど、揺れ動いて止まらない感情に押し出されたそれはどうしても堰き止められなかった。


「そんな悲しい顔しないでよ」


 千秋が私の目から零れる大粒の涙を優しく掬ってくれる。


「なぁに、私のスペアにでもなるつもりだったの?」

「……願わくば」

「あはは、願わくばか。願っちゃってたかぁ」


 千秋がどんどん溢れてくる涙を拭いながら、しょうがないなって言ってるような眉を乗せ優しく笑ってくれる。


「――ねえ千鶴。キスしてよ」

「はぁっ……!?」


 昨日と同じように、それなんかよりもさらに突拍子もないことを言うから、涙がぴたりと止んだ。動揺を表すように身体が跳ねて、ベッドを揺らした。その振動に千秋が揺られるのを見て、とっさに振動を鎮めようとしたけれど、千秋は少し気分が悪そうにした。今の拍子で管が抜けてしまっていないかと少し心配になって見てしまう。流れる真っ赤な糸が、今度は私の気分を悪くさせた。


「ごめん、大丈夫……?」

「大丈夫だよ。それより、また血見たでしょ」

「もう慣れたよ。というかなんなの」


 虚勢を張ってから先ほどの言葉の真意を尋ねると、千秋はまたしてもあっけらかんと笑いながら口を開いた。


「私たち、血を共有してるんだよ? キスなんてただの粘膜接触、今更じゃない?」

「そういう問題じゃないでしょ。キスにはそれ以上の意味があるぐらい、子供でもわかるよ」


 そう言うと千秋はわざとらしく考え込む顔をして、数秒後、私に笑顔を向けた。


「好きだよ、千鶴」

「なっ……はぁ!?」


 もう一度ベッドを揺らしてしまう。またやってしまったと思ったが、今度の千秋は笑顔を一切崩さなかった。


「なに言ってるのさ!」

「好きだよ、って。千鶴は、私のこと好きじゃないの?」

「いや……好き……は、好き、だけど。そういう意味じゃないでしょ」

「ほんとにー? それじゃあ、どうして血を分けてもいいと思ったの?」


 ずるい質問だ。私がこれに答えられないことをわかっているように。深い意味なんてない。ただ生きててほしかったから。それだけだったから。


「私に生きててほしかったんだよね」


 心を読まれてビクッとする。その様子を見て確信したのか、千秋が満足そうな顔になる。


「そうだけど……そんなの、友達だってそうでしょ」

「そうかな。確かに生きててほしいとは思うだろうけど、血を分けるなんてすぐ踏ん切りがつくかなぁ」

「なんなの、ほんと」

「それくらい私は千鶴とキスしたいってこと。でもさ、死んでほしくなくて、ずっと隣にいてほしくて……そう思う人のこと、本当に好きじゃないのかな?」


 一瞬、自分のことを言ったのか、目の前の同じ姿をしたもう一人のことを言ったのか、よくわからなかった。けれど、私を動かすにはそれで十分だった。


「一度だけ、だからね」

「……うん」


 そんな人生で一番くらい嬉しそうな顔しないでよ、ますます逃げられなくなる。


「千鶴からしてほしいな」

「注文の多い女」


 私はベッドに横になっている千秋に覆い被さる。唇よりも先に繋がっている管が見えて少し恨めしくなる。見下ろすようにする私を見るよう千秋が仰向けに姿勢を変え、おもむろに目を瞑る。もう逃げられない、そう悟った。


「……いくよ」


 こくり、と千秋が小さく頷く。ゆっくりと顔を近づけながら、寸前で私も同じように目を瞑る。


 柔らかな感触が、唇に触れる。


 熱っぽい息、体温、いつもよりうるさい鼓動、そのすべてが唇から伝わって、流れ込んでくる。私たちを繋ぐ管なんて血液しか伝えてくれなかったのに。


 千秋のなにもかもが流れ込んできて、受け止めきれずに溢れてしまいそう。零したくないから、代わりに私の中から酸素が追いやられて、失くなっていく。次第に意識が朦朧としてきた。でも、どうしてか離れられない。離れたくない。離れてしまえば、そのまま千秋との繋がりがすべて切れてしまいそうで。


「んっ……ぷはっ! っ……はぁ、はぁ……」


 時が止まってしまったように感じたその時間を終わらせたのは千秋だった。千秋は長い道を走り抜けたときのように火照った顔をしていた。それを見て私は自分のしていたことに気がついた。酸素すらうまく巡らない千秋から呼吸を奪ってしまっていた。じんわりと、罪悪感の汗が滲む。


「大丈夫、千秋!?」

「大丈夫……ちょっと、思ってた、より……息、できなかったな、って……」

「ごめん、私なにも考えずに……!」


 せわしなく上下する千秋の胸に私の胸が痛んだ。


「いいの。それに……なんだかドキドキして、ふわふわした」


 千秋が、辛そうな顔をしているのに、めいっぱいの笑顔を見せる。その健気さが、痛かった。


「こんなに長いキス、一生できないと思ってた。酸欠で倒れちゃうもん。血を分けてくれた千鶴のおかげだよ。……でも、今もなんだか、倒れちゃいそう」


 千秋が苦笑いといったような顔をする。


 私も同じ高鳴りを覚えていた。千秋に覆い被さるように倒れてしまいそう。けれど、そうしたら千秋の細い身体が潰れてしまうから、必死に堪える。


 酸欠か、緊張か。心臓が異常なほど大きく鳴って、壊れてしまいそう。


「さっきの話だけど」


 私は呼吸を整えながらぽつりと投げかける。


「好きとか、嫌いとか、よくわからない。私はただ、姉妹だから、双子だから、千秋と血を分けた。……今はそれでいい?」


 そう言うと、千秋はどこか驚いたような顔をしたのち、少し、笑った。


「うん。百点満点。……ね? やっぱりスペアじゃなかったでしょ?」

「なんの話」


 気づかぬうちにもう一度滲んでいた私の涙を優しく拭いながら、千秋は私の瞳を深く覗き込んで言った。


「スペアだったら、双子にはなれないし、キスもできなかった。でも今私たちは双子で、キスもできたよ」

「……なんなのほんと」

「そういうことなんだよ~」


 千秋は嬉しそうに笑って私を軽く抱き寄せる。どういうことなのかは、わからないし、今の私じゃ理解できないんだろう。けれど、千秋が柔らかく抱き寄せてくれたぬくもり、その胸から聞こえるせわしない心臓の音を聴いていると、わからなくていい、そう安心できた。


「私たちを繋ぐこの管はさ、きっと赤い糸だね。絶対に千切れることのない、運命の糸」


 千秋が私の頭を撫でながらそう言う。


「それなら……ずっと離れないよね、千秋」

「……うん」


 千秋は私の頭をぽん、ぽん、と軽く叩いた。ファーストキスはレモンの味と聞いたことがあるけれど、味なんて全くわからなかった。味を感じられるほどの余裕も、器用さも、私にはなかった。


 けれど、昨日の質問も、今日のキスも、これ以上ないほど満足そうな千秋の様子だけは、痛いくらいわかった。それが、私の胸の奥をざわつかせているのも。


 このごろの千秋は、まるで、まるで……死に急いでるみたいだ。



***



 真っ暗な世界で、一人身体を起こす。少し静止して耳を澄ますと、隣から安らかな呼吸が聞こえる。私はその呼吸を心ゆくまで聞き浸ったあと、隠すようにベッドに挟んでいたものを取り出す。


 隣の人物を起こさないようにスマホの画面の明かりだけでそれを照らす。照らされたそれは、メモ帳とそれに括りつけられたペン。その中身を、静かにめくっていく。箇条書きで文字がいくつも詰め込まれたページが目に入り、そこで手を止める。


 下から二番目にある「キスをする」の文字列を掻き消すよう線を一本、文字に沿って切り込む。


 箇条書きされたすべての文字を眺める。一番下以外のすべてに線が入れられているのを見て、どこか安堵する。


「わがままリスト、全部埋まっちゃったな。私のわがまま全部叶えてくれるなんて、やっぱり千鶴はすごいや。……私よりも、よっぽどお姉ちゃんだ」


 隣で静かな寝息を立てている人物に聞こえないように、ぽつりと暗闇に消え入る声で零す。やがて寝息しか聞こえなくなったとき、私は隣で眠る人物の頭をやわらかくなでる。起こしてしまわないよう、そっと。


「ごめんね、千鶴。私はあなたより先に死んでしまうから、繋がったままはダメみたい。……ありがとう。死んでも繋がったままがいいって言ってくれて、ほんとに嬉しかった。嬉しかったけど、辛かったんだ」


 私は目の奥に感じた熱いものが滲んでしまわないように、きゅっ、と目を瞑った。


「あなたは死んでも管を切らない。それでどれだけ自分が縛られて、不幸になっても。だから、私が、あなたを不幸から遠ざける。それが……私にできる、最初で最後のお姉ちゃんらしいことだから」


 妹の頭を撫でている手をそっと放して、もう一度ペンを握る。そして、メモ帳の一番下に書いてある文字列に、妹の頭を撫でたように、ゆっくり、優しく線を引いた。その瞬間、コンコン、と最小音量のノックが聞こえてきた。


「来たよ、千秋ちゃん」


 音を立てずに扉を開き顔を出したのは、看護師の桐田さんだ。


「このくらいの時間に来てって言ってたけど、どうしたの」

「お願いがあるんです。聞いてくれませんか?」

「……うん、いいよ」


 その言葉に最大限の感謝を感じながら、私は目を閉じて一度、深呼吸をする。そしてゆっくりと目を開いて、その覚悟を口にする。


「妹と繋いでいるこの管を――私の命を、抜いてください」



***



 寒い。どこかから風が入り込んできているのだろうか、空虚な冷気が肌を撫でる。なにかを訴えるよう吹くそれに、私は目を覚ます。


「……ち、あき……?」


 その風の理由がわかった瞬間、身体の奥底まで凍りついた。


 ――千秋が、いない。確かにそこにいたということだけを教えるように布団が抜け殻のような空洞を作っていて、そこから冷たい風は入ってきていた。


「え……千秋っ……! どこに行ったの……!?」


 布団をがばっ、と持ち上げ、焦りからくるめいっぱいの力を込めて飛び上がる。起き上がるときに来るめまいなんて、今は頭の中になかった。


 まだ外が暗いから、部屋の電気を急いで点けた。けれど部屋のどこを照らされても千秋はいない。ベッドから落ちてしまったのかもしれない、と考えベッドの下を探しても、いない。探す際、スタンドがないことに気がついた。そこに吊るされているはずの機械も、ない。スタンドがあったはずの場所から、おそるおそる伸びていたはずの管を辿り、私の左手首を見た。


 包帯が巻かれいているだけだった。血を分ける管も、それがもたらす違和感ごと消え去っていた。


「どうして、なんで……あれ……?」


 ふとベッドの間になにかが挟まっていることに気がついた。よく見てみると、それは千秋の持っているメモ帳だった。背表紙だけ見えているそれに一縷の望みをかけ、私は縋るようにベッドから引き抜いた。


「……っ!」


 言葉を失った。メモ帳の後ろのページにある、箇条書きがいくつも書き連ねられたページ。「裏ボスを倒す」「夜の屋上にこっそり行く」「心中を訊く」「キスをする」……管で繋がれてから、今まで二人でしてきたことが何十個と記されていて、そのすべてに横線が引かれていた。


 私が声を失ったのは、メモの一番下に書いてある文字……「お姉ちゃんらしいことをする」のところに、横線が引かれていたから。


 もしそれが、千秋が消え、管が消えたことを示すのなら。死に急いでいるように感じたあの予感が、本物なら。


「……行かなきゃ」


 私はメモ帳を握りしめ、今千秋がいるはずの場所へ迷わず駆け出した。


 電気も消さずに飛び出たとき、ちらと見えた部屋の時計が示したのは、六時過ぎ。そろそろ、夜が明ける。



***



 ピンポン、と知らせが聞こえ、目の前の扉が開くと、少し強い風が吹き込んできた。雪がしんしんと降っており、病衣一枚じゃすぐに身体の奥底まで冷えてしまう。


 目当ての人物を探すため、逸る足取りで雪を踏みしめる。この場所の端に着いたとき、雪に飾られるように美しく、儚く、フェンス越しに背中を向けて立つその人を見つけた。夜明け前の空に重なるその姿が画になっていたからか、焦って取り乱すはずの心はやけに冷静で、私のすべてが囚われてしまったように、今にも消えそうな後ろ姿を見つめていた。


「……早いね。もう来るなんて。今、心の準備してたんだ。千鶴が来る前に終わらすつもりだったのに、臆病だね」


 なにも言わなかったけれど、私の存在に気づいてその人が振り返る。フェンスを挟んで、その人と目が合った。おどけたような笑顔とは裏腹にその目が寂しそうな色をしているのは、すぐにわかった。双子の私にだけ訴えているようだったから。


「千秋」

「ふふっ。よく屋上にいるなんてわかったね」

「……メモ帳、見たんだ」


 私は手に持ったままのメモ帳にきゅっ、と力を込めた。


「見ちゃったの? ないしょって言ったのに、いじわる。でもそれだけで?」

「うん。千秋がなにをしようとしてるのかわかった。そして、どこでやるのかも。……心中の話、ここでしたから」


 そう言うと、千秋は驚いた顔をして、その話をしたベンチを見た。そして困ったように笑った。


「やっぱりすごいなぁ、千鶴は。私のこと、なんでもわかっちゃう」

「……双子だから、そんな予感がしただけだよ」

「そっか……それならさ。双子として、最後のわがまま、聞いてよ」


 自然と身体が強張るのを感じた。怖いくらい、千秋は優しい笑顔を浮かべてる。やめて、その先を言わないで。それ以上を聞いたら、私は。


「私に、お姉ちゃんらしいことをさせて、千鶴」

「……っ! やだ……!」


 否定じゃない、拒絶だった。そんな強い感情が、私の口から吐き出た。今千秋がいるのは、屋上の、フェンスの向こう側。七階より一つ上この場所から、一歩踏み外せば真っ逆さまに落ちる場所に千秋はいる。私が首を縦に振ってしまえば、千秋はその笑顔のまま、後ろに倒れるだろう。私の目の前から、いなくなってしまうのだろう。それが、お姉ちゃんらしいことだと信じて。


「どうしてそんなに大きく首を振るの」


 理由なんてなかった。大きなものがいくつもあって、見つかるはずもなかった。どれもうまく言葉にできるものじゃなかった。だから、私は強く首を振るだけしかできなかった。昨日みたいに、涙をまた滲ませて。昨日まで、いつだってこの雫を拭ってくれるほど近くにいたのに、今じゃ手を伸ばしても触れられない。


「どうして、離れるの……!」

「……だって、私がいると、千鶴に迷惑かけちゃうから」


 千秋の笑顔が、初めて崩れた。私に見栄を張るためだけの脆弱な笑顔に隠れていた千秋の表情には、月も星も、明かりもない夜のような、暗いものが染みついていた。


「身体が弱くて、何回も倒れて。それだけでも千鶴にずっと迷惑かけてたのに、今度は千鶴の身体を犠牲にさせるまでになった。いままでも、この先だってこれ以上、何度も何度も迷惑かけるんだよ……? そんなの、ダメだよ」


 犠牲になんかしてない、私が好きでやったこと。迷惑なんかじゃない、千秋が生きてることの方が、何倍も大切なんだ。言うべきことはいくつもあったのに、出てこない。今の私の中にあるどんな言葉を絞り出しても、それは薄っぺらい言葉になって千秋の中には響かないから。


「ねえ千鶴。今まで私がしてきたお姉ちゃんらしいこと、なにかあったかな」

「え……?」

「なにもなかったよね。お姉ちゃんなのに、妹に迷惑かけてばかりで、妹が困ってるときになにも力になれなかった。憶えてる? ちっちゃい頃はさ、千鶴、私のこと『お姉ちゃん』って呼んでくれてたよね。けどある日から『千秋』って呼ぶようになった。……私が、お姉ちゃんらしいこと、なんにもできなかったから」

「違う……」

「違わないよ!」


 しんしんと降る雪の中、平然を装っていた千秋が初めて乱れた。感情が涙となって、目から溢れ出てくる。その涙が私の胸まで滲んで、じん、と痛く熱くなるのを感じた。


「もう、私のせいで千鶴の人生を縛りつけるなんて、嫌なの……! だから、だからっ……最期だけ、今だけでいいから、私にお姉ちゃんらしいことをさせてよ!」


 涙を散らしながら叫ぶ千秋に私は呑まれた。千秋から零れる一粒一粒が、鋭い針となって私の心に降り注ぐ。


 私は間違ったことをしたのだろうか。血なんて分けなければ、お互い円満に解決できたのだろうか。そうすれば、その涙を見ずに終われたのかな。


「ね。いいでしょ、千鶴」


 それでも、私は首を横に振った。弱々しく、なににもならないその主張に、私の心は映った気がした。


「さようなら。一緒にいられて、最高に幸せだったよ」


 千秋は、涙を浮かべながら最後に笑った。


 どうして、そんな顔するのさ。うまく笑えてないよ、まだ泣きそうになったままだよ。本当は、本当は――!


「いやだっ……ふざけるな……!」


 千秋が背中から倒れ込むように身体を宙に投げ出そうとしたその瞬間、私はメモ帳を屋上の床に放り投げ、無我夢中でフェンスから身を乗り出し、千秋の腕を引っ張っていた。飛び降りんばかりのその勢いは、なにかが違っていれば、私は千秋とともに落ちていそうだ。千秋がいなくなるくらいなら、そっちの方が私もよかったから、迷いなんかなかった。


「赤い糸はなんだったの……! 絶対に千切れることのない、運命の糸は、なんだったの……!」

「えっ……どうして……なんで……」


 千秋が絶望に近い色の表情を浮かべる。非力な私じゃ、人一人持ち上げるのすら辛い。お人形のように軽い千秋じゃなければ、すでに手が放れてしまっている。けれど軽いから、吹きすさぶ風に何度も揺られる。フェンスが食い込んでお腹も痛い。それでも、手を放してしまうくらいなら、ずっとこのままでいた方がマシだ。


「私は、絶対に、放さない……! この手を、私たちを繋ぐ糸を、千切れさせるなんて、させない……! 死んでも、放すものかっ……!」

「なんで……放してよ……! 私たちは一緒にいない方がいいんだよ……!」

「どうして、そんな強がり、するのさ……! 千秋は、私と双子でいてくれた、私の隣にいてくれた……一番お姉ちゃんらしいこと、してるじゃんか……!」

「っ……そん、なの……」

「そんなのがなに! 私にとっては、千秋が私にしてくれる、なによりも一番、お姉ちゃんらしいことなんだ!」


 拭われずに零れてく涙が、千秋の頬も濡らしてしまう。千秋の目からも涙が零れて、二人の涙が混ざり合って、仄暗い夜明けにきらりと光った。


「だから……ずっと隣にいてよ……」

「……私、ほんとは、お姉ちゃんらしいことできてたの……? 迷惑かけてばっかじゃ、なかったの……?」

「そうだよ。だから、死なないでよ。死ぬときは一緒だって、約束してよ……」


 それを聞いた千秋は、消えようとしたときよりも幸せそうな笑みを浮かべて、ひと際大粒の雫を溢れさせた。


「そっか……それで……よかった、んだ……」

「千秋……?」


 突然、千秋の瞼がゆっくりと下りてきた。それに応じるように、千秋の顔色がどんどん悪くなっていく。掴んでいる腕からもどんどんと力が抜けていっているのがわかった。


「千秋、大丈夫!? しっかりして!」

「ごめ、ん……安心した、からかな……気が、遠く……て……」

「千秋! っ……くっ……!」


 だらん、と、魂が抜けたように千秋から全身の力が抜ける。風にされるがままになる千秋は、魂が抜けたのに、一瞬にして重くなった。そろそろ限界を迎えそうな腕が悲鳴を上げそうだ。それでも、放さない一心でなんとか保つ。


 けれど、視界を一瞬歪ませたゆらぎが、それを邪魔する。


「あ……」


 私はもともと貧血じゃないけれど、先ほどまで千秋に自分の血を分けていたことを忘れていた。いつもより血が足りない状態の、立ち眩みが起こるくらいの身体で、こんなにも無理をすれば意識を失うのもおかしくない。


「待って……落ち、ちゃう……!」


 もう意識を正常に保つことは難しかった。けれど最悪の未来だけは、回避しなきゃいけない。このまま手を放す、それだけは。


 私は千秋にかけた言葉を思い出す。死ぬときは一緒だと言った、その言葉を。もう千秋を持ち上げて二人とも助かることは叶わない、そう悟った私は、ゆっくりと遠のいていく意識を受け入れた。ただ、握っている手だけを絶対に放さないと決めて。


 やがて、なにもかもわからなくなった頃。ずるずると身体がフェンスに擦られるのを感じた。そのまま、宙に放り投げられ、重力に導かれるのを感じた。


 遠くに、夜明けを告げる赤を見た。



***



「……ったく、ほんとに無茶苦茶だなぁ」

「痛っ!」


 私は病室のベッドの上で、桐田さんのそんなボヤキを聞きながら消毒液を染みらせたコットンを傷口に当てられていた。桐田さんの声色とは裏腹に、コットンの触り方はとてつもなく優しい。けれど消毒液は容赦なく痛みを刺してくる。


「ほら、そんな暴れない! 管抜けたらどうするの。もう一度離れ離れになりたいわけ?」


 痛みに跳ねると、桐田さんの言葉が私をベッドへと縫いつけた。私の左手首には管が刺されていて、その中を元気な赤が駆け巡っている。その先を辿ると、もう一人、私と同じように傷だらけになっている人物の右手首へと繋がっている。


「あはは、痛そ~」

「お姉ちゃんも、妹ちゃんの手当て終わったら同じ目に合うんだからね?」

「あ、あは……嫌だー! 千鶴助けてよ!」


 ついさっき暴れるなと釘を刺されたのに、傷だらけの私に容赦なく飛び込んでくるその人物は、私の姉の千秋。すぐさま私の番が終わって、恐怖に怯える千秋の番になった。


「ひゃ~! 痛い~!」

「だから暴れない! 姉妹でおんなじ反応しないの!」


 私よりも暴れっぷりが酷いのではないだろうか、管を通じて振動が伝わってくる。千秋は私と同じように傷ついているのだけれど、運よく血が出るほどではなかった。千秋は血が出てしまえばどんなに少量でも命に係わるから、本当に幸運だった。


 苦笑しながら手当てを終えた桐田さんは「もう二度と同じことしないでよ!」と私たちに大きな釘で二人いっぺんに刺した。


 そして病室を出ていき、扉が閉まったのを見ると、私たち二人は顔を見合わせた。先に笑い出したのは千秋だった。


「あははっ! はぁ、生きてる生きてる!」


 ちょっと前まで身体に刻まれた傷よりも大きなものを願ってた者とは思えない言葉を吐きながら、千秋は勢いよくベッドに仰向けになった。


 私たちがどうしてこんなに傷だらけなのかは、もちろん“それ”のこと。


 おそらく一時間も経ってないと思われる、夜明けごろ。私たちは二人とも気を失い、七階建ての屋上から宙を舞って真っ逆さまに落ちた。普通ならそのまま死ぬだろうし、私たちだって覚悟していた。けれど、現実はそうはいかなかった。


 落ちた先に偶然生えていた木に引っ掛かり、地面と激突することを免れたのだ。その木は冬でも緑をつける常緑樹で、積もっていた雪も合わさりうまい具合にクッションとなったらしく、死どころか大きなケガも免れた。それだけでは終わらず、引っ掛かった木が生えていた場所は、これまた偶然早起きしていた入院患者さんの部屋の窓の前。落ちてくるところをリアルタイムで目撃したその人は、すぐに助けを呼んでくれたらしい。そして看護師さんたちに救助され、命に何の問題もなく助かり、木に引っ掛かったときの傷のみで今ここで元気にはしゃいでいる。


「本当に。なんで生きてるんだろ」

「なにって、決まってるでしょ? 私が気を失うときは、いいことが起きるんだから」

「……」

「……なんか言ってよ!」


 千秋がむず痒そうな顔で抗議した。今までならあり得ないと一蹴していたが、これまで人生の中で積み重なってきた小さな実績と、今回のこれ以上ないほど偶然に偶然が折り重なって助かった大きな実績があると、一番説得力があるのはそのジンクスになってしまい、なにも言い返せなくなってしまった。


「……結局、放さないとか、なんとか。ただ恥晒しただけじゃん……」


 言い返さないのならそのジンクスが本当にあることになってしまって、もしそうなれば、私が意地でも手を放さなかったあれは無意味になったということになる。けれど千秋はぽかんとした顔でそれを否定した。


「そんなことないよ。千鶴がちゃんと手を握ってくれてたから、私は死なずに済んだんだよ。ほら、桐田さんも言ってたじゃん。私は千鶴にぶら下がってたって」


 それは先ほどのも含め、ケガの手当て中に桐田さんから聞いた私たちが気を失ってからの一部始終。聞いた話によると、私の身体が木に引っ掛かり、その私に手を握られて千秋がぶら下がっていたらしい。だから木に掠るくらいだった千秋にはあまり傷がなかった。けれどもし私がいなければ、私がその手を放していれば、千秋はそのまま地に落ちていた、そう言いたいのだろう。


「そんなの、結果論でしょ」

「それでもいーの。……それに、嬉しかったもん。千鶴が、ああ言ってくれて。千鶴が私を留めてあの言葉をくれなかったら、私は死を願ってた。あのときの私にとっての『いいこと』は、そっちだったんだよ」


 千秋は目線を落として、優しく自分の右手首を撫でた。そこに繋がる管を、愛おしそうに見つめて。


「でも、千鶴がお姉ちゃんらしいことはもうしてるって言ってくれて、死ぬときは一緒だって言ってくれて、ようやく死にたくないって思えた。……というより、ほんとは死にたくなんかなかったけどさ、認めたくなかったんだ。認めちゃうと、このまま千鶴を苦しめたまんまになっちゃうと思ったから。……千鶴は? あのときなにを願ってたの?」


 難しい質問に眉をひそめる。なにも思いつかないから、千秋を真似て自分の左手首を軽く撫でた。千秋と違って管を見つめられはしなかったけど、代わりに言葉が自然と零れた。


「なにも。ただ、絶対に離れたくない一心だった。それ以外は……生きるも、死ぬも、考えてなかった、と思う」

「……そっか。それじゃあ、千鶴がそう願ってくれたから、手を放さずに済んで、それで私の願いも叶ったんだね」


 夢見すぎじゃない? そう言いかけたけど、そうだったらいいな、と思う自分に気づいて、その言葉を喉の奥へと押し込んだ。それはどんな言葉よりもすんなりと喉を通って、霧散した。


「やっぱり、千鶴は私の願いをなんでも叶えてくれるね。あのメモ帳に書いてたわがままリストも……あ! あのメモ帳、どこやったの!?」

「え……? あ……千秋助けようとしたとき、屋上の床に放り投げちゃった……」


 千秋史上、一番歪んだ驚きの顔を見た。



***



 エレベーターの扉が開き、目的ものをすぐに見つけたらしい千秋は、散歩に出かける犬のように駆けだした。私はリードのように伸びていく管が抜けないよう必死についていく。


「あった! よかったぁ……」

「もう、急に走らないでよ。管抜けたら危ないし、息も切れちゃうよ」


 屋上には早朝だからか、未だ誰もいない。けれど私たちが身を投げたときより日は昇っていて、すでに空へと綺麗な青を映していた。愛おしそうにメモ帳の表紙を撫でる千秋を横目に、早朝と冬特有の澄んだ冷たい空気を肺いっぱいに吸って、白い息を長く吐き出す。


「あー、私置いて気持ちよさそうなことしないでよ」

「深呼吸くらい、勝手にやればいいでしょ」

「もー、わかってないなぁ……」


 千秋が私に対抗するべく勢いよく深呼吸をした。息を吐くというよりは、鼻を鳴らす感じだったけど。


「うん、気持ちいいね。でもちょっと、意識が遠くなる気がする」

「それダメでしょ! とりあえず近くのベンチ座ろう!」


 ただでさえ気を失って落ちたというのに、そのすぐ後にもう一度屋上へと来ているのだ、身体に悪いったらありゃしない。もし今の状況を桐田さんに見られていたら鬼よりも怖い形相で起こられそうだ。桐田さんにそんなイメージないけど。


 私たちはこの前夜中に抜け出したときと同じベンチに座り、もう一度息を整えた。


「メモ帳、あってよかったね」

「本当。大切なものだから、失くしたらどうしようかと……あった」


 千秋がメモ帳をめくりながら、力の抜けた苦笑いを浮かべる。すると後ろのとあるページで手が止まって、そのページに視線を落とした。覗き込むように私も見ると、それは箇条書きが何個も敷き詰められ、その一つ一つに線が引かれているもの。私が千秋を助けるきっかけになったページ。


「じゃーん、わがままリスト。ふふっ、我ながら、すごい量。この数全部、千鶴が叶えてくれたんだよ? でも……」


 千秋はページの付け根を掴むと、ビリビリビリッ! っと勢いよくそのページを破いた。束から離れてしまった切れ端に私は目を見開く。


「ちょっ、大切なものじゃなかったの?」

「うーん。確かに大切なものだけど、死ぬまでのわがままリストだから。期限がなくなった以上、もう使えないもん。それにさ、ほんとはわがまま、メモ帳に入りきらないくらいいっぱいあるんだ。だから、書いてたらキリないの。あと……」


 言葉を切ったと思うと、不意に千秋の顔が私の顔に近づいてきた。そしてそのまま、お互いの唇が軽く触れ合う。


「わがままが一回だけで終わるなんて決まり、ないもの。ずっと線を引かずに残るリストなんて、意味ないでしょ?」


 千秋がいたずらな顔で私ににっこりと笑う。その様子に私の心臓は跳ねた。二度もわがままを叶えさせられた唇が熱く感じる。


「だから、いいの。わがままができたら、その都度千鶴に叶えてもらうもん」

「……やめて。身体が、いくつあっても足りないから」

「えーなんでさー、けちー!」


 その声が遠い空へと消え入る。淡い青に染まる、冬の空に。そんな声とは裏腹に、千秋の嬉しそうな感情が濃い赤に乗って私へと流れ込んでくる、そんな気がした。おそらく千秋も、同じだ。


 夜空を焼く赤を最期の景色と悟っていたけれど、その先の空を見られるなんて。願わくば、この先の空も、ずっと眺められたら……二人で、一緒に。

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命結う、赤い糸。 霜月透乃 @innocentlis

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