最終話 故郷の森
イルの記憶が無事戻った後、屋敷に侵入を知らせる為の結界を張り、レンの連絡を受けて後ろに控えていた国の一級魔法使い達は城に戻り、ガヴィのはからいで
黄昏は人型から黒狼の姿に戻り、侯爵邸のテラスで庭を眺めながらイルにぴたりと寄り添って、二人は離れていた時間を埋めるように
紅の里が襲撃された際、
『ノールフォールを出た後、私はすぐ隣のクリュスランツェの人里離れた森の中にいた。
人と会うのも嫌であったし、かといってノールフォールから完全に離れるのもはばかられた』
あの襲撃の後、森を焼かれ逃げ出したノールフォールの精霊達の一部がクリュスランツェの方に逃げて来た。異変を感じた精霊達が黄昏にノールフォールの危機を教えてくれたらしい。
黄昏は慌ててノールフォールに舞い戻ったが、黄昏が紅の里に着いた時にはもう誰一人として生きた者はいなかった。
『……あのような絶望感はもう二度と経験したくない』
その時の光景を思い出したのか、黄昏は身体を震わせた。
イルは黄昏に身を預ける。
「……
父は、黒狼の姿でいれば必ず母に見つけてもらえると思ったのかもしれない。
逃げる途中でガヴィと王子に出会って、黒狼の姿だったけれど皆優しくしてくれた。
悲しかったけれど、皆がいてくれたから、ずっと泣かずにすんだの。
そう言って笑う我が子が、輝いて見えた。
(ああ、この子を産んだ、あの朝焼けの輝きに似ているな)
まさか人と子を成すとは思っていなかった。
二度と人とは関わらぬと思っていた。
けれど、いつも結局惹かれるのは、なんの力も持ち合わせないのに、倒れても傷ついても立ち上がり、一番しぶとく生きているこの人間という種族だった。
『貴女は、とても美しくて強いけれど、少し臆病だな』
ふいに、そう言って笑ったこの子の父を思い出す。
彼やイルを置いていった黄昏を、彼はどう思っていたのだろう。彼は黄昏の事をイルには話さなかったと言う。
ずっと父には嫌われていると思っていたとイルは言っていた。
異種族の黄昏を受け入れた彼が、娘を疎ましく思うとは思えない。
ただ、黄昏が自分の中の恐怖から家族の元を去ったように、彼にも割り切れない葛藤があったのかもしれなかった。
後に父に嫌われてはいなかったとイルは笑ったが、黄昏があのまま里に残り続けていれば親子三人でまた違う未来があったかもしれない。
今となっては、それもたらればの話にしかなりはしないが。
ガヴィを色々責めたが、イルに辛い思いをさせた一端は自分にもある事は本当は解っていた。
きっと、辛い別れは再びやって来る。
それでも、少しでも、この子が笑顔でいられるように。
イルの生ある内は共に生きようと、黄昏は己の胸に誓った。
『……イル。私と共に、ノールフォールへ還らぬか』
イルが、ガヴィの事を思っている事は知っている。この子は赤毛の剣士の側を離れたがらないだろう。
思い違いでなければ、あの男もまた、この子の事を憎からず思っているはずだ。
だがしかし。
人であるとはいえ、獣になることのできるイルの性質を考えるとノールフォールの森での生活の方が彼女には合っていると思えた。
あの小憎たらしい男が何もアプローチしないのであれば、あの男に配慮する必要もなし。
イルは母の誘いに視線を左右に泳がせると膝を抱えた。
「……母様とは、一緒にいたい……」
二の句が続かず沈黙が降りる。
『……ガヴィエインの側を離れたくないか』
イルはこくりと首を縦にふったが「でも、見込みないし……」と小さく呟いた。
そんな事はない気がしたが、あの男がモタモタしているのならばそれはそれで好都合と言うもの。イルが意気消沈しているのには心が痛むが、それこそこの世界に男はあの男だけではない。
時の流れは恐ろしいものだが、時の流れが癒やしてくれるものもあろう、と黄昏は自分に都合よく解釈しイルに帰還を薦めようとした。
「何が見込みないって?」
気がついたら話の渦中の男が、お茶の入ったポットとカップがのった盆を持って現れた。
イルはギクリと肩を跳ねさせ、黄昏は人間なら舌打ちをしたい気持ちになった。
ガヴィの持ってきたのはイルの好きな乾燥した林檎と庭のハーブを入れた紅茶だ。
「ん」とイルに差し出して「んで? なんだって?」と黄昏と反対側のイルの隣に腰を下ろして自分も紅茶に口を付ける。
イルは「なんでもないよ」と言いかけたが、黄昏がすかさず『私と一緒にノールフォールへ帰らぬかと誘った』とガヴィに告げた。
イルは「母様!」と焦ったが、ガヴィはさして驚いた様子もなく、いつもの様子で淡々と返した。
「帰ればいいじゃねえか」
「え?」
あまりにあっさりと言われてイルはショックをうける。
「やっと会えた親子だろ? 元はノールフォールに住んでたんだし、そもそもお前の故郷はあそこだしよ」
黄昏がいればもう危険もないだろ。
そう言われてしまえばその通りなのだが、イルが言いたいのはそう言うことではない。
保護者が見つかって、故郷には危険ももうなくて。であれば元いた場所に帰るのは自然な事だ。
だけど自分はもうすっかり皆といる生活に慣れてしまっていたし、母といたい気持ちはあるが皆と離れるのは寂しい。
それになにより、自分は未だガヴィの事が好きなのだ。
そりゃあ、自分の想いは成就しないかもしれないが、もう少し一緒にいたいし、ガヴィにも寂しいな、くらいは思って欲しい。
自分の気持ちは知っているくせに、ちょっと冷たくはないか。
記憶がない時は母に連れ去られまいとあんなに必死だったのに。
イルは泣きたい気持ちで唇を尖らせ膝を抱え直した。
「……なんつー顔してんだ」
ぐしゃ、とガヴィに髪の毛をまぜられる。
「避暑地に行けば城と道を繋げられるし、王子にもすぐ会えるだろ? 俺もいるし」
「……――え?」
「うん?」
話が噛み合わなくて顔を見合わせる。
「どういうこと?」
「あ? ……だから、避暑地から道を繋げばいいだろって話。そりゃ毎日ってわけにはいかないけど、俺も定期的に城に顔出さなきゃいけないしよ」
「……ガヴィ、どこか行くの?」
「あん? だからノールフォールだろうが」
「え?」「うん?」
両者お互いに怪訝な顔をして、先にガヴィが「ああ」と合点のいった顔をした。
「俺、ノールフォール領の領主になったから」
「え……えぇえぇ?!」
衝撃の事実にイルがはくはくと口を震わせる。
「え? えぇ?! いつ?! いつの間に?!」
ガヴィによると、黄昏との一件があった直後、ガヴィはエヴァンクール国王に珍しく直談判にいったらしい。
今までの働きの褒美にノールフォール領が欲しい、と。
フォルクス伯爵家が爵位を剥奪された後、ノールフォール領は代理で男爵が治めていたが、統治権は宙に浮いている状態だった。
北の国境に当たるノールフォールの守りは重要であり、信頼のおける者にしか任せられない。
国王は今まで褒美など一切欲しがらなかったガヴィが領地を欲しがった事を驚きつつも喜んだ。
イルが現れるまでは国のあちこちを飛び回っていて、中央にいることも屋敷にいることも余りなかったし、所在地が変わったところで不都合はない。
それに、元々ガヴィの故郷はノールフォールの側であるし土地勘もある。武芸に長けている彼がノールフォールを守ってくれれば安心だし、これ以上の適任者はいなかった。
国王は二つ返事で彼の願いを受け入れた。
「陛下が避暑地近くに屋敷建ててくれるってさ」
良かったな、とガヴィが笑う。
イルは、なんでガヴィがそこまでしてくれるのとか、レンのいるお屋敷はどうするのとか、なんだか自分に都合が良すぎるのではないか、とか。思考はショート寸前であった。
「黄昏」
ガヴィが黄昏の名前を呼ぶ。
黄昏が記憶していた赤毛の剣士は、小生意気でまだ少し幼さの残る少年だった。
黄昏の
今、こちらを見つめる青年は、あの時の剣士とは違う気配をまとっている。
瞳に込められた、想いの熱さだけは形を変えずに。
「……過去に起こったことは変えられねえし、お前の時の流れと、俺達の時の流れを変えることはできねえ。これからも、その不安や恐怖と向き合う必要はあると思う。
……けれど、少なくとも俺の生きてる間はノールフォールも、コイツも、俺が絶対に守ってやるからよ。それだけは安心しとけ」
そう言って笑った顔は、やはり小生意気だったけれど。
黄昏は忌々しげにフンと鼻を鳴らした。
『そなたにまだ娘をやるとは言っていない』
「それはそうだけどよ、お前が決める事でもないだろうが」
『……イルがそなたを嫌になったら、絶対にノールフォールから追い出してやるからな』
目の前でポンポンと交わされる言葉の応酬に、一人ついて行けずイルは顔を赤くしたり青くしたり目を白黒させたりした。
「え? えぇ?」
未だ状況が把握できていないイルが困惑の顔を浮かべる。
「ど、どういうことぉ……?」
やっと親子の再会を果たしたと思ったら、昔も疎ましく思っていた赤毛の剣士が我が子を掻っ攫って行くとはとんだ茶番だ。運命の女神は微笑んだのか嘲笑っているのか。
(フン……だが、どうせなら孫の顔は見たいからな)
すっかり大人になって調子づいてしまった剣士を忌々しく思いつつ、まだ幼さの残る我が子をどうやって守ろうか、黄昏の悩みはどうやらしばらく無くなりそうにない。
❖おしまい❖
2023.3.22 了
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