第11話
11
ぼくは、恐る恐る聞いた。
「そうだったの?」
「天地神明、神に掛けて誓う。そんなことはない。あれは、誰かが仕組んだものだ」
「もうこの話は、やめましょう。分からないままでいいじゃない。過去の出来事よ。武原監督は、年も年だし、どこかの監督になることはないのかな」
「レイダースを自由契約になった時に報告して、トライアウト受けると言ったら、『そうか、もし、ダメだったら、指導者になる道もあれば、普通の会社に就職する道もある。相談に乗ってやるから』って言ってくれたけど、連絡取ってない。まあ、幾ら名監督だからって、七十歳を過ぎた人に監督を頼む高校はないと思うよ」
祐一は、千円コーヒーを飲み干した。ほどなく、サービスの日本茶がふたりのテーブルの上に置かれる。
「恋人いるのか?」
祐一が、聞いて来る。
「パートナーは、いない」
ぼくは、パートナーの伸(しん)さんの姿を思い浮かべながら嘘を言った。
伸(しん)さんは、ファッション専門のカメラマン。ぼくの通っていた専門学校をしばしば訪れているうちに特別の関係になった。まぎれもないイケメンタイプではあるが、すっきり系ではない。顎髭を生やし、どこかダラッとした雰囲気があった。ぼくは、時々、伸(しん)さんの二DKのマンションに行って、料理を作り、おしゃべりをし、歓びの夜を共に過ごす。
祐一に言いたく理由が、もったいなくてなのか、祐一との秋葉原で手をつないだ日々のことを大事にしたかったのか、それは、分からない。
「野球を続けるよ。何としても、プロに戻るつもりだ」
祐一は、顔を引き締め、ぼくの目をしっかり見つめて言った。
「あのさ、さっき、芸術劇場から俺出て来ただろう。ある芸能プロダクションの社長に会って来たんだよ」
「芸能プロダクション?俳優になるとか」
「ああ、元スポーツ選手というのは、需要があるっていうんだ」
「いい話じゃない。祐一は、彫りが深いから、演技を勉強する必要はあるけど、十分やっていけると思う」
「断って来た。俳優の話は、俺に野球をさせる決意を新たにさせた。まだ、口外してもらっちゃ困るけどな、独立リーグに行くつもりだ」
「そうまでしてプロ野球に戻りたいんだ」
「ああ、今の球速は、たまにしか140キロが出ない、そんな状態だ。だけど、トレーニングすれば、ドクターの意見など参考にすると144や145は出ると思う。スライダーの切れも戻る。独立リーグでそれを実証するするつもりだ」
地下道で発したと同じような言葉を、祐一は言った。
独立リーグ、ぼくは、その存在を知ってはいるが、全国にどれだけあるのか知らない。収入は、大した額にはならないだろう。貯金を崩していく生活になるに違いない。
ふたつの球団から「来ないか?」という打診があり、四国の「愛媛マーキュリー」に入ることになりそうだと話す。愛媛マーキュリー、聞いたことがある。プロの有名選手が監督で行ったチームではなかったろうか?
ぼくが、それを言うと、「今では、社長になっている」との答えが返って来た。
「うまくいくこと願っているよ」
「ああ、頑張る。フィギュアは、増えたか?」
「サエグサ学園やめた時に、全部段ボールにしまった」
「そうか。だけど、克明とフィギュアを買いに「ブラザーズ」とか秋葉原とか行くのは楽しかった。懐かしい思い出だよ」
懐かしい思い出、たった八年余りの歳月でしかないが、遠い昔のようで、的確な表現のような気もした。
家に帰り、いつでも、引っ越し出来るように準備すると祐一は言い、ぼくは、久々なので、池袋の街をひとり散策したいと言った。
改札口の向こう側とこちら側、
「祐一、四国だろうが、どこだろうが、あきらめるなよ」
本当に久しぶりにぼくは、男言葉を使った。
「ああ、克明もな、いっぱしになれよ」
大きな背中の男が去って行く。
ぼくは、再び、西口の芸術劇場の前の広場に出た。
伸(しん)さんへの誕生日プレゼントに考えていた海外ブランドのブレスレットを買うために。ショップまで十分とはかからないだろう。[了]
自由契約 猪瀬宣昭・作 猪瀬 宣昭 @noi5132
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます