わたしの故障

西野ゆう

第1話

「壊れてるんじゃない?」

 ビクッとした。

「灯油は入ってるんですけどね……」

 保育園に息子を連れて来た私より、保育士たちは役目を果たさないファンヒーターが気になっているようだ。

「ああ、ヒカルくんのお母さん、おはようございます」

 別の保育士が私に気付き、息子の手を取る。

「おはよう、ヒカルくん」

「先生、おはようございます!」

 息子は私の方を振り返ることなく、友達の輪の中に入っていった。

 ――私は壊れているのだろうか。

 そんな疑念を持ち始めたのは、夫と目を合わせられなくなっていると気付いてからだ。

 後ろめたいことがあるわけではない。それは夫にしても同じだろう。ただ、自分の中に湧き始めた正体不明の苛立ちを見透かされたくなかった。

「ヒカルくんのお母さん、今日は早いですね」

 今度は背後から声を掛けられた。

「あ、ショウくんのお母さん、おはようございます」

「良いパート、見つかりました?」

 またビクッとした。

 陰で「働いてもいないのに子供を保育園に預けている」と言われているのは知っている。

「なかなか自分に合った仕事が見つからなくて……。それじゃあ、私は混みだす前に行きたいので」

「ハローワーク、いつも駐車場が一杯ですものね」

 私は軽くお辞儀して、逃げるようにその場を去った。

 本当は、一昨日行ったばかりだし、今日はハローワークに行くつもりはなかった。だけれども、そう言ってしまった手前、新規求人の検索だけでもしてみようと、車をハローワークに向けて走らせた。

 まだ開庁十五分前だというのに、駐車場は半分以上が埋まり、寒空の下で入り口前に並んでいる人もいる。

 私に急ぐ理由はない。開庁後に車を降り、検索機利用の申し込みをした。

「こちらの番号でお呼びします」

 渡された小さな紙に印字された番号は、私の歳と同じだった。三十分待たされて呼ばれた「三十二番でお待ちの方」という声に立ち上がって端末の前に座る。

 たった二日では何も変わっていない。ただ、私だけが二日前より少し壊れているような気がして、五分と経たずに席を立った。

「あれ? 沙耶香ちゃんの妹さんじゃない?」

 大きく端末の番号の書かれたシートを受付に返し、振り向いた瞬間に正面に立つ初老の婦人に声を掛けられた。姉、沙耶香の姑だ。夫が建築会社を経営している彼女は、私とは真逆の目的でハローワークに来たのだろう。それを誇示するように、向こうから話を切り出した。

「ごめんなさいね、うちで雇ってあげられたら良いんだけど、今欲しいのは職人さんたちだから。沙耶香ちゃんの妹さんなら、お父さんも安心できるんでしょうけどねぇ。今の事務員さんは……」

「いえ、お気遣いありがとうございます」

 話の途中で、やはり私は逃げるように去った。

 私は何なのだろう。私は誰なのだろう。私はいつから私じゃなくなったのだろう。

 家に帰ってからも昼食も摂らずに漫然と過ごし、カレーライスをあとはルーを入れるだけの状態まで準備をして、息子の迎えの時間になって保育園に向かい、まだ遊びたいとぐずる息子を連れて帰った。

 昼寝の時間に眠れていなかったのか、息子は車が走り出すとすぐに眠り、家に着いて呼び掛けても起きなかった。私もすぐに車から降りる気になれず、ハンドルに額をくっつけて目を閉じた。

 運転席の窓がノックされる。

 いつの間にか夫の車が隣に止まっていた。時計を見ると、一時間近くも車の中で眠っていたらしい。慌てて後部座席のチャイルドシートを見たが、息子も同じく眠ったままだった。

「ごめん。なんか疲れちゃったみたい」

 俯きながら車を降りると、夫の手に、四角い箱がぶら下がっていた。

「良いよ、今日はゆっくりしな。飯も俺が作るし。誕生日なんだから」

 そうか。私は今日で三十三歳になったのだった。スカートのポケットの中に入ったままの、ハローワークで渡された小さな番号札を、私はポケットの中でくしゃりと握りつぶした。

「大丈夫。もう、あとはルーを入れるだけだから」

 自分が準備したとはいえ、誕生日にカレーライスとは味気ない。夫に起こされた息子は、夫が手にしているものが「ケーキ」だと説明されると、それまで眠たそうだった目をパッチリと開けてはしゃいだが、それが私のバースディケーキだと分かっているのだろうか。

 食事の後、今日一日の鬱々とした心がそうさせたのか、やはり自分は知らず知らずのうち、呼称にこだわり壊れかけていたのか、ケーキを見た瞬間に涙が止まらなくなった。

 カラフルな果物やメレンゲドールたちで賑わう、森の中の教室のようなケーキ。その真ん中に掲げられたチョコレートの黒板に「優里ちゃんお誕生日おめでとう」と書かれてあった。

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わたしの故障 西野ゆう @ukizm

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