第9話 母と子

 レイ侯爵家は城下街から少し離れた郊外にある。周りを小さな森で囲まれており、屋敷自体は外からは一見見えない。

爵位は高いが領地を持っていないガヴィは侯爵位についた時にこの森と屋敷だけを貰った。

 馬車で城まで半刻(約三十分)の、元々は下級貴族の別荘であった木々に囲まれたこの古い屋敷を赤毛の剣士はいたく気に入ったが、改築の為にやってきた城から派遣された大工や左官工は侯爵位の人物の屋敷としては余りに質素な大きさと作り驚いていた。

とはいえ、普段は屋敷にはガヴィとレンしかいないので、ガヴィにとっては充分すぎる作りだったのだ。

 森の周りには大きな町や村もない為、昼間も静かではあるが、夜になるとますます静かだ。

月が満ちている今夜は、空が闇で覆われても屋敷を月明かりが明るく照らしていた。


 そんなレイ侯爵邸の一室にある、バルコニーに面した扉がカタリと微かに音を立て、わずかに開いた間から身を滑らせるように女が音もなく入ってきた。

 長い黒髪の女は目の覚めるような美女で、そこに誰かいたならばすぐに人間ではない精霊の類だろうと解ったであろう。

夜の闇に溶け込みそうな黒い髪、白磁の肌に輝くような金色こんじきの瞳。決して目立った髪色や特長があるわけではないのに、浮世離れしている顔立ちをしていた。

女は少女の眠る寝台に近寄ると、音を立てないように寝台に腰かけ、少女の寝顔をそっと覗き込んで小さくつぶやいた。


「イル」


 それは空気が震えた程度の物であったが、不思議な事に眠っていた筈の少女には届いた様で、少女は女によく似たその金の瞳をゆっくりともたげて女を見た。

 少女の目が開くとは思っていなかったのか、女は僅かに目を見開くと動揺した。

しかし、少女の瞳には動揺している様子はない。

「……おかぁさん?」

 黄昏たそがれ咄嗟とっさに身を引いた。

「待って! 行かないで!!」

 女が寝台から完全に立ち上がる前にその手を掴む。

「……お母さん、なんでしょ? 私を連れ戻しにきたんだよね?」


 ――そうだ。

 自分はこの少女を連れ戻しに来た。人間達の中から。


 だから少女の前から逃げ出さずとも、このまま連れ去ってしまえば良い。人の子の王が何か言っていたが知ったことか。

 自分の大切なものを奪うのは、いつも人間なのだから、今度は自分が奪ってやるのだ。

 ただ、それだけのことだ。


 ……ただ、それだけの事だ。


「私、ずっと会いたかった」


 窓から差し込む月明かりに照らされて、自分と同じ金の瞳が語る。

「私……なんにも覚えていないけど……お母さんの話をガヴィから聞いた時、ずっと会いたかったんだって思ったんだ」


 お母さんは?


 そう自分に問う、なんの悪意もない澄んだ瞳に揺さぶられる己がいる。


 会いたかったに決まっている。


 産まれたばかりのこの子を置いて行くことは、自分にとって身を切られる様な思いだった。

 離れたくなどなかった。

 けれど、時の流れに取り残され、あっという間に別れが来ることに耐えられそうになかった。

 ……でも、この金の瞳に見つめられたら、もう離れられそうにもなかった。

だからこの子の目が開く前に、彼女が自分を母と認識する前に、そこから逃げ出したのだ。


 だが、それは黄昏の言い分で。


 イルにとっては母に捨てられたと思われても仕方のないことだ。

ガヴィに色々と大義名分を並べ立てたが、イルにどう思われているか。

きっとそれが一番知りたくて知りたくないことだった。

 だから、記憶を消した。

まっさらなただの子どもにして、最初からやり直すつもりで。


「――答えてやれよ、黄昏」


 部屋の隅にガヴィが佇んでいた。

自分の存在がバレていないとは思っていなかった。

ここへ自分を呼んだのは人間達だからだ。屋敷に侵入した時点できっと自分が来たことは解っている。姿は見えないが、控えているのはこの赤毛の剣士だけではないだろう。

空気が張り詰める。だがガヴィは静かに首を振った。

「……やめようぜ。

 俺はお前とやり合うためにお前を呼んだわけじゃない」

話をしよう。お前が話に応じれば、魔法使いも国王も手出しはしない。ガヴィはそう言った。

「……今さら……なんの話をするのだ……?」

苦々しげに黄昏が口を開く。

 ガヴィは、静かに答えた。

「……未来の話だよ。お前と、イルの。

 そして俺も。全員が、幸せになるための」

 黄昏は人を超えた妖艶さを備えた容姿を、さも可笑しそうに歪めて毒を吐いた。

「幸せになるために……だと?

 ……笑わせてくれる……お前も、私も!

 今さら幸せになどなれるものか……!!」


 忘れたのか! あの少女の事を!

 人間と、お前と! そして私が殺したあの少女の事を!


「忘れたとは……言わせぬ……!」


 血を吐く様に声を絞り出し、ガヴィを睨みつける。

ガヴィはゆっくりと黄昏とイルに近づくと、黄昏から目をそらさずに言った。


「忘れてなんかねえよ。忘れるわけねえだろ? 

 ……でもよ、このままじゃ駄目なんだよ」

 未だ黄昏の手を掴むイルの頭に手をのせ、慈しむようにゆっくりとイルを撫でてやる。

「……俺は一生イーリャの事は忘れない。

 けど、イーリャは一体なんの為に戦ったのか……思い出せよ」

 強く、黄昏の目を見る。

「彼女は、精一杯やった。好きな男の為に精一杯生きてた。

 ……たとえ想いが成就しなかったとしても、アイツはアイツの意志で最後まで生きぬいてた。

 もしも、イーリャがあの道を選ばずにアルが死んでいたら……みんな助からなかったし、助かったとしてもイーリャは一生後悔したよ。悔やんで、悔やんで……

 ……黄昏、お前はアイツにそんな人生をおくらせたかったのか?

 アイツだって、俺達がずっと後悔し続けながら生きて行くことを望んでるわけがない。

 ……だから、アイツの一番近くにいたお前が……イーリャが幸せじゃなかったなんて言うんじゃねえよ」


 アイツの一生が、不幸だったなんて言うんじゃねぇよ。


 そう言って、ガヴィはまっすぐ黄昏を見つめた。


 ――まだ、少女と言っても差し支えなかった彼女が犠牲になった事が、辛くて、やるせなくて……

自分の想いさえ伝えられずに逝ったかと思うと可哀想で仕方がなかった。


 それでも、本当に彼女は不幸だったのか?

自分の知っている彼女は、いつも笑顔で、自分のやるべき事に一生懸命だった。


 その、最後の瞬間さえも。



 不幸だったのは彼女の人生ではない。

彼女を亡くして、悲しみを消化できない自分の弱さを、彼女を可哀想な少女にしていたのではないか。



「アイツは幸せだったよ。

 ……イーリャもイルも、俺やお前みたいに現実から逃げ出すようなヤワな奴じゃねえから、たとえ辛い事があったて負けやしねえよ」

 そう言って昔アルフォンスとイリヤを羨ましそうに見ていた赤毛の少年は笑って言った。



 もう、逃げ出すのはやめた。


 辛くて苦しくて、たとえ跪いても。

 いつか立ち上がって生きていく。


 新しい出会いを恐れずに。



「お母さん」

 イルが黄昏の腕を引いた。

「私ね、きっと記憶が無くなる前も、ガヴィの事が好きだったと思うの」

 金の瞳が、重なり合う。

「お母さんに会えて、今凄く嬉しい。

 きっと、前の私も嬉しいよ。お母さんに会いたかったと思うよ。――だから、怖くない。

 私、何にも知らないより、悲しくても、お母さんが私のことを思ってくれてるって知ってる方がいい。……お母さんの事がもっと知りたいよ!」

 そう言って胸に飛び込んできたイルはもう黄昏の記憶にある赤子ではなかったし、前の記憶を取り戻したわけでもなかった。

 でも、確かに以前と同じイルのかけらがそこにあった。


 そんな黄昏の胸に飛び込むイルを見て、ガヴィは理解した。


(――本当だ)


 イルの言う通りだ。

 理屈じゃない。


 何がきっかけとか、どこが好きとか、そんな事は少しも重要ではなくて。


 ただ、目が離せない。

イルの言葉一つ一つに、胸が踊って、締め付けられて、湧き上がる。


 いつか彼女が言っていたように、自分も彼女が笑っていると嬉しいし、悲しいと辛い。

 でももし、彼女が苦しんでいるとしたら、

 それを隣で一緒に共有するのは、痛みを分けるのは自分がいい。


 この感情の名を、自分はすでに知っていた。

 二度と、芽生えることのないと思っていたこの感情を。


 イリヤを想った様に、自分の人生をかけて人を好きだと思えることは、もう二度と無いと思ってた。

あの、宝物のような日々を、蓋を開けたらなくなってしまうのではないかと頑なにしまい込んで、箱に入れてずっと守っていた。


 けれど、


(大丈夫)


 愛しいという気持ちは、一度きりじゃなくてもいい。

 二度目がきても思い出はなくならないと、今を生きて気づかされた。教えられた。


 この、黒髪の少女に。


 自分の中に芽生えたこの感情に、気付かないふりをするのはきっと意味がない。


 芽吹いたものには、水をやり、手間をかけ、育てるのだ。

 綺麗な花を咲かせるために。


 もし、その花が咲いた後にすぐに枯れてしまったとしても。

咲いたことに後悔する花など、いるはずもないだろう。

 ガヴィは今はっきりと、己を照らすあの太陽の様な瞳にまた逢いたい、と痛烈に思った。


「イルが……俺にまっすぐ気持ちを伝えてくれたように。

 俺にも、まだアイツに返してない気持ちがある」


 だから。


「だから黄昏。頼む、イルを返してくれ」


 黄昏はイルとガヴィをじっと見つめた。



 ――人とは、弱き生き物だと思っていた。

瞬く間に散ってしまう儚い生き物。

十四年しか生きていないこの子を守らなければいけないと思っていた。


 だが、


(すでに、私の助けなどいらなかったのか)


 思えば、イリヤも弱くなどなかった。

たとえ短くとも、最後までその強い意志を貫き通して生き抜いたのだ。

(私も……強く、いられるだろうか)

 時の流れは変えられない。別れの怖さも、拭えたわけではない。

でも、今の一瞬を後悔しないように。

 黄昏はイルをぎゅっと強く抱きしめた。



 長い抱擁の後、イルはもう一度黄昏の顔を見つめた。

母様ははさま、あのね?」

 イルの呼び方が変わった事に、ガヴィが目を見開く。

「あのね、……シュトラエル様はすっごく可愛らしい方なの! 王子をぎゅっとするとね、私が力をもらえるんだよ!

 ゼファー様はね、私が悲しい時は涙が止まるまで隣にいてくれるよ!

 ……ガヴィはね、意地悪なことも言うけど……でも、いつも正直な気持ちを言ってくれるよ!

 ガヴィの赤い髪みたいに……いつも明るくて……真っ暗闇にいたって、ガヴィが居たら大丈夫って私、思えるの。


 悲しい事はたくさんあったけど、皆がいたから笑顔になれたよ」


 だから、だからね母様。


「皆が悲しい時や辛い時は、私が側にいたいなって思うの。皆が私にしてくれたみたいに、みんなの力になりたい。

 ……母様が悲しい時にも、これからは一緒にいたいって思うよ。助けたいと思うよ」


 私、幸せだよ。ちゃんと幸せだよ!


 そう言って笑ったイルの目からは、朝日に照らされてキラキラ輝く朝露のような雫がいくつも溢れていた。

黄昏は人の一生は短いと知りながら、イルの十四年に目を背けていた自分の愚かさを悔やんだ。


 そして、もう目をそらさないと誓う。


「……そうか。

 ……ではこれからは私にも教えてくれ、イルの喜びも、悲しみも」


 そう言って柔らかく微笑んだ母に、イルは破顔して、うん! と弾けるような笑顔を返した。


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