第69話樽廻船の女船長、商人の町へ 其ノ弐拾肆

「ねねと夏は知り合いだったのか!」


なおは出発前の柳やでのやりとりを思い出す。しかしあの時の夏は、喜兵寿が新川屋の船に乗ることを全力で反対していなかったか……?


「夏とわたしは古い仲でねぇ。親を亡くしたもの同士、山奥の寺で一緒に大きくなったわけさ。あの子は小さな時からそりゃあ綺麗な子だったよ」


酔っぱらっているのだろう。今日のねねはやけに饒舌だ。


「でも二人は『知り合い』って感じじゃなかっただろ?」


「そうだよ、そんなに仲がいいならなんでお互いそんなによそよそしいんだ?!」


訳が分からない、といった様子のなおと喜兵寿を見ながら、ねねはケタケタと笑った。


「女はね、いろいろ複雑なんだよ。わたしは夏を世界で一番愛している。だから夏を世の中すべてのものから守りたい。ただそれだけさ」



今でさえ船頭という立場も得て、対外的にも認められ始めているねねだったが、新川屋に養子に迎えられた時には本当にいろいろなことがあった。


「男」というものに忌々しい思い出しかなく、逃げ出すように山の寺にいたというのに、養子に入った新川屋でも結局同じようなことが起こった。


目の前が真っ暗になるような絶望と悲しみ。嘔吐し続けながら、ねねは世界を恨んだ。


それでも歯を食いしばってそこにとどまり続けたのは、数年後に夏も同じ町に来るということが決まっていたからだった。あの当時下の町で渦巻いていた、無数のどす黒い欲望の塊。ねねはどうしたってそこに夏を巻き込みたくはなかった。


だからどんな手を使っても夏の盾になろうと決めたのだ。自分自身が擦り切れようとも、後ろ指を刺さされようとも。自分がこの町に来た時に感じた、あの辛さを絶対に夏に味わわせたくはなかった。


ねねは町の権力者たちと肌を重ね、関係を作り、「今度麦湯にやってくる子には絶対に手を出さない」と誓わせた。少しでも必要を感じれば「色」を使って近づき、夏を守れる壁を増やしていった。


それもこれもすべては夏のため。夏がなんの心配もなく屈託のなく笑える環境を作っておくため。そのためならば自分は別にどうなろうと構わなかった。


だから夏が訪ねて来てくれたあの時、本当は叫び出したいくらいに嬉しかったのだ。駆け寄って力いっぱい抱きしめ、首元に思いっきり顔をうずめたかった。


しかしそれはできなかった。


以前と変わらない夏の顔を見た瞬間、自分がどれだけ汚れているかに気づいてしまったのだ。男たちの手垢がベタベタついたような身体で、美しい夏に触れることは到底できなかった。


すべては仕方がないこと。最初からわかっていたこと。夏が幸せなのであれば、それがわたしの幸せ。


ねねは何度も自分に言い聞かせるように呟き、布団に顔を突っ込んで泣いた。泣いて泣いて、泣き続けて、身体中の水分も、自分の気持ちもすべて吐き出した。


そこからねねは夏を避け続けている。影の立場として夏を守り続けると決めたのだ。でももちろんいつだって隠れて見守っているので、ねねの想い人も、今何をしているのかもすべて知っている。だからこそ、「びいるという酒を造りたいから、そのために堺まで同乗させてくれ」というわけのわからない、無茶な依頼も引き受けたのだ。



ねねは手元の徳利を引き寄せると、ごくごくと一気に飲み干した。


「夏を傷つけるようなことをしたら容赦はしないからね。特にあんた!喜兵寿!」


そういって、ぎろりと喜兵寿を睨みつける。


「わたしはねえ、あんたにずっと言いたいことがあったんだよ」


「え、俺……?」


急にスイッチの入った様子のねねに、喜兵寿はたじろぐ。


「あの子の想いを知っておいて、なんなんだ、あの態度は!あの子の華のような微笑みを無下にしやがって」


ねねは喜兵寿に詰め寄る。


「夏に『きっちゃ~ん』とか呼ばれてるの知ってんだぞ?!あの子は女神だぞ、女神。もっと喜べよ。ありがたがって土下座したっておかしくないだろ」


「いや、夏は別に俺のこと好きじゃないだろ……ってか、ねね、目が座ってるぞ」


「うるさい!酔っぱらってなんかない!わたしはただ、夏がどれだけかわいいかについて伝えたいだけだ」


「いや、ちょっと、そんなグイグイ来られたって困るんだが……おい、なお助けてくれ!」


逃げる喜兵寿に、襟首をつかもうとするねね。それを見てなおは爆笑していた。


「いやあ、賑やかでいいねえ。喜兵寿がすきな夏に、その夏を好きなねね。夏もねねもお互いに盛大にストーカーしてるっぽいし、江戸の恋愛は派手でいいねえ」


ぎゃあぎゃあと騒ぐ3人の声に、どこからか聞こえてくる酔っぱらいの舟歌、そして酔いつぶれて眠る男たちの大きないびき。避難港での最後の夜は賑やかに、ゆっくりと更けていったのであった。

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