第62話樽廻船の女船長、商人の町へ 其ノ弐拾

増々強くなる雨風の中、酒樽や米俵を次々に海の中に投げ捨てる。それらは海にざぶりざぶりと浮かんだ後、すぐに大波にさらわれて見えなくなっていった。


「あっけないもんだな」


最初は顔を歪め、苦しそうだった男たちも、数十の積み荷が海に消えたあたりからその表情はなくなっていた。ただ黙って淡々と作業を行っていく。


一体いくらの損害になるのだろうか、ちらりと浮かんだ考えに喜兵寿は身震いをする。海の上を生活の糧にする以上、それなりの覚悟はしてきているのだろうが、実際に嵐に遭遇し、このような決断ができるねねの胆力に心底関心していた。


この嵐を切り抜けることが出来たとしても、その後も過酷な日々が続くことは容易に想像できる。金はどのようにして工面するつもりなのか、その身は大丈夫なのだろうか……にも関わらず、ねねは皆を鼓舞するように先頭に立ち、積み荷を海へと投げ捨てていた。


長い髪はすっかりほどけ、着物もぐっしょりと濡れている。それでもその目は真っすぐに前を見据えていて、神々しいほどに美しかった。


「海の女神、って感じだよな」


思っていたことが自分の耳から聞こえ、喜兵寿が驚いて振り返ると、なおがにやにやした顔でこちらを見ていた。


「こんな非常事態だってのに、うっとりした顔しちまってさぁ。あ、これって『リアルつり橋効果』ってやつか!」


「べ、別に見惚れてなんか……ってかお前こそこの非常事態に何をしている!?」


喜兵寿はなおを見て目を丸くした。打ち付ける大雨の中、なおは酒樽を抱えてがぶがぶと酒を飲んでいるのだ。


「いや、だってこれ海に捨てるんだろ?さすがにもったいないから、出来るだけ飲んどこうかなと思ってさ。それに酔っぱらっちまえば船酔いもなにもあったもんじゃないし、嵐も怖くなくなる!これぞ一石三鳥!」


喜兵寿はなおから黙って酒樽を取り上げると、そのまま海へと放り投げた。酒樽は日本酒をまき散らしながら海へと落ちると、すぐに波に飲み込まれていく。


「あああああ!俺の酒が!」


「死んでも酔っぱらっていて気づかなそうだなお前と違って、俺はまだ死にたくないんでね」


喜兵寿はなおの首根っこを掴むと、少しでも積み荷を減らすべく男たちの元へと向かった。


日は落ち、あたりは完全に真っ暗だった。時折ごろごろと不穏な音を立てる、分厚い黒雲。滝のような雨は肌に突き刺ささり、すでに目を開けていることすら難しかった。うねり狂う高波、下から突き上げるような突風。


誰がどう見ても最悪の自体だった。しかし誰一人として死ぬことを受け入れてはいなかった。


積み荷の量が減るごとに、船の速度は目に見えて上がっていた。押し寄せる大波にもまれながらも、ぐんぐんと進んでいく。


「風向きが変わったぞ!」


ねねの叫び声が聞こえる。


「追い風だ!追い風に変わった!天が味方してくれた!」


豪雨に負けないよう、声を枯らして叫ぶねねの声に男たちが歓声を上げる。


「海の神のご加護だ!さあ、ここからが勝負だよ!」


ごおおおおっという地鳴りのような音と共に、分厚い風が船を押し出す。油断すれば身体を持っていかれてしまいそうな程の強風。それは追い風と呼ぶには強すぎるものだった。帆柱が不吉な音を立て、舟板が剥がれ飛ぶ。


「船がいっちまうのが先か、港に着くのが先か……」


ねねは身体をぶるりと震わせると、目を見開き笑った。


「なんにせよ、天は進めと言っているわけだ。海の神様はさぞかし酒と米が気に入ってくださったようだねえ!」


荒々しい稲光があたりを照らす。


「さあ、あとちょっとだ!全員で帰るよ」


「うおおおおおおおお!」


切り裂くような雷鳴と共に、樽廻船が揺れる程の怒声があたりに響き渡った。

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