期限付き生き延び保証

柚緒駆

期限付き生き延び保証

 寝不足で意識が朦朧もうろうとしていたのだ。でなければ昼下がり、突然のインターホンにそのままドアを開けてしまうことなどなかった。


「初めまして。いまこのご近所を回らせていただいております、ウロボロス生命保険の幕開まくあきと申します。あ、いやご主人、ドアを閉めないで、まあまあまあ話をお聞きください」


 俺が閉めようとするドアの向こうで、ピッチリ七三分けの幕開は隙間に指を差し込んで無理矢理にこちらをのぞき込もうとしていた。


「おい警察呼ぶぞ、こっちは生命保険に払う金なんぞねえんだよ!」


 そんな俺の怒鳴り声にも怯む様子を見せない幕開は、まるで悪魔のような笑顔をドアの隙間からのぞかせた。


「それはそうでしょう。申し上げては大変失礼ですが、こんなボロアパートにお住まいの方が生命保険料を毎月払えるはずはありません」


 この野郎、言うに事欠いてと思いはしたが、その指摘は紛れもなく正鵠を射ている。俺にはとにかく金がない。金がないからこんなところにしか住めないのだ。幕開とドアを引っ張り合いながら俺は言った。


「わかってんならさっさと帰れよ。こっちは忙しいんだ」


「いやいや、本当に忙しい方は平日の昼間にスウェット姿で部屋にいないと思うのですが」


「う、うるせえ! 夜勤なんだよ! とにかく保険なんぞいらん!」


 夜勤は正確な表現ではない。夜に活動しているのは確かだが、どこかに務めている訳ではないし、まして給料をもらっている訳でもないからだ。しかし幕開はまるで俺の嘘を見抜いているかのように平然とこう言った。


「大丈夫、そんなあなたに本日オススメいたしますのは保険ではございません。当社の開発致しました新商品、期限付き生き延び保証三年コースです。何と、掛け金は年間三百円!」


 聞き慣れない言葉に俺の知識欲が起き上がる。しかも安い。俺でも払えるくらいに安い。ドアのノブを放し、満面にこれでもかと意識した不審を浮かべながらも、俺はドアを開けて入ってくる幕開の言葉に耳を傾ける姿勢を取ってしまった。


「ご興味がおありのようですね。商品の説明をさせていただいてよろしいでしょうか」


 幕開の言葉には自信がみなぎっている。この野郎、話だけ聞いたら叩き出してやるからな。


「言っとくが茶も座布団もないぞ」


「ええ玄関先で結構でございます。では単刀直入に。この期限付き生き延び保証はその名の通り、一定の保証期間に限りまして、どのような病気、事故、災害等に直面しても必ず生き延びることを保証するものであります」


 まさかこんないきなりツッコミどころがやってくるとは思わなかった。もうちょっと隠せよ。


「はぁ? 生き延びることを保証ってどうやって。専属ボディガードでもつけてくれるのか」


「いえいえ、そこはそれ、企業秘密もございますから全容を説明する訳にも参りませんが、当社の長年つちかいましたノウハウで、あらゆる病死、事故死、災害死等からお客様をお守り致します。もちろん一定期間に限ります。期間の延長はできません。人生で一度きりの掛け捨てだとお考えください」


 かんさわった。期間の延長が何故できない。こんなもの期間をどんどん延長させて、その際に掛け金を引き上げて行けばいいのではないか。


 保険料が一生上がりません、といううたい文句の生命保険はいくつもあるが、金額の持つ価値は時と共に変化するのだ。「金儲けより大事なことがあると当社は知っています」と言わんばかりの虚像を演出するためだけに保険料を固定しているのではあるまい。


 ましてこんな馬鹿しか引っかからない生き延び保証など、どう考えても期間を延長させた方がメリットがあるはず。何故人生で一度きりなのだ。だがそれを目の前の幕開にたずねようものなら、待ってましたとばかりに言葉の怒濤が押し寄せるだろう。そんなことは俺の偏屈で小さなプライドが許さなかった。ならば。


「わかった。入ろう、その生き延び保証に。三年コースだ」


 俺がそう答えたときの幕開の顔といったら。あの間抜け面を拝めただけで三百円を払う価値はあった。




 俺は小説を書いている。プロの小説家を目指していると言う方が正確だろう。小説を書いては公募に出し、落選を続けてきた。だがこの一年くらい、一次選考を通過するのは珍しくなくなってきたのだ。


 俺は夜型だ。夜の闇の中でしか、あの死体のような静寂の中でしか物語が紡げない。ところが昼夜の完全に逆転した生活を続けると体調を崩してしまう。そんなとき、おぼろげな恐怖が頭をよぎる。もしこのまま死んでしまったらと。


 身寄りも近所付き合いもない俺には孤独死以外選ぶ道はない。そして死後数ヶ月経ってドロドロに腐った遺体が警察に発見されるのだろう。いや、それはもう俺が死んだ後の話だ、どうでもいいっちゃどうでもいい。ただ腹立たしいのは俺が小説家になれないこと。いままでのあらゆる選択と積み重ねがすべて無駄になる、それを思うと絶望に気が狂いそうだ。


 けれど、死ななかったら? たとえばこれから三年間、完全に昼夜逆転生活を送っても、何日徹夜を続けても絶対に生き延びられたら? 届くんじゃないか。俺の手はあの高みにまで伸び、つかみ取ることができるんじゃないのか。


 いやいや、もちろん真に受けている訳じゃない。保険会社が保証したくらいで人が死んだり死ななかったりするはずがないのはわかりきった話だ。ただの詐欺商品なのは理解した上で三百円を恵んでやったのだ。そう、たったそれだけのこと。


 それだけのことだったのだが、その日から俺は少し変わった。徹夜や昼夜逆転に対するおぼろげな恐怖感が消えたのだ。俺は書いた。日が沈む前から書き始め、闇の中を疾走するかの如く書いて書いて書きまくった。


 体調はときどき崩した。でも死ぬことはなかった。季節が変わり年が変わっても俺は作品を創り続け、公募に出し続けた。体はガタガタになっていったが、死にはしなかった。


 近くで火災が起きたこともあった。大地震が発生したこともあった。しかしどちらもうちのアパートは無事で、俺は死の恐怖を感じることすらなかった。偶然だ。偶然に違いない。偶然だろう、たぶん。でももしかして、本当に三年間は死なないのなら。


 そんな中、俺の書いた小説がとある小説賞で二次選考を通過した。やれる! 俺は確信した。届くんだ、俺の手はあそこまで届くんだ。保証期間はあと一年半を残している。何としてもその間に実力を上げ、この手に栄光をつかみ取る! そのためにはもっともっと書かなければ!


 俺は書いた。夜はもちろん昼も書いた。睡眠時間など削れるだけ削った。食事は調理時間がもったいないので米は無洗米に、料理はすべて冷食になった。茶碗は使わず紙皿で飯を食い、別の紙皿に冷食を盛った。そして紙皿は捨てたので洗い物の時間が削れた。ただしゴミを捨てに行く時間がもったいなかったから、五袋以上溜まるまでゴミ袋をそこらに転がしていた。コバエが湧きゴキブリが走り回ったものの、そんなの知ったことではない。俺は書くのだ。書かなくてはいけないのだ。それ以外はどうでもいい。


 しかし時間は非情に過ぎた。保証期間の残り半年を切っても、俺の作品が公募の最終選考に残ることはなかった。何故だ。どうして伸びない。いや、俺の実力は伸びているはずだ。こんなに書いたのに成長していないはずがないではないか。


 何がいけない。何を間違えたというのだ。しかしここからもう方針転換などできない。俺に許されたのはこの道をひた走ることだけ。最後までこれで行ってやる。すべての、あらゆる時間を執筆に、創作に、創造のために!




「まことにお客様には当ウロボロス生命保険をご愛顧いただきありがとうございます。今後ともよろしくご贔屓ひいき願いたいところなのですが、とりあえず本日は、期限付き生き延び保証三年コースが満期を迎えましたことをご連絡差し上げに参りました」


 満面の笑顔を浮かべる七三分けの幕開の言葉が終わらないうちに、俺は彼の両肩をつかんだ。


「延長だ。保証期間を延長してくれ、頼む」


 幕開は笑みを崩すことなく静かに首を振った。


「それにつきましては最初に申しました通り、できかねます」


「あと三年、いや二年でいい。二年あれば俺は、時間さえあれば絶対に成功できるんだ」


「お時間ならありますでしょう。お身体をいたわれば、まだ寿命までには」


「それじゃダメなんだ! 死なない保証が欲しい。でないと死ぬのが怖くて全力が出せない。全力でなきゃ届かないんだ!」


「それは大変に失礼ながら、お客様の能力が限界に達しているのではございませんか」


「違う!」


 幕開の言葉に首を振りながら俺は涙を流していた。


「時間をくれ、他には何も要らない。時間だけでいいんだ」


 むせび泣く俺にしばらく困惑していた幕開だったが、やがて諦めたような顔で俺にこう耳打ちした。


「本当はオススメできないのですが、生き延び保証には特別コースがございまして」


 俺は思わず顔を上げた。希望が見えた気がした。


「特別コース?」


「はい、付帯義務付き生き延び保証二年コースというものがございます。これは通常コースの延長ではなく別契約となるのですが、掛け金は格安、年間五十円となっております」


 もうここで掛け金などどうでもいい。俺は焦りながら幕開に先を促した。


「付帯義務って何だ。何をすればいい。何をすれば時間が保証されるんだ」


「なあに、簡単なことでございます」


 幕開はまたあの悪魔のような笑顔を満面に浮かべている。


「人間の命を三つほど奪っていただければ。あ、方法は何でも構いません。強盗を装って一家皆殺しでも、アクセルとブレーキを踏み間違えて小学生の登校列に突っ込んでも。それさえ実行していただければ、まあ刑務所生活にはなりますが、二年間の時間は確実に保証されます」


 俺は息を呑んだ。だが冗談だとは思わなかった。ようやく気が付いた。悪魔のような笑顔ではない、これは本物の悪魔の笑顔なのだと。俺は悪魔と契約していた。そしていま、さらなる契約を求められている。


 俺は一番気になったことを問うた。


「……刑務所で小説は書けるのか」


「留置場ではノートに鉛筆で書いていただくしかございませんが、刑務所では当社独自のサービスで独居房を選べますので、その点のフォローはお任せください」


 独居房か。いま暮らしているこの部屋と刑務所にどれだけの違いがあるだろう。他人の命を奪うのは気が引けるが、睡眠不足で朦朧とした頭ではよくわからない。それでも二年の命が保証されるのならば。二年あれば。二年間全力で書き続けられるなら、今度こそきっと届く。届かせてみせる。


「契約しよう」


 幕開に右手を差し出しながら、俺は思った。こんな悪魔との契約に引っかかる馬鹿は、世の中に自分だけではないのだろう。あの事件も、きっと。

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