第63話樽廻船の女船長、商人の町へ 其ノ弐拾壱

真っ白な、大きな鳥の夢を見た。


薄青の中、大きな羽を広げ、こちらに向かって何かを語りかけている。あたりはひたひたと静寂が満ちていて、なんだかとても心地が良かった。喜兵寿は鳥に向かって手を伸ばす。ふわりと触れたその羽毛は、あたたかで、麹のにおいが一面に広がった。


「まるで米麹を造っているような手触りだな」


そう思った瞬間、場面がぱちりと切り替わる。それは実家の酒蔵の麹室(こうじむろ)だった。


「麹づくりはな、赤子の世話をするようなもんだ。一刻ごとに様子をみてやり、手入れをしてやる必要がある」


声のする方を見上げると、祖父の姿があった。口ひげをたっぷりと蓄え、細い目をさらに細くして微笑んでいる。


「麹は生き物だ。麹が何を求めているか。俺たち杜氏は、それをきちんと感じ取ってやる必要がある」


目の前には父がいて、黙々と麹の手入れをしていた。米の状態を確認しながら、固まりになった米をほぐしていく。


麹づくりは、洗米し、蒸した米に麹のもとを振りかけることから始まる。それを三日三晩かけて麹にしていくのだ。麹のもとは米の中で増えていくことで熱を持つので、その熱が上がりすぎないよう「手入れ」を行う。文字通り米の中に手を入れ、固まりになる米をばらばらにしてやる作業なのだが、喜兵寿はこれがどうしようもなく好きだった。


祖父と父に頼み込み、何度か麹室に入れてもらった。彼らの作業を食い入るように見つめながら、こっそり米に触れる。それは見た目からは想像もつかないくらいあたたかくて、そして確かな生き物の気配があった。


「酒は生き物なのだ。生き物だからこそ思うようにはいかないことも多いし、だからこそおもしろい」


祖父の言葉を聞きながら目の前の米に触れた瞬間、また場面が切り替わり、大きな鳥の前に戻った。


鳥は大きな声で鳴いていた。それはひょおおおおおおとか、ごおおおおおおとか、風のうなりのようで、その声に呼応するように麹のにおいが強くなっていく。喜兵寿はそれを一杯に吸い込むと、静かに目を閉じた。


ああ、日本酒を造りたい。自分で造った日本酒を、あいつらに腹いっぱい飲ませてやりたい。本当に俺がやりたいことは……


ふとその言葉が浮かんだ瞬間、喜兵寿は目を覚ました。


ふわふわとした夢から一気に引き戻された時に感じる、腹の中が掬われる感覚。心臓はバクバクいっており、息を吸い込んだ瞬間、喜兵寿は盛大にむせた。


「おい!喜兵寿が目を覚ましたぞ!!!」


誰かの叫び声と、バタバタと言う足音。自分はいま麹室にいたのではなかったか……?

無理やり目を開けるも、視界はぼやけ、何が何だかよくわからなかった。


ぼやけた視界がだんだん戻ってくると、たくさんの男たちが心配そうに喜兵寿を取り囲んでいるのが見えた。なおに至っては、鼻先が触れそうな程近くでこちらを見ている。


「おい、いくら何でも近すぎるだろ」


喜兵寿が言うと、男たちはわあっと歓声をあげた。


「よかった!無事だ!」


「ああ、どうなることかと思った!」


今にも躍り出しそうな男たちをみて、喜兵寿は頭を捻った。なんだってこいつらはこんなに騒いでいるんだ?一体全体なにがどうなって……


「そうだ!嵐は!?」


一気に記憶が戻ってくる。積み荷を捨て、激しい嵐の中を進んでいたはずだ。真っ黒な海に横殴りの雨。


慌てて周囲を見渡すも、目の前にあるのは晴れ渡った空と、鮮やかな色を戻した海。船は損傷こそあるものの、きちんとそこに存在していた。


「……どうなっているんだ?」


状況を理解できずに唸る喜兵寿を、なおが抱きかかえるようにして起こす。


「嵐は抜けたんだよ!すげえよな!まじ奇跡だってみんな言ってた」


「じゃあ助かった、のか?」


「助かったからここにいるんだろ!あ、喜兵寿は3日意識なかったんだよ。喜兵寿は途中の大揺れで頭打っちまってさ、海に落ちたんだよ」


3日?海に落ちた?!身に覚えのない言葉に、喜兵寿は目を白黒させる。


「そうそう、その瞬間なおが海に飛び込んでさ!」


「びっくりしたよな。ありゃあ確実に二人とも死んだと思ったね」


「すごかったよな!」


皆にもてはやされ、どや顔するなおだったが、喜兵寿はどうしてもその事実を信じられなかった。


「なおが海に飛び込んだ……?だってお前泳げないだろ?!」


多少の船の揺れにビビりまくり、泣き言を言っていたなおだ。荒れ狂った海に飛び込み、生きて戻ってくるなんて到底信じられない。


「ああ、俺もうっかり飛び込んじまったときは『しまった!』と思ったよ。でもさ、やってみたら俺泳げたんだよね。自分でもびっくり!」


そういってなおは盛大に笑う。


「ま、これで貸しはチャラってことで」

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