第8話 記憶
小さな村の外れではいつも二人の男の子が遊んでいた。
一人は黒髪の少年、もう一人は燃えるような赤毛の少年。
二人はかけっこをしたり、木の枝を剣に見立ててチャンバラごっこをしたり、多少のやんちゃもしつつ仲良く遊んでいた。
いつの日か、そこに森から来た黒髪の少女と狼が混ざるようになり、子ども達の毎日は輝くようにキラキラと過ぎてゆく。
皆でいるだけで毎日が楽しかった。
大人になって、一人一人が歩む道が分かれるまで。いや、たとえ別れたとしても、ここに帰って来さえすれば、また笑い合えるはずだった。
人ではない狼は、彼らの行く末を見守り、彼らの幸せを願って先に命の終わりを迎えるはずだった。
しかし、気づけば命より大切な少女はいなくなり、思い出の残る地に居続けるのが苦しくて故郷を後にした。
それでも永き時を経て、懐かしさか寂しさか。
理由は定かではないが、ふらりと帰った故郷の森。
二度と交わらぬと思っていた人間とまさか思いを通わせた。
遥か昔、
衰退していく一族の未来を憂慮し、長になる事の責任感と不安の狭間にいた彼を、支えてやりたいと思ったのが間違いだったのか。
腹に宿った生命を愛しく思い、そして恐怖した。
また、私は一人になるのか。
男は確実に自分より先に老いて死ぬだろう。
自分の力を受け継がなかった娘もまた。
男は死がふたりを分かつまで共にと願ったが、とても耐えられそうになかった。愛しい娘にも、自分と同じ気持ちを味あわせたくはなかった。
そう言い訳して、娘が何も解らぬうちに姿を消した。
――死は、老い以外でも安易に訪れることは、身をもって知っていたはずだったのに、なぜかその時は失念していた。
里の危機を知り、再び彼の地に戻った時には、もう何もかもが遅い。
「……大丈夫?」
気づくと、隣に少女がいた。黒髪に狼によく似た金の瞳。
「……寂しいの?」
何も答えはしなかったけれど、少女は狼の隣に座るとそっと身体に寄り添った。
故郷の森と、娘が産まれた日に嗅いだ太陽の香りがした気がした。
「……」
テラスからの光が、チラチラと顔に当たって目が覚めた。
ソファーに座っていた筈なのにいつの間に眠ってしまったのか気が付けば横になり、体にはブランケットがかけられている。きっとあのレンと呼ばれる執事がかけていってくれたのだろう。
(ゆめ……知らない人、いっぱい出て来たな)
ぼんやりと考えながら目をこする。
まどろみの中で見た夢は、自分の知っているものは何も出てこなかったのに、なぜか懐かしく、そして何だか寂しかった。
流れていく映像と人物の中に一つだけ、ぽつんと変わらぬ一匹の黒狼の後ろ姿。
(……誰?……もしかして……おかあさん?)
先日、ガヴィから話があると言われた。
自分には生き別れた母がいること、そしてその母は人ではなく、力の強い精獣であること。
家族がいなくなってしまったイルを心配して、イルの記憶を消し自分を取り戻そうとしていること。
イルは何も覚えてはいないけれど、ここにいる皆はイルの事を覚えている。
出来ればみんな、イルの記憶を取り戻したい。
……でも、イルは一度ちゃんと母に会った方がいいと思う。どうする?
そう、ガヴィは真剣な目で言った。
短い期間で色々な事が起こって、何もわからなくて、情報が多すぎて。
イルは混乱していたし、母が人ではないとか、意味が解らなくて泣きたくなった。
でも、この短い間で解かったこともある。
自分は、絶対にここの人達に大切にされていた。
自分も戸惑っていたが、周りの皆も戸惑っている。
きっと元々の自分とは様子が違うのだろう。でも、戸惑いながらも皆辛抱強く自分に向き合ってくれている。優しさをくれている。
記憶のあった時の自分は、何を考えていたんだろう。
泣いて、慰めてもらっているだけではダメだと思った。
ちゃんと自分で考えて、答えを出さないと。
イルは不安に揺れる自分を鼓舞して言った。
母に会ってみたい、と。
ガヴィはちょっと驚いたような顔をして、わかったと言った。
その後、イルは城を出てガヴィの私邸に来た。
ノールフォールに行けば母である黄昏に確実に会えるが、会った途端連れ去られる可能性もある。
黄昏もイルを取り返すと言っているのだから、どうにかして接触を図ろうとするだろう。
城の中では逆に警備が厳しすぎる上に、万が一国王になにかあってはいけない。
ガヴィはゼファーや魔法使いの面々とも相談し、ノールフォールの避暑地にアルカーナ王国の国王の正式文章として魔法で伝言を残した。
イルの記憶を返して欲しい事、
創世の剣士、及びイルとの平和的会談の為に場所を設ける事、
もし強引にイルを連れ去ろうとした場合、王家として対応する用意がある事。
黄昏は人ではないから、人間の道理は通じないだろう。
しかし元々紅の民イリヤ、黄昏、王家、そしてガヴィと言う古き時代から繋がって今日まできたのだ。
国全体を敵に回してまで暴れまわる程、黄昏が短慮とは思えない。
城から程なく離れていて、尚且つ城の者とコンタクトの取れるレイ侯爵邸で黄昏を呼び寄せたい。ガヴィはなんとかここで扉を開いて待ち、黄昏とイルを会わせる予定だった。
(……どんな人なのかな)
精獣なのだから人ではないのだが、それはこの際どうでもいい。
不安もあるが、何もわからない今の自分のルーツである母に会ってみたいという気持ちの方が大きかった。
「起きたのか」
気がついたら、近くにガヴィが立っていた。
手には盆に乗せられたお菓子と飲み物。
食べるか? と問われて、うん! と返事をする前にグゥとお腹が鳴った。
恥ずかしい。
真っ赤になって固まるイルに、ガヴィは肩を震わせながら「どーぞォ!」と菓子を差し出した。
「お前はよォ、ほんっとに素直だよな」
性格も腹もな、と笑われてちょっとむくれる。
「……からかわないで」
「褒めてんだよ」
まだ笑いの収まらない顔でイルの斜向かいに腰を降ろした。
「遠慮しないで食べたらいい。
……悪いな、わけわかんないだろうにあちこち場所変えてよ。疲れてないか?」
イルは平気、と首を振った。
「ん……ならいい。
……今お前が座ってるとこ、記憶がある時お気に入りだったんだぜ」
「……私、ここに住んでたの?!」
「住んでたっていうか……俺が世話役みたいなもんだったからなあ」
一時期城に缶詰めだったら、ここに帰りたい帰りたいって大騒ぎだったんだぜ、と目を細めて笑うガヴィを見て、イルは胸が忙しく音を立てるのを感じた。
ガヴィはあの銀の公爵のように優しくもないし、言葉も、頭を混ぜてくる手も少し乱暴だ。
城には本物の王子様だっているし、物語に出てくる騎士様は絶対にガヴィみたいな感じじゃない。
どこが、だなんて本当によくわからないけれど。ただ、彼を見るといつも胸が騒がしくなる。
「……記憶が無くなる前の私って……ガヴィのこと、絶対好きだったと思う」
突然のイルの告白に、ガヴィが目を
そして眉を下げてちょっと困ったように笑った。
「……本当に、素直な奴は怖えよ……」
俺はお前ほど素直じゃねえから、お前の気持ちはちょっと眩しすぎるなァと呟いてイルの頭をくしゃりとやった。
俺も、だなんて言葉は返ってこないのに、撫でられた頭から嬉しさを感じてしまう。
きっと記憶をなくす前も、ガヴィとはそういう関係ではなかったに違いない。年も離れているし、兄妹の様な関係だったのか。
それでも、イルには確信している事がある。自分が彼に抱いている気持ちは『友愛』ではないと言う事を。
「……私って凄い。
……みんな忘れちゃったのにガヴィを好きな事だけ忘れてないんだ」
ね? 凄いよね? となんの悪意も計算もない純粋な顔で呟く。
「――っ」
ガヴィは全くの別人になってしまったと思っていた少女の中に、前のままのイルを発見した気がして「
イルはガヴィの動揺には気づかず、「なんで? ひどい!」と小突かれた頭をさすりながらも「そういえば……」と続けた。
「……おかあさんって、どんな人?」
ずっと聞いてみたかった事を訊ねてみる。
ガヴィは「普通の黒狼だった頃のアイツしか知らねえけど……」と前置きしてから、母
「元はお前と同じ紅の民のイリヤの黒狼だった。大体行動をイリヤと共にしてたな。
イリヤにべったりでさ、いつもアイツの近くにいるから俺は邪魔でよ、……ガキの頃は尻尾引っ張ったりしてたな」
そんなんだから俺たちは寄れば喧嘩だった。
近づけば吠えられるか噛まれるかで、間にイリヤやアルフォンスが入ってその場を収めるのが日常だったな。
アルには「よく狼と同じ土俵で喧嘩できるね?!」なんて言われてたっけ。
イルはガヴィの話を目を丸くして聞いていた。
「……まぁ、そんな感じだったから、久々に会った時も……そんな感じ、だったよなぁ……」
すまん、実はちょっとやりあっちまった、と少し気まずそうに頬をかいた。
「……でも、大丈夫だろ」
ガヴィは笑って言う。
「アイツが俺を嫌いでも、好きになってもらう努力をすればいいんだもんな?」
気まずい関係は、修復したいなら向き合って自分が努力すればいい。
そう、教えてくれた少女がいた。
イルはなんの疑問もなく「うん!」と笑った。
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