第64話樽廻船の女船長、商人の町へ 其ノ弐拾弐

船が辿り着いた港。その地形から天然の良港として知られており、避難港としての役割も担っているという。かつては日本最高位の神社の内宮支配下にあったといわれるその町は、その歴史故か、とても穏やかで落ち着いていた。


「……きれいな月だな」


目を覚ましてからしばらく経っても、喜兵寿はいまだふわふわと夢の中にいるような気分だった。ごうごうという風の音や、激しく揺さぶられた時のあの腹が浮くような感覚。肌を突き刺すような雨のほうが今の自分には現実のような気がしてしまうのだ。


船は風が味方してくれたこともあり、もみくちゃになりながらもなんとか港へ辿り着いたという。錨を下ろす際、甚五平が腕を負傷したというが、それ以外は皆大した怪我もなく無事だった。


船も修理すればこのまま堺まで向かうことができるという。修理まであと1~2日程度。


「頭を打ったんだ。喜兵寿はゆっくり休むといい」


誰よりも率先して船の修理を行うねねは、そういって笑ってくれた。


「いや、しかし……」ねねの目の下には深い隈。おそらくほとんど眠らずに作業をしているのだろう。できることをやりたい、と食い下がる喜兵寿に、ねねはぴしゃりと言った。


「餅は餅屋だよ。船工事をやったことはない初心者は足手まといさ。それに無理に動いたせいで死んじまったら、あたしが寝ざめが悪いからね!とっとと休みな」


だからこうやってぼんやりと海を眺めているのだ。ぎらぎらと照り付けていた太陽は、真っ赤な夕陽になり、そして今はぽっかりと浮かぶ月になっている。


「生きている、んだよな」


喜兵寿はぼんやりと月を眺めながら呟く。ここがあの世でも別に驚きはしない。そんなぼんやりと曇ったような気持ちだった。


「生きてるって言ってんだろ~しつこいな。なんだよ1人黄昏ちゃってさ。もっと素直に喜べよ」


うるさいやつが来た……振り返るとほろ酔いのなおがいた。右手には徳利、そしてもう片方の手には串に刺した茄子を持っている。


「ほら、これ喜兵寿の分!茄子田楽だってさ。さっき薄いおかゆ食べたきりだろう?3日も眠っていたんだ、ろくなもん食ってないから変な感じになるんだよ」


まるまると大きな茄子だった。じっくり焼いたものなのだろう、身はほろほろと柔らかそうで、その表面にはこんがり焦げた味噌が塗られていた。たまらず齧りつくと、じゅわっと茄子の旨味が広がる。一瞬後には香ばしい味噌の香り。


「うまいな……」


一週間程度とはいえ、船上での生活はどうしても野菜が不足しがちになる。そこまで野菜を欲しているつもりはなかったが、いざ口にしてみると痺れる程にうまかった。


「うまいよな!なんか嵐の中辿り着いた『奇跡の船』って噂になってるらしくてさ。町の奴らが様子を見に来るついでにいろいろ持ってきてくれんだよ」


なおは満足げに笑うと、自分も茄子にかぶりついた。


「今日は茗荷と青菜をもってきてくれたおっちゃんと仲良くなったんだけどさ、『野菜ばっかじゃなくて、他にも精のつくもの食わせてくれよ』ってお願いしたら、明日は鮑持ってきてくれるってよ!」


なおも言葉に、喜兵寿はガバリと身を乗り出した。


「いま、鮑といったか?!」


いきなりの喜兵寿の勢いに、なおは思わず後ずさる。


「お、おう……おっちゃん鮑採ってるらしくてさ。明日たくさん採ってきてくれるって」


「まじか!鮑、見たことがあるが口にするのは初めてだ!あわびか!!!」


喜兵寿は勢いよく立ち上がると、「鮑、鮑」と呟きながら、船の上でうろうろし始める。


「まずは刺身でその味を確かめさせてもらうとして……焼きも煮も試してみたいな……事前にここにある他の食材を確認しておく必要があるな、そうだ、一度船を下りて町にいってみるというものいいかもしれないな」


その様子を見て、なおは盛大に吹き出した。


「すげえ、一気に元気じゃん!さすが酒と料理馬鹿!」

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