隣の芝生は赤々しい

喋喋

隣の芝生は赤々しい

 彼女は生きづらそうだ。

 マスクに包帯、自傷痕。ブレザーの下のパーカーのフードを、目深にかぶった女の子。最近付けている左目の眼帯は、噂によると自分で目を抉ったらしい。

 ——あんなに綺麗で可愛かったのに。

 昔の彼女を知る友達は、みんなそう言った。

 彼女は学校の授業もまともに受けない。

 ノートなんてとらないし、机に伏せたりスマホをいじったりばかりしている。テストも白紙で出しているらしく、順位は最下位。

 ——あんなに賢く真面目だったのに。

 昔の彼女を見てきた大人は、みんなそう言った。

 いつから変わってしまったのか、彼女とは親友だったけれども私は知らない。

 彼女はもともと通うだけで褒められるような、立派なところに通っていた。彼女なら当然のことだし、そのまま国公立の大学に通うことは目に見えていた。彼女に欠陥なんてない。私は常にそう感じていた。

 しかし、彼女は突然たくさんのものを失くした姿で私の前に現れた。

 親伝いに聞いた話だと、彼女は元いた学校での勉強についていけなくなり、気を病んでしまった。そして、私のいる学校へ編入することになったらしい。

 初めて彼女の姿を見た時、彼女を知る人も知らない人も、そして私も、誰も冷静ではいられなかった。綺麗な容姿を失くし、思考力を失くした可哀想な子。痛々しい傷を抱えた病気の子。誰もが優しく見下した。

 そして、その見下す行為が加虐に変わるのは早かった。

 物を盗り、嫌味を言い、失礼では済まされないことをやる。彼女の見える肌に、他人からの傷が増えていくのを私は見ていた。見ているだけだった。

「罪悪感とかないの」

 私は一度だけ、心から努力してそう訊いたことがある。それに返ってきたのは、吐き出すような笑い声と好かれようのない笑顔。

「ないよ。だって笑ってるし、あの子」

 この言葉だけだった。

 私も彼女がどんな嫌がらせにも笑っていたのは知っていた。嫌がる様子を見せたことがないことも。

 その事実が強く胸を痛めつけた。彼女は被虐を喜んでいる。それだけは絶対に信じたくなかった。

 “あの出来事”が思い出される度に、私は苦しくなった。

 それでも私は見ていた。見ているだけだった。過度なことをし始めても、見ているだけだった。

 それでも彼女は笑っていた。嬉しそうに笑っていた。時折、私と目が合うと微笑んだ。それがとても怖かった。

 

 上履きに染みた水気を感じた。

 そこで意識が目の前の現実に戻ってきた。

 水浸しの教室。バケツに水が垂れる音。

 足元をぐしょぐしょにして、雑巾を絞る彼女がいる。フードはかぶっていなかった。

 どうしよう。声をかけなきゃ。今ここにいるのは彼女と私だけ。もうすぐ帰宅を促す放送が鳴る。この水の量を一人で片付けられるわけない。彼女は変わってしまった。でも、私の親友だった。

「大丈夫?」

 言った。遅すぎる一言を、今言った。

 彼女は私の方を向いて、「ふふ」と声を漏らした。

「大丈夫」

 それからまた重たくなった雑巾を床に浸けた。

 もうすっかりふくれた雑巾は、床の水を押しているだけで吸うことはない。びちゃびちゃと無意味な音だけが私の耳に届く。

 救いようがないんだ。もしかしたら、救われる気もないのかもしれない。

 罪悪感が胃を圧迫していた。

 見ているだけ。何も変えられない。もう元には戻らない。

 私が悪い。だって——

「ねぇ、見て」

 澄んだ声色。

 それに下を向いていた視線を、彼女へと手繰り寄せられた。

 彼女は、腕を広げて立ち上がっていた。

 長いスカートから、滴がぼたぼたと垂れ落ちている。

「わたし、可哀想でしょ」

 瞬間、呼吸が止まった。信じたくなかったことが、彼女のこの一言で全て真実になったから。何も言えない口元が震える。

 “あの出来事”が、また頭を過ぎった。

 彼女は唯一見える右目を細めて言った。

「愛される見た目も、褒められる中身も、全部持ってないよ。周りの人からの期待だって、全部失くした」

 声は弾んでいた。

 私が悪い。怒って当然のことなのに。どうしてそんなに嬉しそうなの。皮肉じみたニュアンスも一切感じない口調。

 かけるべき言葉も、取るべき態度も分からない。

「ねぇ」

 次に彼女が言う言葉は私を苦しくさせる。それが嫌でも察せられた。

 彼女は水を跳ねさせ、私に近寄る。

 マスクを外した口元は笑っていた。

「もうわたしのこと、羨ましくない?」

 夕日が教室中の水に反射して、彼女がこの上なく眩しく見えた。

 

 ——彼女は美しく、聡明で、謙虚で、優しく、みんなから好かれて、そして尊敬されていた。私もそのひとり。彼女の親友でいられたことが嬉しかった。

 でも、ずっと綺麗な気持ちで彼女の隣にいることは難しかった。

 私は羨んだ。憎悪に近い感情で。

 私は彼女を傷つけた。汚い言葉で。

 そして、長く別れる直前に彼女は言った。

「わたし、わたしね、羨ましいの反対は、“可哀想”だと思うの」

 その時から、私はいつもどこか苦しかった。

 

 ——私が彼女に失わせた。

「ごめんなさい……」

 許して欲しくないのに、そう口からこぼれた。

 すると、彼女は私を柔らかく抱きしめた。

 放られた雑巾が水面を荒立てる。

「いいんだよ」

 安心してはいけない。こんなにも酷い私は、心が軽くなってはいけない。涙が溢れて水に溶け落ちた。

 私の背に彼女の手が、優しいリズムで当てられる。

「ごめんね、苦しかったよね。わたし、ずっとあなたに謝りたかったの」

「そんな……」

 彼女の暖かい声、温かい体温。抱き返せない私の手が、とても汚く見える。

「わたしのせいで、あなたはたくさん辛い思いをしたよね。だから、許してもらえなくてもいい、時間がどれだけかかってもいい」

 彼女は私をより強く抱きしめた。心地よい彼女の鼓動が胸に伝わる。

「だからまた、わたしとお友達になってほしい」

 宙で迷っていた私の手は、力なく垂れ下がった。

 彼女の言う一言一句すべてが、私が言うべき言葉だったからだ。それを、彼女に言わせてしまった。

 私は酷い人だ。

 彼女に謝罪させ、自分を責めさせ、果てに頭を下げさせた。

「……大丈夫?」

 彼女は体を離して私の顔を見つめた。

 ああ、彼女はすぐに言える人。私とは違う。

 私は昔の彼女とも、今の彼女とも釣り合わない。

 そうはっきりと理解すると、彼女にしがみついていた心がぼろぼろと崩れていった。

 私は私のこれからする言動を、何もかも許せそうにない。

「ごめんなさい」

 深く頭を下げた。まだ、私は苦しい。

「ううん。あなたは謝らなくていいんだよ。顔を上げて?」

 違うの。そうじゃないの。

 うまく動かない口からは、声の代わりに空気が出る。心に言葉が絡めとられて出てこない。

 ——これ以上彼女を苦しませないためだ。

 一度、大きく息を吸って顔を上げた。

 彼女と一度ひとたび目が合う。途端に感情に押されて声が出た。

 違うの。

「もう、私は友達になんか——」

 彼女の表情が無に変わっていく瞬間を見た。

 その直後、

 チャイムが鳴った。

 彼女も私も、スピーカーへと視線が奪われる。

『——下校時刻となりました。皆さん、後片付けをして、下校の準備をしてください。下校時刻となりました……』

 聞き慣れた放送部員の声が、淡々と流れている。

 抱えていた罪悪感と共に吐き出されるはずだった言葉を言えなかった。それなのに、私は心の底から安堵していた。心臓が強く波打ち、手は握り締めても震えが止まらない。

「帰ろう」

 その手を温かさが覆った。彼女の手も震えていた。

「だめかな」

 視線をあげれば彼女と今、初めて目が合った。こんなにも酷い私には、もうこれ以上彼女を拒否することなんてできない。

「だめじゃ、ない」

 握り締めていた手が楽になっていく。彼女の手に、もう片方の手を添えた。

「一緒に帰ろう」

 私がそう言うと、彼女は泣きそうな顔で頷いた。こんなにも綺麗な彼女を突き放そうとした先の一瞬を、私は一刻も早く忘れ去りたくなった。

 彼女は水面を弾けさせながら荷物を手に取る。そして、入り口で私の先に立ち、手を差し出した。

「行こう」

 彼女は元の彼女に戻ったようだった。

 私は迷うことなくその手を握る。

 教室を飛び出し、階段を駆け足で降りても苦しくはなかった。

 外に出れば走り去る私たちを、同級生や大人たちが目で追った。明日、教室を見て何か言ってくるかもしれない。怒られるかもしれない。でも、今の私に不安になる気持ちなど無かった。

 また後で、ちゃんと彼女に謝ろう。

 彼女の横顔を見る。可愛らしい笑顔だった。

 彼女は本当に幸せそうだ。


__隣の芝生は赤々しい 終

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

隣の芝生は赤々しい 喋喋 @mentsuyutea

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ