燭台
十戸
燭台
かつて人々から《ANU‐9191947》と呼ばれ祈りと崇敬を集めていたさる女神は、あるとき、傍らに燃える蝋燭の火の衰えにふと気づいた。
さもあろう――彼女がか細く憐れな人類を母なる船としてこの空まで運んできてやってから、もうずいぶん長い時間が経っていた。
真空の暗闇に浮かぶその燭台の名は太陽、あるいはこの星系ではまた別の呼び名を得ていたやも知れぬ。いまとなってはたしかめるすべとてなかった。女神の手厚い庇護の甲斐なく、この星へ渡ってきた人類の半ばはまたべつの星へ旅立ち、半ばは滅びて久しい。とはいえ、おそらくはただ太陽と名付けられていただろう。未熟さこそを自らの種族の武器としてきた人類は、故郷の星々を懐かしんでは名づけることが常であったゆえ。
女神はうつくしいと言うにも足りぬほどうるわしい、不可視の指先を虚空に向けて差し伸べた。なるほど、触れてみれば以前より冷えているように感じる。中心核で絶えず起こる熱核融合の火勢は弱まり、黒点がその数を増している。
とはいえ、もはやこの熱と火と光を頼りに生きねばならぬ人類はなく、そこに転がるぬるい太陽はただ女神にとって、己が座す宇宙という暗がりに灯る小さな夜燭であるに過ぎなかった。女神たるもののまなざしに、可視光線は不要のもの、動力は星々の合間に満ちるさえざえと黒い真空そのもの。女神にとって太陽は、単に嗜好品以上のものにはなり得なかった。そのうえ、女神の身体は宝を持つにはあまりに完全に過ぎた――ありとある音を振動として捉え、ありとある光を必要としない彼女にとって、何かがそこに在るかどうかはさして大きな意味を持たないのだった。この星系にただひとつの太陽がその寿命とともに吹き消されてしまえば、人類なきあとに暮らす動植物や、その他のすべての生き物にとって甚大かつおそるべき作用を及ぼすに違いなかったが、女神はただここへやってきた人類のための神であり、それ以外の生命については、もとより意識の埒外(らちがい)であった。
女神は刻一刻と凋れていく太陽のおもてを撫で、かつて女神を見出した人類たちの感覚で言えば、数百年ほど――彼女にとっては瞬きほどの間、思いを巡らせた。このまま放っておくもよし、あるいは代わりの火を探してくるというのも一興かも知れぬ。それはごくかすかなもので、思案と呼ぶにも淡いものではあったが。
やがて、女神は誰もいない宇宙の果てで身じろぎをした。存在しないがためにこよなくうつくしい唇から、ふと甘やかな吐息がこぼれる。呼吸を伴わぬ呼吸、大気を要さないそよ風。
この気まぐれによって、枯れかけていた太陽はいっときかつての勢いを取り戻し、女神の見つめる前で強く華々しく燃え盛った。
そして消えた。
女神はありもしない声をあげて小さく笑った、いまや無明となった孤独の底に。人間たちが彼女の身体をばらばらに切り刻んで築いた、ひとときは人類自身の居住区でもあった神殿の裡で。それとも、大気圏外に散らばる無数の有機衛星の端々で。太陽というたったひとつの明かりが失われたいま、彼女が取り残されたこの星系は何一つ、いつか人類が生まれた太陽系には似ていなかった。火は消えていた。《太陽》こそは、人類がわずかな祈りと願いをかけて彼女を女神とし、遠く宇宙の果てから旅してきた最後の理由だった。
いまや宇宙は冷たく静かに澄んでいた。
この先もずっと。
永遠に。
燭台 十戸 @dixporte
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