夢を見たのはどちらかしら?
増田朋美
夢を見たのはどちらかしら?
その日も晴れているけれど寒い日であった。なかなか外出するのもためらわれる日でもあった。それでもハプニングというものは必ず起きるのである。それはいつどこで起こるかわからないけれど、起きるときは起きるのである。
その日、杉ちゃんは、一生懸命水穂さんにご飯を食べさせようとしていた。水穂さんが、ご飯を口にしても咳き込んで吐いてしまうので、これでは食べさせても意味がないと思ってしまうほどであったが。
「こんにちは、桂です。レッスンしてあげてほしい方がいますので連れてきました。この時間なら起きていらっしゃると思いましたから。ぜひやっていただけますね。」
そう言いながら、桂浩二くんが製鉄所の中へやってきた。製鉄所というのは単に施設名であり、鉄を作るところではなく、ワケアリの女性たちに、勉強や仕事をするための部屋を貸し出す福祉施設である。ときに、水穂さんのように間借りをしている人もいるが、そうなるのは極めて稀で、だいたいの人は部屋を借りて日帰りで帰っていく。昼の12時に浩二くんがやってきたというのは、12時にお昼ごはんを食べるということを知っているということでもある。
「右城先生。連れてまいりました。昨日メールで詳細はお伝えしましたから、彼に今日、レッスンしてやってくださいますね。よろしくお願いします。」
浩二くんは、一人の小さな男の子を連れて、四畳半に入ってきた。
「日比野慶一くんです。年齢は、小学校の一年生。曲は、ショパンのワルツ16番、ホ短調。」
浩二くんがその少年を紹介すると、
「随分難曲を弾きたがるものだなあ。だって小学校の一年生でしょ。たったの6つだ。いわば赤ん坊に毛の生えた程度じゃないか。」
と、杉ちゃんが言った。
「そうですよ。小さな子どもさんに無理な曲をやらせると、手を怪我をする原因にもなりますよ。」
水穂さんが心配そうにそう言うと、
「はい。それはわかっています。でも彼の演奏を見てやってください。それで一度見てもらった上で、それでもう一度判定してください。」
と、浩二くんは言った。
「そうですか。それならとりあえず弾いてみてくれ。まあ子供だから、うまくは無いってことは、誰が見てもわかる。」
杉ちゃんに言われて慶一くんは、ちょっと怖いなという感じの顔をした。
「大丈夫です。ここにいる人たちは、みんないい人ばかりですから、気にしないで弾いてください。」
水穂さんが優しくそういうと、
「わ、わかりました。」
と、慶一くんは、よいしょとピアノの前に座って、ピアノを弾き始めた。確かに曲としては成り立っていて、強弱もきちんとついている。だけど、どこか画一的というか、個性的なところがないというのは子供だから仕方ないのかもしれない。まだ小さな子どもさんなので、先生の真似をするしかできないというのも、ある意味では仕方ないのかもしれなかった。
「一生懸命弾いているじゃないか。」
杉ちゃんがそう言うと、
「そうですか!それをわかってくださいますか!さすが杉ちゃんと右城先生です。僕がお願いしたいのは、そのカチコチに固まった演奏を、柔らかい演奏にしてほしいんです。そういうことは、右城先生のような人でなければできませんよね。先生、お願いできますね。」
と、浩二くんは言った。
「つまりべったらな演奏を個性的にしろってことか。」
杉ちゃんは浩二くんの話をまとめた。それと同時にワルツの演奏は終わった。
「はい、ちょっとワルツの楽譜を見せてもらえませんかね。通常、ショパンの学習をするのであれば、ミクリ版とか、バテレフスキー版とか使うんですけどね。外版は外版でも、ヘンレ版は問題外であれは使い物になりません。」
水穂さんが優しくそう言うと、慶一くんはピンク色の楽譜を差し出した。
「ああ、ベーレンライターですか。確かに初心者の方には手とり足取り解説してくれてありますから、使える楽譜かもしれませんが、みんな同じ曲になってしまう危険性もあります。本当に音楽の事を知らない人なら良いけれど、ある程度分かる人には不向きな楽譜なのではないでしょうか?」
水穂さんは、慶一くんに言った。
「そうだけど。」
慶一くんは小さな声で言った。
「そうだけどどうしたの?ちゃんと言えよ。なんか先生とトラブルみたいなものがあったのかい?」
杉ちゃんが聞いた。慶一くんは更に小さくなってしまう。
「わかりました、先生がベーレンライター以外の楽譜を持ってきては行けないというのでそれ以外買えないということですね。それではまずいですよ。ピアノ教室は絶対マニュアル通りには行かないんですよ。」
水穂さんがそう言うと、
「おじさんは、涼子先生のことが嫌いなの?」
と慶一くんは言った。
「いいえ、そんなことはありませんよ。好きとか嫌いとか、そういう問題よりも、涼子先生という方のやり方に問題があると思うので、それを改善する必要があるのではないかと思ったのですよ。」
水穂さんは優しく言った。
「改善するってなあに?」
慶一くんは子供らしく言った。
「まず初めに、ベーレンライターという楽譜の使用をやめること。そして演奏をどうすれば個性的になるか、ご自身で考えてみてください。」
と、水穂さんが言った。
「なんでも楽譜通りの演奏をするだけじゃだめです。ご自身でどう持っていくかを考えなくちゃ。もちろん、間違えても良いんですよ。子供さんですから間違えて当たり前だと思ってください。それを感情的になって怒ったりする大人が悪いのです。」
「それで良いんだよ。子供だもん、ミスタッチをして当たり前。音を間違えたって当たり前。そう思って良いんだよ。だってお前さんは、6年しか経ってないでしょ。この地球上に現れてから。」
杉ちゃんが続けてそう言うと、慶一くんはとても小さな声で、
「はい。涼子先生は、音を間違えるとすごく怒るし、楽譜通りに強弱をつけないとすごく怒るの。」
と言った。
「そうなんだね。単に間違い探しが教育ってもんじゃないよねえ。全く、あんぽんたんな先生が要るもんだよなあ。涼子先生っていったね。その正式名称を教えてもらえないかなあ。大丈夫。このおじさんは、涼子先生と同じ学校を出てるかもしれないんだ。」
杉ちゃんがにこやかに言うと、
「川村涼子。」
慶一くんは小さな声で言った。
「わかりました。あの有名なピアニストだね。まあうまいのか下手なのかは知らないが、でも少なくとも、そういうことしかできないんだったら、教えるのは向いてない女だ。それではだめだい。」
「まあ、ピアニストがお教室を持つのは最近は珍しくはないですけど、その弊害もあることを忘れないでもらいたいものですね。」
杉ちゃんと浩二くんが相次いでそういった。確かに川村涼子という人は、CDもいくつか出しているし、演奏家としてはとても上手な人なのかもしれなかったが、とても感情的になりやすい人であった。そのせいで、何人かの関係者が、精神的におかしくなっている。
「そういうわけですから、川村涼子先生という人は、変な人なのかもしれないから、変なタッチとか身につけてしまう前に、さようならをしてだな。ちゃんと、教えてくれる人に見てもらうようにしな。」
杉ちゃんは、にこやかに笑った。
「じゃあ、まず初めに、もう少し難易度を下げましょう。小さな子どもさんなので、この曲は向いていません。17番とか、18番などが向いていると思います。ちょっと見せてくださいね。」
水穂さんは、楽譜をめくって、ワルツ17番イ短調を慶一くんに見せて、
「初見は得意ですか?間違えても全く構わないので、一度弾いてみてくれませんか?」
と彼に言った。彼は小さな手をピアノに構えて、弾こうとしたが、水穂さんや杉ちゃんが見ているので、怖いと思ってしまったのだろうか。涙をこぼして泣き出してしまった。
「ああ、泣かないでください。わからないのであれば、一緒にやってみましょう。じゃあ僕が弾いてみますから、それを繰り返してください。行きますよ。」
水穂さんはそう言ってワルツの最初の四小節を弾いた。慶一くんはその通りにする。それに水穂さんは、左手で伴奏してやると、慶一くんは、そのまま続きをやり始めた。
「上手ですね。元々、能力の高い子どもさんなんですね。」
と、浩二くんが言うほど、慶一くんは正確だった。ちゃんと中間部の複雑な装飾音もやれるし、転調があっても平気で弾いていた。一度右手の部分を弾き終わると、水穂さんが、左手を弾いてみましょうと言って座る位置を変えて、今度は右手を弾き始めた。慶一くんは、一生懸命左手を弾いている。
「はい。左手はあくまでも曲の伴奏ですから、小さな音で弾いてください。右手はその分、抑揚をつけて歌ってくださいね。」
と水穂さんが言うと、慶一くんはその通りにした。左手部分を弾き終えて、
「じゃあそれでは、今度は慶一さんが一人で両手であわせてみてください。もちろん間違えても構わないですし、途中でとまっても構いません。僕たちはそれを責めるようなこともしませんから。」
水穂さんは指示を出した。慶一くんは先程よりも遅いテンポで、弾き始めた。間違いだらけの演奏だけど、水穂さんはそれを矯正せず最後まで弾かせてくれた。
「よくできました。それでは、左手に間違いがあったので、少し直していきましょう。大丈夫です。怒鳴ったりすることはありませんよ。」
と水穂さんは優しく言った。慶一くんがもう一度弾き始めると、水穂さんは、その間違いを静かに直していった。変に怒鳴ったり、甲乙つけることもない。なんでできないのとかそういう事を言うこともない。静かなレッスンであった。間違いを直すと、慶一くんはもう一度ワルツの17番イ短調を弾いた。今度は間違いの少ない綺麗な演奏になっていた。杉ちゃんも浩二くんも彼の演奏を聞いて、拍手をした。
「うん、お上手ですよ。こちらの方がやっていて楽しいでしょう?もう変に難易度の高い曲をやらせるのではなくて、ちゃんと適材適所な曲をやれば良いんですよねえ。」
と、浩二くんが言うと、
「そうですね。変な先生が多いということですかねえ。まあくれぐれもそういう先生の言うことに騙されないようにしてくれ。」
杉ちゃんは呆れた顔で言った。
それと同時に。
「あの!すみません!そちらに日比野慶一という小学校一年生の男の子が来ていませんか!あの、母親なんですけど!」
と、中年の女性の声がした。杉ちゃんが製鉄所の玄関先に行くと、一人の女性が玄関先に立っていた。
「はあ、お前さんが、日比野慶一くんのお母ちゃんか。」
と杉ちゃんが言うと、
「ええ。日比野慶一の母の、日比野眞子と申します。」
女性は名前を名乗った。
「そうなんだ。まあ変わった名前だけど、それでは許してやるか。慶一くんならね、いま水穂さんと一緒に、楽しくピアノをやっているよ。まだ邪魔しないでやってくれるかな?」
杉ちゃんがそう言うと、
「慶一が楽しくピアノをやっている?だって先生に、あれだけ弾けてないと言われたばかりではありませんか?昨日先生のレッスンで、全然できないと言われたばかりなんですよ。それなのにどうしてそういう事ができるのでしょうか?」
お母さんの眞子さんは驚いた顔をしている。
「そうか。それなら、そういうことがあったんなら、ちょっと事件の全容を話してもらえないかな。なんかワルツの16番を無理やりやらされて、辛そうだったけど?」
杉ちゃんがそう言うと、
「だって先生から出された課題曲ですし、慶一はピアノが弾ける子だから、そのくらいできるって言われたんですよ。それなのにあの子ったらいつまでも上達しないで、なんで先生があんなに期待をしてくださるのにって私が叱ったら、家を飛び出していったんです。」
と、お母さんは言った。
「つまりこういう事。慶一くんは、その川村涼子先生に、ワルツの16番を無理やりやらされて、いくら練習をしてもできないので、それで、お前さんも怒鳴ったので、それで家を飛び出していったわけか。ははあ。なるほどな。それを浩二くんに拾ってもらって、それで水穂さんのところに連れてきたんだね。まあ、川村涼子先生も問題があるけどさあ。お前さんもなんか怪しいなあ。」
杉ちゃんはでかい声で言った。
「怪しいって、川村先生がレッスンしてくださるというのも嬉しいのに、更にあの子がワルツを弾けるということで、嬉しくなるのは、親として当たり前じゃありませんか。」
お母さんがそう言うと、
「なら大失敗。彼は、一生懸命ワルツの17番をやっているよ。そのくらい難易度を下げてやったほうが、慶一くんも楽しそうだぞ。それに、川村涼子先生はすぐに怒鳴るし、怒るし、先生としては、向いてない人物だ。それならせっかく才能があっても、潰されちまう。だったら、親として嬉しいのではなくて、それよりももっと適した先生を探してやれ。」
と、杉ちゃんは腕組みをしていった。
「でも、河村涼子先生といえば、有名な方ですし、その方にレッスンしてもらって、ワルツを弾けるのですから、それは慶一には可能性があるってことではありませんか?」
「ちっとも楽しそうじゃないぜ。お前さん、そういうところは見なかったのかよ。」
杉ちゃんはお母さんの話に言った。
「全く、大人ってのは、肝心なところを見ないんだよな。見てくれとか、体裁とか、そういうどうでも良いことばっかり気にするんだよね。なんでそういうところを見てないんだろうな。その先生は、彼の話によると、無理な曲を無理やり押し付けて、指定した版の楽譜を買わないと激怒して、できないと、怒鳴って怒る。それが事実だよ。だから、それのせいで彼が萎縮しちまってる。それでは行けないよなあ。子供ってのは、天真爛漫で、誰に対しても明るくて楽しいもんじゃないか。そういうところを、大人が摘み取っちゃまずいよ。そうさせないように、教室を選ぶとか、そういう事をちゃんとしてやらないと。」
「そうですが、あの子は、一度川村涼子先生のところに行って、ピアノの才能があるって言われたんです。それを私が、ぜひレッスンしてくださいって頼み込んで、それでレッスンを続けさせてもらっているんですよ。それなのに、他の先生に変えろなんてそんな事。」
お母さんは、そういうのであるが、杉ちゃんは呆れてしまった。
「なんでそういう事言うんだろうな?そういうことって、そんなに重要なことかな?それはただその時に、河村涼子という人が、話していた事を真に受けただけじゃないの?もしかしたら、その川村涼子さんは、冗談でそういったのかもしれないよ。あ、そうかも知れないねえ。そうでなければ、慶一くんのことを怒鳴ったりすることも無いと思うよ。お前さんさ、ええ加減に彼の事ちゃんと見てやったらどうなの?慶一くんだっておまえさんがそうなってることはちゃんと見抜いてると思うよ。だから、家を飛び出したんじゃないのか?お前さんが、今しなければならないことは、その河村涼子先生のことを怖かったねっていってやることじゃないのかよ。違うのか?」
「でも、あの有名な川村涼子先生に、そう言われたのですから。」
お母さんはそう言っている。
「もうな。あの先生はきっと慶一くんのことは、ゴマ粒くらいしか思ってないよ。もう慶一くんのことを教育しようという意志は無いと思う。だって、慶一くんに辛く当たるんだもん。レッスンというものは、そういうもんじゃないだろ。怒鳴ったり、泣かせたりするもんじゃないよね。川村涼子先生は、ただ難しい曲をやらせて、自分がこれだけできるって見せびらかしたいだけ。生徒さんを通して夢を見ちゃだめだ。本来は先生として、演奏家に育てなければだめなんだ。自分の言う通りに演奏しないってことは、なんぼでもある。」
杉ちゃんがそう言うと、お母さんは、ちょっと中に入らせてもらいますと言って、製鉄所の中に入った。製鉄所の玄関は、段差が無いので、すぐに入れてしまうのだ。それは、あくまでも車椅子の人間がすぐに入れるようにするためにそうしてあるのであるが、こういうふうに簡単に入れてしまうということでもある。
お母さんが、四畳半を覗くと、水穂さんが、ワルツの17番を慶一くんと一緒に弾いていた。お母さんは更に驚いて、
「ま。まあ!あの川村先生が尊敬しているという右城先生ではありませんか!ほら、挨拶をしなさい!何をしているの、ちゃんとお辞儀して、お金だって払わないと、、、。」
なんて言っているのだった。水穂さんはそれに気がついて、
「僕は、もう演奏はできないので、お金は要りません。」
と言った。
「あ、ママ。おじさんにピアノを弾いてもらったの。僕にも弾ける曲があったんだよ。これを川村先生に持っていったら、喜んでくれるって、おじさんは言ってたよ。」
と慶一くんが嬉しそうにそう言うと、
「おじさんなんてそんな馴れ馴れしく言ってはいけません!挨拶をしなさい!先生に向かってちゃんと挨拶を、、、。」
お母さんはそう言っている。
「いや、そのようなことは結構ですから、早く慶一くんの本当の音楽性に感銘を持ってくれる先生を探してあげてください。多分、ワルツの16番を無理やり弾かせるような先生では、慶一くんの良いところを発揮してあげることができません。確かにテクニック的なところはまだ子供さんなので難しいところもありますが、音楽的には優しく柔らかく弾くことができます。それを忘れないであげてください。」
水穂さんは静かにそう言ったのであった。お母さんは、そうですかと小さい声で言って、
「では、慶一の、才能があるというのは、本物なのでしょうか?」
とだけ聞いた。
「ええ、それは本人の努力次第だと思います。だけど、それは指導してくれる先生によって、かなり違うのではないかと思います。」
水穂さんは正直に答えた。
「やれれ。子供を通して、かっこよく見せたいなんて、夢を見るのはどちらかしら?」
杉ちゃんがでかい声で言った。静かに風が吹いて、冷たい空気を運んできた。
夢を見たのはどちらかしら? 増田朋美 @masubuchi4996
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