「私は殿下に興味はありませんっ!」と言われてしまったスパダリ王子が「フッ、面白い女だ」と興味を示すけど、その令嬢に既に婚約者がいた場合はどうなるか、という話
佐々木鏡石@角川スニーカー文庫より発売中
第1話フッ、面白い女だ
「この私に興味を示さないとは……フッ、面白い女だ」
そうひとりごちた「彼」は、華やかな宴の席の只中にいた。
思い思いの場所に陣取り、思い思いの人と話し、談笑する人々の群れの中。
「彼」は誰とも話さず、誰とも目を合わさず、一人シャンパンのグラスをチビチビと舐めていた。
「彼」の視線の先にいたのは、美しい女であった。
どこが特に、ということはない。顔の造作だけで言えば、特段飛び抜けて美しいということもない。
この場に居並んだ女たちの中で、華やかさ、淑やかさ、伸びやかさを競うとなれば、彼女はむしろ平凡な分類の人だったかもしれない。
ましてや「彼」のような、生まれてこの方、他者に選り取り見取りの好意を向けられてくることが当たり前であった男ならば。
ひと目見ただけで震えが来るような美女でさえ、何をしなくとも呆気なく手中に落ちて来る「彼」のような存在にしてみれば。
視線の先にいる彼女は、今まで「彼」が出会い、そして彼に愛を囁やこうとしてきた女の中では、とりわけ平凡な方であったに違いない。
ただ――この場の中の誰が否定しようとも、「彼」だけは彼女のことを、世界で一番美しい女性だと思うだろう――ただ、それだけだ。
おめでとう、おめでとう。
そんな声と空気が宴の空気を盛り上げる。
彼女ははち切れんばかりの笑みを讃え、大きく手を振った。
「みなさん、ありがとう!」
彼女は大声でそう言い、隣に立った青年の腕に寄りかかった。
「私、彼と一緒に、世界一幸せになってみせます!」
わあっ、と、居並んだ観客が歓声を上げた。
「彼」はそこで、彼女の隣にいる男を見つめた。
そこにいたのは、酷く暗い色の髪をした青年。
そんな男が、「彼」が世界で一番美しいと思う女の側に立っている。
あろうことか――彼女の新たなる伴侶、夫として、だ。
フッ、と、「彼」は口元を緩めた。
くくく、という静かな笑い声は次から次へと沸き起こってきて、誰の耳にも届かないままに歓声に掻き消される。
「彼」は美しい金髪を一度だけ撫で上げ、幸せの絶頂にいるのだろう彼女を見遣った。
「本当に、最後まで……この私にマジで興味を示さずに、他の男と結ばれてしまうとは……」
不意に――「彼」の頬を涙が伝った。
生まれて初めて流れた、意思とは関係なく流れた涙だった。
「本当に、面白い女だ――」
◆
「私は殿下に興味はありませんっ!」
鋭い、悲鳴のような絶叫が学園の空気を引き裂いた。
その手に触れようとした「彼」の腕を鋭く払い除け、肩で息をし、激しい怒りの表情とともにこちらを睨みつけてくる女に、「彼」はしばし呆気にとられてその様を見つめた。
「いくらこの国の王太子だからといって、嫁入り前の乙女の手を気易く取って口づけようとするなど、はしたない行いとはお思いになりませんか! 恐れながら、いくら田舎男爵家の娘だからといって、初対面の私をそこまでみくびらないでくださいませ!」
彼女はその小さな体に怒気を充満させ、まるで噛みつくように怒鳴った。
その怒声に、学園の廊下をゆく生徒たちも何事かとこちらを振り返る。
あまりの剣幕に二の句が次げないでいる「彼」を燃える瞳で一瞥すると、彼女はもうなにも言うことはなく、ぷい、という感じで踵を返し、廊下をノシノシと歩いていってしまった。
払い除けられたときの衝撃が、まだ手に残っていた。
その力の凄まじさ、いまだ痺れている手を思わず擦ると、背後にいた令嬢のひとりが憤ったような口を開いた。
「何よアレ、私たちのメレニス王太子殿下が折角お茶に誘ってくださったっていうのに……!」
ひとりの、名前もよく覚えていない令嬢がそう言うと、彼の周りにまとわりついていた令嬢たちが口々に彼女に恨みの言葉を吐いた。
「誰よあの生意気な女!? 普通喜ぶところよね!? だってメレニス殿下に直接お声をかけてもらったんだもの!」
「アイツは東のド田舎のアッセルマン男爵家の娘だったはずよ! 確かそうよねみんな!?」
「田舎者の癖に王太子殿下のお誘いを無碍にするなんて……! 信じらんない! どういう神経してるのよ!」
「不敬よ、不敬! 王太子殿下のお誘いを断るだけでなく、
「メレニス殿下、あの田舎娘に叩かれたお手は大丈夫ですか? 痛みますか?」
ふと――猫撫で声を発した取り巻き令嬢の一人が、心配するふりをして彼の右手に触れようとした。
「いや――よい」
それをやんわりと制して、彼は肩を怒らせて人混みの向こうに消えてゆく彼女の姿を目で追った。
まだ痺れている右手を左手で擦りながらそれを見ていると――不意に、生まれて始めて感じる不可思議な感情が心の底にふつふつと湧いてきた。
「殿下――?」
取り巻きの令嬢の一人が、彼女の背を目で追ったままの「彼」を見て、不思議そうな声を上げた。
それは、生まれて初めての感覚――。
言うなれば、今まで出会ったこともない、いないと信じていた神のその御姿を、この目で見たかのような感覚。
今まで色のなかった世界が、急に極彩色に色づき始め、圧倒的な輝きを放ち始めたかのような、それはとても不思議な感覚だった。
「まさか、この私に靡かない女がこの世にいたとはな――」
ニヤ、と彼の唇の端が、意思とは無関係に持ち上がった。
今すぐ大声で笑いたくなるような、そのくせ一人でこの邂逅をずっと噛み締めていたいような、相反する感情が渦巻いて止まらなくなる。
左手で顔を覆ったまま、ククク……と低い声で笑い始めた彼を、取り巻きの令嬢連中が不思議そうな顔で見つめているのが感覚でわかった。
こんな場所で笑い出すなんて、気が触れたかと心配されるだろうな……そう頭の片隅で他人事のように思いながらも、彼は湧いてくる黒い笑いを押し留めることができなかった。
「フッ、面白い女だ……」
そんな「彼」の低い声は、学園の喧騒に掻き消され、呟いた本人の耳にしか届かなかった。
◆
「彼」――メレニス・パワー・ルックバックは、このルックバック王国の王太子。
そして――所謂ところの、何ひとつ欠けたところのない、限りなく完璧に近い人間であった。
生まれついて、彼はまるで天使がその御姿を貸し与えたかのような、愛らしい容姿と全てを魅了する声を併せ持っていた。
彼がひとつ瞬きをする度に周囲の存在――特に女は彼を愛らしいと褒めそやし、一言言葉を発する度に熱くため息をついた。
その完璧に近い容姿だけではなく、彼には類稀なる明晰な頭脳と、賢者をも唸らせる魔法の才能、幾多の死線をくぐり抜けてきた歴戦の兵とも互角に戦えるだけの、剣のキレもあった。
他者を圧倒する統率者としての才覚は、本来ならば王太子候補としてその座を争うはずの兄弟たちにも十二分に伝わっていたのだろう。
彼は特に有力なライバルの登場にも遭遇することはなく、三年前の十八歳の時、この国の次代を背負って立つ王太子として立てられた。
後はこのマキマ魔法学園を卒業し、父である王の退位を待てば、彼はこの国の王に即位し、この国の全ての上に君臨する未来が待ち構えていた。
だが――彼の世界は、いつの頃からか、すっかりと色合いを失っていた。
彼が剣を振るえば、並の剣士では斬り結ぶこともできなかった。
彼がつっこんだ質問をすれば、家庭教師でさえ返答に窮した。
彼が魔法を発動すれば、賢者でさえその魔法の冴えを恐れた。
何でも片手間にできてしまう人生。
誰一人、隣に並び立つもののない人生。
誰一人、彼のことを拒絶してはくれない人生。
周囲の全てが、自分を褒め湛え、自分を溺愛するために創造されたかのような、まるで歯ごたえのない、つまらない人生。
それが今まで彼の生きてきた道だった。
そんな人生に飽きていた彼は、気がつけば周囲の望む通りの存在になり、彼女らが望む通りに行動するだけの人形になっていた。
この女は自分に愛の言葉を囁いてほしいと考えている――そう感じたなら、つまらない愛の言葉を吐いてやった。
この女は自分に触れてほしいと思っている――そう思ったならば、その熱く上気する頬にそっと触れてやった。
それだけで、周囲の女は失神せんばかりに喜び、蕩け、ますます彼を褒め称えた。
唾棄すべき生活、唾棄すべき状況と言えたが、彼にはもうどうでもよかったのだ。
だが、今日――彼は生まれて初めて、他者から拒絶された。
しかも、今まで自分を溺愛することしかなかった、女性という存在に。
あんな目で睨まれたことは、生まれて初めてだった。
あんな罵声を真正面から浴びせられたことは、生まれて初めてだった。
みくびらないで――そんなひどい言葉で自分の非をなじられることが、有り得ることだとは思ってもいなかった。
それは焼け野原の只中で、やっと自分以外の人間に出会ったかのような感覚。
自分という存在を拒絶することも有り得る人間の存在――。
それがどれだけ待ちわびていた邂逅であったか、今の自分にならわかった。
彼はベッドに仰向けに寝転がりながら、昼間、鋭く振り払われた手を愛おしく頭上に翳した。
「フッ、この私に靡かない、興味も持たないとは――」
ククク、と、彼は再び低い声で笑った。
「面白い女だ――」
◆
彼女の名前はリネット・アッセルマン。
遥か東方の田園地帯を治めるアッセルマン男爵家の長女の18歳。
身長は163cm、体重は50kg弱。射手座のO型。
スリーサイズはここには記載しないが、なかなかのワガママボディ。
胸元の左側に二個並んだホクロあり。
昨日の夕食はクリームシチューとポタージュを一緒に食べて学友に不気味がられた。
動物占いでは黒豹タイプというから相当な肉食系女子である。
好物はハンバーグで、嫌いなものは野菜全般。
趣味は読書と剣の鍛錬、そして木登りをすること。
特技は剣と、いつでもどこでも眠れること。
田舎では所謂ガキ大将的な存在であったらしく、やたらと気も腕っぷしも強い。
魔法は不得手だが剣は鋭く、かつて一度手合わせした貴族令息をも負かしたという。
逆に男女関係には滅法弱く、いまだに男と手を繋いだこともないらしい――。
「ここまでとは……ますます面白い女だ……」
ククク、と低く笑いながら、彼は壁一面に貼られたメモ容姿、そして彼女の写真を愛おしげに指でなぞった。
そう、彼――メレニス・パワー・ルックバックは、今や完全なる彼女のストーカーと化していた。
上に陳列された「彼女」の情報も、ちょっと口に出しては言えない王家の闇のネットワークを通じて調べ上げたものもあるが、その成果の半分以上は実際に彼自身が彼女をストーキングして調べた情報、撮影した写真である。
そんなわけで、今では彼女の父親の七代ぐらい前の人物の情報ぐらいなら、この部屋に全て揃っている。今や彼は彼女以上に彼女のことを知り尽くしている男であった。
何故、という言葉は彼の中にはない。存在すらしない。
彼はそうする必要があると思えば何でもするし、彼が少しキリッとした表情をしていれば、周りもそれをだいたい容認する。
今回調査を命じた王宮の密偵も、彼が少しキリッとした表情で命じたら疑問を呈することなくすぐ動いてくれた。
だから彼はこの一ヶ月、心置きなく彼女の情報を仔細に調べ上げ、悦に浸る自己満足を繰り返していたのだった。
「ククク……調べれば調べるほどますます面白さが増してくるではないか……全く、お前は素晴らしく面白い女だよ……」
彼は彼女を物陰から盗撮した一枚を親指で擦った。
自分はいまだかつて、このようにあるべき女性のあり方の逸脱を繰り返す女というのを知らない。
皆彼の前に現れる女は、どれも理想的な貞女に、彼の言いなりになろうとした。
それが彼の興味を惹くのだと何故か疑うこともなく、彼にとっては最もどうでもいい人間であろうとした。
だが、この女はそうではない――彼の中の何かがそう確信していた。
この女なら、この面白い女なら、自分を前にしても絶対にそうはならない。
人間として、自分という個を維持したまま、決して崩れることはない。
そう思うと、我知らず唇の端が吊り上がり、どうしようもない愉悦が心の奥底から沸き起こってくる。
「だが唯一、これだけは幾ら何でも面白くはないな――」
彼の声と表情が少し曇った。
それは壁一面に貼り出された写真の一枚が視界に入ったからだった。
それは彼女が――リネット男爵令嬢が、緊張した面持ちでベンチに腰掛け、ある青年の隣にしゃちほこばっているところを写したものだった。
彼女の隣に座っている、暗い色の髪の色をした青年。
ひと目見て風采の上がらない、芋臭い田舎者であるとわかる青年。
彼女と同じように、慣れない女性との会話に緊張しているのがわかる青年。
彼の名前はオーウェン・ビューティフルスター。
遥か西を治めるビューティフルスター子爵家の惣領息子であった。
なんと彼女――リネット男爵令嬢は、この風采の上がらない青年と婚約して半年になるそうなのである。
つまり、れっきとした他人様のお手付きで、彼女は一年後にはこの青年の伴侶となることが確定していたのだった。
無論のこと、この青年についての調査もすでに一通り終わっていて、彼がどうやら見た目通りの青年であるらしいことはわかっている。
うだつも風采も上がらず、自分の容姿に気を使う余裕もない、気弱で朴訥な青年――そんな青年であるらしい。
そもそもビューティフルスター子爵家は西の辺境地帯を治めている小領主で、カネ廻りも貴族間の立場も、お世辞にもいいとは言えない。
そんな弱小貴族の倅と結婚するのだから、おそらく彼女の結婚生活もそれなりにしんどいものになるのは目に見えている。
それでも、彼女はそんな青年との婚約を、特に嫌がることもなく受諾し、今ではこの学園でそれなりに仲良くやっているそうだ。このベンチで互いに数時間も硬直する行為が二人の仲の良さを表すものならば、の話だが。
ぐしゃっ、と音がして――。
気がつくとメレニスはその写真を右手で握り潰していた。
急な自分の変化に戸惑ったのも一瞬、心の奥底から、先程の愉悦とは違う、黒々しい感情が沸き起こってきた。
「このような面白くない男、お前のような面白い女にはもったいないのでは――?」
思わずそうひとりごちた声に、恐ろしい
それは彼が人生で初めて感じた感情――憤りの感情だった。
もし、お前と婚約していたのが、自分であったなら。
こんな面白くない男よりももっといい服を着せてやれる。
こんな面白くない男が囁くよりももっと甘い言葉を囁いてやれる。
こんな面白くない男がするよりももっと蕩けるような口づけをしてやれる――。
そう考えると、彼自身では制御できない感情が血管を流れ、全身を冷やしていった。
メレニスは人生で初めて、羨望の感情に気が狂いそうになった。
今すぐ、このそれなりに仲睦まじい二人を写した写真をバラバラに引き裂きたくなった。
誠に悲しいことに――彼は知らず知らずのうちに、自分が面白くないと信じる人々の価値基準を彼女にも押し付けていた。
彼女はいくら高価な服を押し着せても、どんな甘い言葉を囁いても、どんなに肉欲で誘っても、決して靡くことはないと確信しているのに。
それなのに、彼は彼女という人間が信じた婚約者の価値を一方的に貶め、彼女の婚約者である彼よりも、自分の方がオスとして優れていると断じてしまったのだった。
それこそ、自分も彼女も、最も嫌うことであったはずなのに――その時の彼は根本的に、他人に嫉妬することが全く上手ではなかったのだ
こんなことは間違っている、こんな間違った現実が許されるはずがない。
この面白い女の隣に伴侶として並び立つのは、絶対に自分であるはずだ――!
「渡してなるものか――お前を、こんな面白くない男風情に――!」
彼は恐ろしく低い声でそう吐き捨てた。
◆
「渡してなるものか……お前のような面白い女を――!」
彼は延々とそんな呪詛を繰り返しながら、秋の冷たい小雨の降る中、上等な仕立ての服をしとどに濡らし、バズーカ砲のような
ぶふぇっくしょい! という見た目に似合わぬくしゃみと共に出た青っ洟を手で拭いつつの
今、彼が執着する面白い女――リネット男爵令嬢は、雨の当たらぬ庇の下で、婚約者であるオーウェン子爵令息とデートの真っ最中であった。
まぁ、デートと言っても、二人で何も会話を交わすことなく、ただただガチガチに緊張して座っているだけである。
もうかれこれ一時間ぐらい二人を観察しているが、まるで蛇に睨まれたカエルのように、ふたりとも微動だにしない。
これでは全く監視の甲斐もないというのに、もはや意地と気力だけでメレニスは二人をストーキングしていた。
ぶふぇっくしょい! と、小雨に濡れて冷えた身体から再びくしゃみが出た。
メレニスは苛立ちとともに青っ洟を手袋で乱雑に拭った。
「おのれ――! このメレニス王太子をここまでヤキモキさせるとは、やはり貴様は全く面白くない男だな、オーウェン子爵令息……!」
彼はブツブツと呪詛を吐きながら、やはり固まったまま無言の二人を眺めていた。
もし自分があの面白い女の隣りにいたのならば、すでに五十回くらいは愛の言葉を囁き、十四回ぐらい手の甲にキスをして、二回ぐらい実際に唇を奪っているはずだった。
それなのに、これだけアホのように時間があるというのに、オーウェン子爵令息はガンとして動こうとせず、ただあの面白い女の隣に置物のように座っているだけだ。
そしてそれは本来は気が強いはずのリネット男爵令嬢も一緒で――ただただ顔を真っ赤にして俯き、隣りにいる男と視線すら合わそうとしない。
「くそっ、じれったいな……! デートになるのか、こんな石みたいにしゃちほこばって座っていることが……! こういうときは普通男の方がエスコートしてナンボではないか! 何故動こうとしないオーウェン子爵令息、この甲斐性なしめ! バカ! アホ! オタンコナス! うんち!」
そう、彼――メレニス・パワー・ルックバックは、限りなく完璧に近い人間である。
完璧に近い人間であるから――基本的に善人であった。
善人であるから、罵倒する言葉にもセンスがない。
なまじ本人が完璧なので、他人に嫉妬するのも上手ではない。
本来、あのリネット男爵令嬢を他人に奪われるのが嫌ならば、それなりに裏で手を回したり、策謀を巡らせてあの二人の仲を裂こうとしたりするところなのだが、彼の頭の中にはそんな選択肢は頭からない。根が善良すぎてそんな悪事のやり方がわからないのである。
だから、こうやって観察する他にやることがない。
ただただ観察して、「あー、どうにかなって別れてくれないかなぁ」と眺めるだけなのである。
と――そのときだ。
意を決したように、ススス、と腿の上を動いたオーウェン子爵令息の手が、ベンチの上に降りた。
ん? とメレニスが眉間に皺を寄せると、次のタイミングで、リネット男爵令嬢も動いた。腿の上で拳を握り締めていた手を、ススス、と同じようにスライドさせ――。
物凄くじれったいような時間があり――ちょん、と、お互いの指先がベンチの上で、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ重なったのが見えた。
それだけではない。指先が重なったまま、そのまま何かの頃合いを見計らうかのようにじっとしていた二人の指先がきゅっと動き――小さく小さく、指が絡まり合った。
途端に、まるで示し合わせたかのように真っ赤になった二人は、気まずそうに、だが決して不愉快ではない感じに顔を背けてしまった。
「あ――」
瞬間、メレニス・パワー・ルックバックは、人生初のざわめきに震えた。
思わず、白手袋を嵌めた手でぐっと胸を押さえてみるが、その不思議なざわめきは全く去ってくれない。
思わず、彼は物陰に身を潜めたまま、妙に説明口調で声を発した。
「な、なんだ、なんなのだこの感情は――!? ま、まるで何だ、子猫同士がじゃれ合っているのを見るかのような、このじれったくも決して不愉快ではない感覚――!!」
しとどに雨に濡れた身体が、にわかに熱を帯び始めた。
それはこの間、リネット男爵令嬢に感じた感情と似て非なる感情――異なってはいるが、限りなく近いもの。
再びやってきた人生初の感動に、メレニス・パワー・ルックバックの心臓が高鳴った。
そう、それは俗に言えば「萌えた」、「尊い」、「無理」という感情であることを、この完璧に近い青年でも知らない。
それはあの初々しくじれったいカップルが見せた、あまりにもささやかな歩み寄り、そして親愛の情――そのことがわかってしまったメレニスは、急激に高熱を発し始めた脳の片隅で、あることに激しく感動していた。
それは彼女――リネット男爵令嬢が、今までストーキングしてきた中で一番、可愛らしく、そして扇情的に見えたことに対する感動である。
見よや、あの勝ち気な面白い女が浮かべる、メスになりきった顔を。
今、ほんのささやかに男と指先を絡め合い、頭から湯気を発しているあの面白い女の――なんと可愛らしいことか。
それは自分が、このメレニス・パワー・ルックバックが百の口づけをしたとしても、決して見ることが叶わないだろう表情。
今、あのベンチの上でリネット男爵令嬢が浮かべているあの表情。
あの表情を、あの面白い女から、たったアレだけの行動で引き出して見せたオーウェン子爵令息に――メレニス・パワー・ルックバックは、人生で初めて、その場に崩れ落ちて地面に額を擦り付けたくなるような落胆を感じた。
「あ――」
その莫大な落胆の感情の理由を考えて――メレニスは、はっとあることに気がついた。
思わず、雨がしとどに降り注ぐ空を見上げる。
そう、あの低い空と同じ、灰色に曇りきったような気持ち。
この喪失感、この落胆、この徒労感こそが――。
「そうか、これが、この感覚こそが――敗北感、という感覚か――」
落胆の中にそんな爽やかな感動までが湧いてきて、スゥ、とメレニスは静かに息を吸い、生まれて初めて感じた消失に酔いしれた。
今まで、彼の人生に「敗北」の二文字はなかった。
何でも片手間に、完璧に出来てしまう人生において、他人に競り負けることなどただの一度も有り得なかった。
だが――今、彼は生まれて初めて、何者かに敗北した。敗北したのである。
まるで決して登ることが適わない、巨大な反り立つ崖を前にしたような、この圧倒的な絶望感――。
これが――これが「負ける」という感覚なのだ。
「面白い――」
ぎゅっ、と物陰で握り拳を握りながら、彼は低く笑い声を上げ始めた。
「ククク……面白い、面白い男ではないか、オーウェン・ビューティフルスター子爵令息。この私、この王太子である私に、こんな、こんな屈辱的な気持ちを味合わせるとは――!」
そう、メレニスは限りなく完璧に近い人間であり、基本的に善人であり、また――割と独り言を言ってる時にテンションが上がるタイプの人間であった。
その如何にもスーパーダーリン的な敗北の言葉に、彼の心の中の黒い炎はますます燃え上がり、彼の身を容赦なく焼き焦がした。
「どうやら今後は監視する対象が二人に増えるらしいな……。オーウェン・ビューティフルスター子爵令息……これほど面白い男、捨て置くのは勿体ない。見ていろ、必ずやリネット男爵令嬢以上に貴様のことを知って知って知り抜いてやる――!」
クハハハハハ、と、彼は右手で顔半分を覆って高笑いに笑った。
その後、上を向いたせいで口と鼻に雨粒が入ってきて、しばし大いに噎せた。
◆
ブルブルブルブル……と、悪寒が止まらない。
身体の節々も痛いし、頭も痛いし、鼻が詰まって不快だし、くしゃみも咳も止まらない。
どうやら熱もあるらしく、頭がボーッとしてフラフラする。
雨の日も風の日も彼らをストーキングしていたせいで、完璧に風邪を引いてしまったようだ。
「うう……気分が悪いぞ……。それになんだか寒気もする……」
ぶふぇっくしょい! と、スーパーダーリンに似合わないくしゃみを三度ほど繰り返して、彼はバズーカ砲のような
こんな体調でも、何故かあの面白い女と面白い男のストーキングは休めない――。
メレニス・パワー・ルックバックは、くしゃみと咳でストーキングがバレやしないかと思いながら、ベンチに座る二人を見つめていた。
どうやら、この間のほんの些細な歩み寄りが功を奏したのか、二人は今では普通に手を繋ぎ、そのまま何事か談笑するところまで関係が進展していた。
ただ手を繋ぐだけで卒倒するのではないかと思わせるほど恥じらっていた最初の方も初々しくてよかったが、このようにだいぶこなれてきた二人を見るのもまたオツなものである。
彼らの結婚式はあと半年後。
このまま関係が進展してゆけば、無事に円満で仲の良い夫婦になれることだろう。
「それにしても……最近では何だかデートのたびに見違えてゆくではないか、オーウェン子爵令息。最初の頃の写真と見比べて驚いたぞ……」
メレニスはそう言い、オーウェン子爵令息を見た。
そこにいたのは最早田舎の弱小貴族の小倅ではない、如何にも新進気鋭の貴族令息と言える好青年に変貌した彼であった。
調べるまでは面白くない男だとばかり思っていたが、あのオーウェン・ビューティフルスターなる青年、実は意外なほどの大志を秘めた青年であることもわかってきていた。
子爵という決して身分が高いとは言えない家柄に於いても、彼の目は常に未来を見据えているらしく、数年前は当主になる前でありながら領内の改革を父に進言し、領内の不作の影響を未然に回避するという功績を残していることもわかっている。
更に眼を見張るべきは、リネット嬢と婚約してからの彼の変貌ぶりである。
最初、このストーキング行為を開始した時は垢抜けないただのイモ青年だったが、今やどうだろう。
王都で流行の装いに身を包み、野暮ったく重い印象だった髪も短く整え、見違えるように垢抜けているではないか。
それだけではない。婚約してから地道に身体も鍛え始めたらしく、ヒョヒョロヒョロのモヤシだった身体の方も着実に頑強さが増してきて男らしくなっている。
男子三日会わざれば刮目して見よ、とは言うが、これほどの変貌を遂げた生徒はこの学内でもかなり少数ではないか。
「フフ、私の目の前でこれほどまでに変貌してみせるとは……やはり私が見込んだ通りの面白い男ではないか、オーウェン・ビューティフルスター子爵令息よ……」
そうひとりごちるメレニスは、己の顔が我知らず笑顔になっていることに気づいていない。
そして、その笑みの形に歪んだ唇の上に、ズルル……と青洟が垂れてきているのにも、である。
ぶふぇっくしょい! と、再びくしゃみが出た。
うう、と悪寒に身震いしたメレニスの頭が、いつしかガンガンと棒で繰り返しどつかれているかのように痛み始めた。
熱はますます上がっているらしく、身体に感じる悪寒と、熱に浮かされる頭の差が不快だった。
「何故――」
ふと、その時初めて、自分の行動に疑問が湧いた。
イチャイチャ、という感じでベンチに座っている二人を眺めながら、メレニスはズズッと洟を啜り上げた。
「なんで……こんなになってまで、私は、私という男は、こんなことをしているのだろう――」
そう、何故、何ゆえに自分はこんなことをしているのだろう。
こんなところであの二人をストーキングしたところで、自分には何の益もない。
最初こそリネット嬢とオーウェン子爵令息が何かのはずみで別れてくれないかなぁなどと思っていた自分だったが、この半年はそれが完全に無理な話であることも理解している。
今の自分はあの二人にとっては完全に外部……というか、そもそもあの二人は自分がこんな事をしているなんて絶対に知らない。
つまり、今の自分はあの二人の関係性に何らの変化も与えない、ただの観察者でしかないのである。
「私は……私は一体、何がしたいんだ……?」
そうだ、自分は何がしたいのか、今となってはよくわからない。
王太子ともあろう自分がこんな物陰にコソコソ潜み、悪寒にブルブルと震え、青洟を垂らし、汚らしくくしゃみと咳を繰り返し、それでも諦めることなく彼らをストーキングしているのは何故なのか。
ただただ――あの面白い女と面白い男を観察したいだけか?
「違う……違うのだ……」
熱に朦朧としながら、メレニスは自分の思いに反駁した。
ぐらぐらと、視界が歪み始めている。
「私は……私という男には、欲しているものがある……」
それは――何だ?
陽炎のように揺らめく視界の向こうで、何者かが問いかけてくる。
メレニスは白手袋を嵌めた手を、ぎゅっと握った。
「私は……私は、今とは違うものになりたい……今の私ではない何者かに……」
そうだ、自分は結局――今の自分が嫌いなのだ。
今まで誰一人、自分というものを拒絶してはくれなかった。
完璧な人間だと褒めそやして、己の不完全な部分に目を向けてはくれなかった。
だから――執着した。
不完全な己を隠すことなく生きている、あの面白い女に。
地道な積み重ねでより完璧になってゆく、あの面白い男に。
自分は――自分に欠けているものを持っているあの二人に憧れていたのだ。
そうか、そういうことか。
高熱でぼやける視界に、奇妙な納得が落ちてきた。
ズズズ、と洟水を啜って、メレニスは静かにその思いを口にした。
「私は……私は、なりたいんだ。最初から完全な存在ではないものに、努力して成長してゆく何者かに……私が面白いと思える、面白い男に……」
そう、最初から完璧であることなど――何も面白くはなかった。
不完全で、歪んでいて、足りなくて。
それでも日々あくせく生きて、研鑽して、努力して、今とは違うものになってゆく――その人間の眩しさに憧れた。
そう、努力。
しとどに冷たい雨に濡れながら。
高熱を出し、咳もくしゃみも止まらず、頭も痛くて、悪寒に震えながら。
それでもやらずにはいられないこと、それでもやりたいと思うこと。
そう、人間を人間たらしめている力――努力。
私は――一度でいいから、努力というものをしてみたかった。
私は、私という男は、あの二人のストーキングを通して、その圧倒的な輝きを欲していたのだ――。
「あれ? めっ、メレニス王太子殿下!? 何をしておいでなんですか!?」
不意に――そんな素っ頓狂な声が落ちてきて、メレニスは顔を上げた。
おお、これぞまさに女神の登場、リネット男爵令嬢が目の前にいる。
「メレニス殿下――!? どうしました!? お顔色が真っ青ですよ!」
ああ、わかった、今ようやくわかったのだよ、オーウェン子爵令息。
君たちが教えてくれたこと、君たちが見せてくれた人間の輝き。
ようやくわかったのだ。
ああ、なんて素晴らしい。
私は、私は今、ちゃんと努力が出来ているじゃないか――。
その事に深い満足を覚えた瞬間、張り詰めていた何かがぷつっとちぎれた。
そのまま全身から力が萎え、メレニスは気絶の泥沼に深く落ちていった。
◆
「婚約破棄――!? 君たち二人がか!?」
「……あまり大きな声で言わないでください。わかってます、僕が――僕が子供だったのが悪かったんです」
あの日、高熱で失神していたところを医務室に担ぎ込まれて以来、すっかりと友人関係となってしまったオーウェンは、そう言って気まずく視線を逸した。
ぐっ、と噛み締められた奥歯と、握ったまま震えている拳が、二人の間に降って湧いた諍いの深さを物語っていた。
「彼女の実家――アッセルマン男爵家には、代々の負債の積み重ねで出来てしまった莫大な借財があるそうなんです。それがいよいよ男爵家の家計を圧迫し始めていて、爵位の返上をも検討しなければならなくなったと……。昨日、彼女はそれを理由に僕に一方的に婚約破棄を告げてきました。ちくしょう――なんでもっと早く相談してくれなかったのか……」
莫大な負債――ここ一年に渡ったストーカー行為によってその存在は知っていたが、それがそこまで彼女の心理的負担になっていることには――流石のメレニスも気づけなかった。
確かに、アッセルマン男爵領はここ数年は不作や水害などの災害続きで、領内の経営状況はお世辞にもいいとは言えない。
代々膨れ上がった負債に加え、ここ数年嫌がらせのように続いた天災が、結婚という一大イベントを目前に控えた彼女の精神を苛み、本当に自分なんかがオーウェンと結婚していいのかと自問させたに違いなかった。
「僕はそんなもの関係がない、一緒に借金を返そうと言ったんですが……あなたは何も知らないからそんな事が言えるんだ、私は私の家の事情に僕を付き合わせたくないんだと言って、それきり口を利いてくれなくなって、数日以内にこの学園もやめて領地に帰ると言い出してしまって……」
「借財は? 男爵家の借財整理にはいくら必要だと言っていた?」
「詳しくは聞けませんでしたが、ざっと計算して――必要なのは三億ポチタ程度だと」
オーウェンが告げた借金の額を、メレニスは素早く頭の中で計算した。
うむ、三億ポチタ――確かにイチ下級貴族の家計からすれば莫大な額であろうが、それでもこのルックバック王国の国家予算からすればほぼ誤差程度の額であろう。
天災に見舞われたアッセルマン男爵領救済の名目で国家予算を支出すれば、その許可が下りぬなら王家のポケットマネーを使ってでも……と、そこまで考えたところで、オーウェンがメレニスを見た。
「殿下、恐れながら――今、殿下は何をお考えですか?」
「何――?」
「もしやアッセルマン男爵家救済の名目で、その借金を国で肩代わりしようと?」
「そのつもりだが――」
「申し訳ございません、それは無駄なことでしょう。殿下がよくても、絶対に彼女は了承しない」
オーウェンの言葉に、メレニスは激しく動揺した。
「な――何故だ。王たるものが臣下の苦境を救済するのは当然だし、国境にも近いアッセルマン男爵家の弱体化は国土防衛の観点から見ても重大な懸案事項だ。何よりも私と君たちは友人同士だろう? それなのに何故――」
「友人同士、だからですよ、メレニス殿下。彼女の性格なら、きっと友情故にメレニス殿下に助けられたことを気に病むでしょうから」
はっ、と、メレニスは言葉を飲み込んだ。
「殿下もおわかりでしょう? 彼女はああいう性格なんです。殿下がどのような理由でアッセルマン男爵家に手を差し伸べるにせよ、彼女は結局、自分が殿下と友人だからそうなったのだと、却って自分を責めるでしょう。ここで殿下に動いていただいたとしても――彼女はきっと絶対に差し伸べた手を握ってはくれないでしょうから」
確かに――それはその通りだ。
あれほど面白い女、他人に甘えることが上手ではない、あの女のことだ。
ここで自分が助け舟を出しても、彼女は絶対に乗っては来ないという確信がメレニスにもある。
王太子である自分との個人的な情を理由に国に助けてもらうことなど、彼女にとっては到底了承できないことに違いない。
しばし虚を衝かれて絶句してしまったところに、オーウェンが畳み掛けるかのように続ける。
「友人に情けをかけられる、他人に迷惑を被らせるぐらいなら、潔く実家と一緒に沈む――彼女はそんな人です。ここで下手に助け舟を出せば、却って彼女を追い詰めてしまう……。正直、僕もどうしたらいいのかよくわかりません。僕は、僕は彼女の婚約者として情けない限りです……!」
オーウェンは泣きそうな表情で悲嘆した。
その表情を見て――メレニスは一層動揺した。
何故自分が動揺しているのか、よくわからなかった。
ここで彼女が借財を理由にオーウェンと婚約を破棄すれば、自分にも手を挙げるチャンスが回ってくるというのに、なぜだかちっとも嬉しくない。
それどころか、そんなことでこの二人が引き裂かれることなどあってはならぬことだと、その理不尽に激しく憤っている自分がいる。
私は――私という男は、一体何がしたいのか。
メレニスは項垂れるオーウェンを見て、再び自問した。
この二人を引き裂きたいのか、それとも助けてやりたいのか。
それは明確に後者だ。
だったら――自分はどうするべきなのか。
彼女を通さず、自分が裏で手を回して国王である父経由で男爵家を援助するか?
いや……このタイミングでそれをするのならば、いずれにせよ彼女はその裏に自分の存在を悟ってしまう。
彼女が気に病まぬよう、男爵家から何か抵当、質草のようなものを預かり、それで貸したことにすれば――。
いや、とても三億ポチタの抵当になるような質草など、アッセルマン男爵家でなくともありはしないだろう。
考えろ、考えろ、私は一年間も彼女をストーカーしていて、彼女以上に彼女のことを知っている男ではないか――!!
ストーカー。その単語が浮かんだ途端、メレニスの全身に電撃が駆け抜けた。
はっ、と、メレニスは瞬時考えをめぐらし――オーウェンに向き直った。
「オーウェン子爵令息。リネット男爵令嬢はどこにいる?」
「えっ? い、今はおそらく、寮の部屋の私物を纏めているところかと……」
「わかった。私が今からリネット男爵令嬢を説得する。オーウェン子爵令息、君もついてきなさい」
「ええっ!? せ、説得――!? で、殿下、それは――!」
言うが早いか踵を返し、のしのしと女子寮に向けて歩き始めたメレニスに、オーウェンが仰天した。
「で、殿下! 今は彼女の説得は無理です! 下手に動けば却って彼女を刺激してしまいます! 今は少し彼女の頭を冷やす方策を考えて――!」
「それならますますちょうどいい。今からあの面白い女の頭を冷やしてやろうではないか」
はっ――と、オーウェンが息を呑んだ。
メレニスはこれぞスーパーダーリンと言える冴えた表情と声で、とっておきの啖呵を切った。
「このメレニス王太子が、これ以上なく、完膚なきまでに、あの面白い女ののぼせきった頭をキンキンに冷やしてくれよう。――頭だけではなく、その肝までも、な」
◆
「リネット・アッセルマン男爵令嬢! 悪いが婚約破棄は破棄させてもらうぞ!」
――そんな冴えない大声と共にリネットの部屋のドアを開けると、ギャア! とリネットが悲鳴を上げ、パンパンに荷物が詰まったボストンバッグを床に放り出した。
「で、殿下――!?」と目を白黒させているリネットに歩み寄ったメレニスは、その顔を真正面から見下ろした。
「全く、君という人は本当に強情な人だ。何故もっと早く借財の事をオーウェンや私に相談しなかった? 勝手に思い詰めて、悩んで、挙げ句に婚約破棄などと言い出すとは……まぁ、そこが君の面白いところでもあるのだがな」
「し、借金……!? お、オーウェン様! あのことを殿下に喋ったんですか!?」
「ご、ごめん……で、でも、こんなこと誰かに相談しないと始まらないじゃないか! 君が一人で勝手に悩んで一人で背負い込もうとするなんて馬鹿げてるレベルの話だろう!?」
「そ、それはそうだけれど……!」
そこでリネットは勝ち気な顔をしょげさせて視線を下げた。
フン、とメレニスはその顔を見て鼻を鳴らした。
「リネット男爵令嬢。正直に言おう。私は将来この国に戴かれる王として、君のご実家の苦境を救済することもできる。――どうだ、この時点で私の手を取る気はないか?」
そう断言すると、瞬時目を伏せたリネットが、数秒後には何らかの決意を湛えてメレニスを見上げた。
「出来ません。恐れながら、それだけはおやめください、メレニス殿下」
「リネット――!」
「オーウェン様も、これはもう決めたことです。それに、私は友人として、殿下を信頼しております。心の底から友として信頼しているからこそ――その友に情けをかけられるようなことはできません。それがアッセルマン男爵家としての、貴族令嬢としての、最後の意地ですわ」
「リネット、お前の意思は――変わらないのか?」
「えぇ、変わりません。これは――私の問題ですから」
だからどうか、わかって――。
リネットは哀願するかのように、そこで寂しく笑った。
やめろ、やめろ。
お前がそんな顔をするな。
私が求めていたのはそんな情けない表情じゃない。
私が、私が本当に面白いと思ったお前は――。
その縋るような目にしばらく見つめられて――。
人生で一度も爆ぜたことがない――メレニスの中の癇癪玉が大爆発した。
思わず、メレニスはリネット男爵令嬢の手を掴んで、強引に立たせていた。
うわっ!? とたたらを踏みながらも立ち上がったリネットは、その行動に恐怖したかのように声を上げた。
「でっ、殿下?! 何を――!?」
「うるさいうるさいうるさい! 面白くない、全ッ然面白くないぞ、今の君はッ!!」
メレニスが凄まじい剣幕で怒鳴ると、ひっ、とリネットが息を呑んだ。
人生で一度も出したことのない声で、メレニスは更に怒鳴った。
「そんな濡れそぼった野良犬みたいな表情を浮かべるのはやめろ! 君のような面白い女には全然似合わんぞ! 私はな、いつもいつもしゃちほこばってベンチに座って、この男と手を繋いで、人目も憚らずにはしたなくイチャイチャイチャイチャしているときのような、だらしないメスの顔を――そういう君を見ていたいのだ!」
「う、うぇぇ――!? い、一体何を――!?」
ボボボッ、と、リネットの驚愕の表情が真っ赤に変色した。
この男と、と怒鳴られて指を差された方のオーウェンも激しく赤面した。
その顔を交互に睨みつけて、メレニスは更に意味不明なことを怒鳴った。
「そんなつまらん女のつまらん表情はこの私が許さん! 何度でも何度でも掻き消して、いつも通りの面白い女の笑顔にしてやるぞ! 来い! このメレニス・パワー・ルックバックが、もう金輪際二度とそんな表情が浮かべられない身体にしてやるッ!!」
とんでもない大声でとんでもない理屈をわめきながら、メレニスはリネットの手首を掴んだまま、学園内を歩き始めた。
◆
「で、殿下、殿下どこへ行くのですか!? ここは王家に連なる身分の方しか立ち入れない王族専用の寮じゃ――!」
「やかましい! この高貴なる身分の私がそこへ君たちを連れてきているのだ! たとえ野良猫でも私が許可すれば天下御免である! 胸を張れ! 背筋を伸ばせ! 威張って歩けばそれでよい!!」
憤慨しながらそう言い、メレニスが連れてきたのは自室の前である。
警備の兵士を指先ひとつで下がらせ、メレニスはリネットに向き直った。
「――リネット、君が普通の女性のように、素直じゃない性格なのはわかっている」
「は、はぁ――」
「それどころか淑女の理想図のように貞淑でもないし、性格は至ってじゃじゃ馬だ」
「う――」
「君は覚えていないだろうが、私は君との初対面のことはよく覚えている。私が君の手を取って口づけようとしたら、君は信じられないぐらいで私の手を振り払った。そうだな?」
「そ、そうでしたか? その節はとんだ御無礼を……」
「全く……しばらく痺れがとれなかったのだぞ。私は小さい頃から人に叩かれるどころか、あんなふうに声を荒らげられたことすらないんだ」
「はい……」
「だが――私はあろうことか、そんな君を気に入ってしまった。なにせ、私の人生において、君は初めての、この私に靡かない女だったからだ」
リネットが表情を変えた。わけがわからないという表情で後ろにいるオーウェンも、メレニスの声が変わったのを察知したらしかった。
「私は君に出会って初めて、まともな人間に出会った気すらした。その時初めてわかった。私はずっと、心の底では憧れていたのだ。普通に他者に拒絶されることを。私の思い通りにならない人間の出現を。――それが、おそらく君だった」
は――? と、リネットが目を丸くした。
本当に今ここですべてを言うつもりか? 自問する自分もいたが、もう止まらなかった。
「それから随分私は君に執着した。悟られないように後を付け回し、盗撮して――時には王家の言えない諜報ネットワークを使い、君に関する仔細な情報を調べもした。私は――私という男はな、実は君のストーカーなのだ」
「は、はぁ――!? で、殿下、何をおっしゃいます!? お、王太子殿下ともあろうお方が、まさかそんな私みたいな馬の骨のストーカーだなんて――!」
「嘘なものか! これが――これが証拠だ!!」
瞬間、メレニスは自室のドアを開け放ち、中を示した。
突然の行動に気圧されたように後ずさったリネットが――ゆっくりと、部屋の中に足を踏み入れた。
そこにあったのは、紙、紙、紙、紙――。
壁一面、そこかしこに貼られていたのは、リネットに関する仔細な情報を記したメモ、そして――盗撮写真の数々。
リネットの表情が、徐々に凍りついていく。
おっかなびっくり室内へと足を踏み入れたオーウェンは既に顔色を失い、ガタガタと震えながら、己とリネットを盗撮した写真をおろおろと眺めている。
「で、殿下――これは一体――!?」
血相変えて振り返ったリネットに、フ、とメレニスは皮肉に笑った。
どうやら、のぼせきっていた彼女の頭はこれ以上なく、恐怖と戦慄に冷え切ったようだ。
「わかったであろう? 私は君の友人などではない、穢らわしい君のストーカーなのだ。君たちと私の出会いを覚えているだろう? 私はあの日も、雨に濡れながら、高熱にふらつきながら、それでも君たちを付け回していた――それがあの日の邂逅の真実だ」
リネットが怯えたようにオーウェンと顔を見合わせた。
オーウェンは表情を厳しくさせてメレニスを見た。
「殿下――どうやらこれがお戯れでないことはわかりました。ですが、何故です? 何故この事実を、あろうことか僕たち本人に明らかにしようと思ったのですか?」
それは至極当然の疑問だった。
ふう、とため息を吐いて、メレニスはリネットとオーウェンを見つめ直した。
「最初こそな、リネットと君が何かのはずみで別れてくれないものか、何かの間違いで婚約解消となってはくれないものかと思っていたのだがな。だが、正直に言おう。私は今ではそんな愚かなことは毛ほども考えていない。事実、先程リネットが婚約破棄を通告してきたと聞いた時、私は喜ぶどころか激しく動揺し、憤った。こんなことは許されぬ、許されるべきではない、許してなるものかと憤慨して――今この状況だ」
意味がわからない、というようにオーウェンとリネットが再び顔を見合わせ、どちらからともなく手を握り合った。
その光景を微笑ましいものだと見つめて、メレニスは続けた。
「あの日、君たちによって医務室に運ばれた時、私は自分の欲しているものをずっと考えていた。私は幼い頃から何ひとつ欠けたところのない、完璧な人間だと言われた。事実、今までの私の人生は何をしても片手間に出来てしまう人生だったし、ただの一度も他人に拒絶されたことはなかった。私は君たちに出会うまで、自分の思い通りにならぬものを知らなかった――」
メレニスは大きくため息を吐いた。
「だから執着した。リネット、最初は君個人に。そしてゆくゆくは、オーウェン、君にもだ」
「え、えぇ!? 僕にもですか――!?」
「そうとも。これは君がリネットと婚約して数ヶ月後のデートを写した写真だ。どうだ、見違えたであろう?」
メレニスは壁に貼られた一枚の写真を取り、オーウェンに手渡した。
リネットがその写真をしげしげと見つめ、思わず、というように今のオーウェンと見比べる。
そう、それが普通の反応だ。あの風采の上がらない青年だったオーウェンは、今や立派に成長したのだ。
「君たちは本当に面白い男、そして面白い女だった。リネットは相変わらず素直でなくて、じゃじゃ馬で、異性に対する免疫がつかなくて。一方、オーウェンはどんどん変わっていったな。服装も、髪型も、顔つきや体つきまで……。リネットの婚約者として相応しい男になろうと――随分と努力したのであろう?」
その言葉に、オーウェンが気恥ずかしそうに頷いた。
「私は――おそらく、君たちに憧れていた。私はリネットのように自分というものがなかった。他の人間、特に女性に望まれるような行動を取る人形だった。私はオーウェンのように努力というものをしたことがなかった。真剣に何かに打ち込んだことなど、人生で一度も――」
あぁ、自分はこの期に及んでも、まだ面白くない男のままだ。
口にすれば口にするほど、自分という男は空虚な存在なのだと思い知らされる。
私は――私は今まで、彼らのように、本当に生きてはいなかった。
ただ、死んでいなかっただけの人間なのだ。
「それでもな、私はいつしか君たちを付け回すことに夢中になっていた。おそらく――キミたちの存在が、私の中で生き甲斐というものになっていたのだろう。雨の日も風の日も雪の日も、君たちを夢中になって監視していた。こんなに必死になって何かをやろうとしたことなど、生まれついて空虚な私には生まれて初めてのことだった――」
「殿下――」
リネットが、何故なのか気の毒そうにメレニスを見た。
もうその顔には先程の怯えの表情はない。
ただただ、己の空虚を吐露するメレニスを憐れむ表情だけが浮かんでいる。
「だが、私の中にもあった。あったのだ、私の欲しているものが、確かに――」
メレニスははっきりと口にした。
「私は完璧な人間などではなかった。リネットに執着し、オーウェンに嫉妬し、こんな薄気味悪い行動に走る、至って不誠実な卑劣漢だった。私は君たちに出会って、初めてまともな人間になれた気がした――」
メレニスは壁一面の写真とメモ容姿を見渡し、そして、リネットとオーウェンを見つめ直した。
「私は、それを教えてくれた、いや――一方的に学ばせてくれた君たちに別れてほしくない。仲の良い、私が面白いと思う夫婦になってほしい。今、人生で初めて、私は私が嫌だと思うことに対して、私の意思で抗ってみたいのだ。それは――君たちは嫌か? 迷惑だろうか?」
その言葉に、リネットとオーウェンが同時に首を振った。
よかった、と少し安堵してから――メレニスは大きく息を吸い、そして、大音声で宣言した。
「リネット・アッセルマン男爵令嬢!!」
「は、はいぃ!!」
突如大声を発したメレニスに、びっくぅ!! とばかりにリネットが飛び上がる。
「この壁一面に貼り出された盗撮写真とメモ用紙を見ろ! これは私の犯罪的行為の動かざる証拠だ! この中には王家の諜報ネットワークを介して入手した情報も多分に含まれている! わかるであろう!?」
「は、はい! そのようです!」
「つまり私は国家の公的機関を私的な目的のために使用していたことになる! これは立派な国家反逆行為、明確な背任行為だ! そうだな!?」
「はい――はい! その通りですッ!!」
あ、と、思わずリネットが口に手を当てて慌てた。
メレニスは続けた。
「こんなことが父である国王にバレたら、私はよくて謹慎、悪くすれば廃太子だ! 一生どこか片田舎の城に幽閉されてシケきった生涯を送ることになろう! それは嫌だ! つまりこれが公にバレたらマズい、非常にマズいのだ!! わかるな!?」
メレニスは大声で言い張った。
「だから――リネット男爵令嬢! どうかこのことを黙っていてくれまいか!! 無論、タダでとは言わん!!」
タダでとは言わん。
その言葉に、はっ、と、リネットが何かを察した。
リネットから視線を逸らさぬように留意しながら、メレニスは三歩後ろへ下がり、地面に両膝をついた。
その行動に、オーウェンもリネットも仰天したようだった。
「でっ、殿下、何をなさいます!? お、おやめください!!」
「やかましい! よぉぉぉく見ておけ、一生に一度しかしない予定の行動だぞ! どうか神仏も笑覧あれ、これがメレニス・パワー・ルックバックのロイヤル土下座だ!!」
そう言って、メレニスは床に両手をつき、思い切り頭を下げた。
少々力が入りすぎたらしく、ゴツッ!! と音がして、額に鋭い痛みが走る。
「頼む! あなたとあなたのご実家であるアッセルマン男爵家には口止め料として、私が個人的に三億ポチタをお支払いする!」
がばっ、と、メレニスは侘びしく背中を丸め、渾身の大声を張り上げた。
「どうかこのことを、婚約者であるオーウェン殿と一緒に、生涯秘密にしておいてくれないか! 頼む、この通りだッ!!」
ぽた、ぽた……と、叩きつけた額から何かが流れ出るのがわかった。
しばらく、それにも構わずに土下座を続けていると――ふと、肩に手を置かれた。
「お顔をお上げください、メレニス殿下」
メレニスがようよう顔を上げると、目と鼻を真っ赤にしたリネットの顔があった。
「口止めを、了承していただけるのか?」
「もう――ズルいですわ、メレニス殿下。こんな風にお願いされたら、幾ら私だって断れないですわよ……」
グスッ、と、鼻を啜ったリネットが、不意に顔を近づけてきた。
ちゅっ、という音と共に、湿った感触が血で汚れる額に触れて――あ、とメレニスは思わず赤面した。
真っ赤になった顔を泣き笑いの表情で眺めながら、リネットは何度も何度も頷いた。
「わかりました。この私、リネット・アッセルマンは、三億ポチタを口止め料として受け取ります。そのかわり、このことは一生涯、夫となるオーウェン子爵令息と共に、二人の秘密として守り抜きます。――いいですよね、オーウェン様?」
リネットの言葉に、一瞬驚いたように目を見開いたオーウェンだったが、数秒後には激しく何度も頷き、リネットの両手を取った。
幸せと慈愛に満ちた表情で微笑み合う二人を安堵の気持ちとともに見つめたメレニスに、リネットが再び口を開いた。
「メレニス殿下。殿下は先程、自分が空虚な人間だとおっしゃいましたけれど――とんでもございません」
「え?」
「それどころか――今の殿下と、今の殿下の行動……とても面白いですわよ」
ふふふ、と笑ったリネットに、メレニスは喜ぶとかいう以前に、単純に慌ててしまった。
「お、面白い――? 私がか?」
「そうですよ。全く、メレニス殿下はどこまでも完璧なお方だと思っていましたけれど――意外にアツいお方でいらっしゃるんですね。それと、すごく不器用だ。まさかこんな秘密を暴露してまで僕たちを繋ぎ留めてくれるなんて……あはは、殿下は凄い、凄く面白い人だ!」
オーウェンが幸せいっぱいの顔で笑った。
「そうそう、まさか今までこんな常軌を逸した行動をしていたなんて……相手が殿下じゃなかったら殴り飛ばしてましたわね」
「えっ、えぇ……!? リネット、や、やっぱり怒ってるのか!?」
「もうそれについては許しました。まぁでも――怒るというより、ただただ不気味ですわよ。正直、この部屋のこれらを見た時は滅茶苦茶気持ち悪いと思いましたわ。殿下は変態であらせられたのですね」
「へ――変態!? 私って変態だったのか!? ほ、本当に!?」
「何を初めて知ったような顔をしてらっしゃるんですの? こんなことしてたぐらいですから変態どころかド変態ですわ。殿下のヘ・ン・タ・イ?」
「アアッ、な、なんか今の言われ方、逆に嬉しかったぞ――! そうか、私って変態だったのだな! 私は変態だ! やったぁ!!」
その言葉に、リネットが大いに笑った。
◆
華やかな結婚式を抜け出し――メレニス・パワー・ルックバックは、彼女と彼がいつもデートしていたベンチに腰掛け、足掛け一年に渡ってしまった長い長い失恋劇の余韻に浸っていた。
あーあ、と、メレニスは再び感じる敗北感と喪失感にため息を吐いた。
いくら彼らが幸せになってくれることが自分の幸せだとわかっていても、初恋ともいうべき恋に敗れた落胆まではやはり埋めようがない。事実、先程自分が流した涙は、曲がりなりにも見守ってきた二人が無事結ばれたことへの嬉しさだけのものではなかった。
恋に敗れ、また新たな恋をし、その中から正解とも言うべき縁を探し続けることが人の常なのだとしても、それはいつのことになるのだろう。
今まで女性に興味を抱かなかったせいで、自分にはまだ婚約者すらいない。何度か縁談はあったものの、自分が興味を持てないせいですべて断っていた。
私だってそろそろ二十歳になる。この王国の王位を継ぐものとして、良い伴侶を見つけ、円満な家庭を築かなければならないのだが、また自分が恋と呼べるものをし、この人だと決断できるのはいつのことになるのだろう。
そこまで考え――いや、とメレニスは首を振って、笑った。
今はそこまで考えても仕方がない。
きっと、きっと、私の人生にも、リネット以上に素敵な人が現れると信じるしかない。
自分もいつか、きっと出会える、そんな素敵な人に。
もう自分はあの頃の空虚な自分ではない。
私はやっと、自分が面白いと信じる、面白い男になれたのだから――。
フウ、とため息を吐いて、メレニスは違うことを考えることにした。
リネットに三億円もの口止め料を払ってしまった手前、今の自分の懐具合はカツカツだ。何しろ、お小遣いを三ヶ月分も使ってしまったのだから。
明日からはアワやヒエを食べる生活がしばらく続くなぁ……そんなことをぼんやりと考え、庭で何かをつついて食べている小鳥たちをぼんやりと眺めていた時だった。
不意に、キャアキャアという歓声が聞こえ、ん? とメレニスは顔を上げた。
まず目に入ったのは、燃えるような赤い髪と、それと相反するかのような、白を基調とした涼やかな軍服の装いであった。
まるでその美しさで蝶や蜂たちを魅了する艶やかな花のように周りに幾人もの令嬢・令息たちを侍らせている麗人の、その涼やかな横顔に見覚えがあった。
彼――否、彼女は確か、リディア・ウィスタリア皇女だ。
このルックバック王国をもその勢力圏内に治める強大な帝国・ウィスタリア帝国の第三皇女で、彼女はその家柄の高貴さ以上に、その見た目の麗しさを知られている人であった。
男性とも女性ともつかぬ中性的な見た目と口調――というより、男の勇猛さと、女性の艶やかさをも併せ持つ麗人は、その武人としての圧倒的な才覚をも広く知られていた。
女性でありながら軍人の世界で生きることを選んだ後は案の定、メキメキと頭角を表し、末にはウィスタリア帝国騎士団の騎士団長の席が用意されているとも噂されていた。
だが、その生活はお世辞にも騎士道精神に則したものとは言えず、その美貌と肉体の良さを鳴らし、取っ替え引っ替え相手を取り替えることを繰り返す素行の悪さも聞こえてきていた。しかもメレニスはこの時点では知らぬことなのだが、彼女は所謂両刀使いという奴である。
そう、それはメレニスが人生で初めて出会う、「完全上位互換の人間」――。
限りなく完璧に近いとされていた己をも遥かに凌ぐ圧倒的存在と運命的な邂逅を果たした、その瞬間であった。
思わず、見惚れ半分、呆れ半分でその一団を見ていると――その涼やかな切れ長の目と視線が合ってしまった。
おっ、という感じで薄く笑った麗人は、その表情に戸惑うこちらを意に介さぬよう、颯爽とした足取りで歩み寄ってきた。
「これはこれは……なんとも珍しいお方が一人でいらっしゃるものだな。君はメレニス――メレニス・パワー・ルックバック王太子殿下でよかったかな?」
初対面でありながらそう誰何するリディアの態度や言動には、それでも立場の圧倒的優位に対する自信と、それ相応の傲岸さが感じられた。
「え、えぇ……」と気後れしながら応じると、リディアが妖しげな笑みを深くした。
「ふーん、噂には聞いていたが、それなり以上にいい男じゃないか。気に入った」
「……は?」
気に入った。その言葉に思わず、かなり険悪な声が出た。
アンタは一体誰なんだ? いきなり現れてなんなんだ? の意思が込められたその言葉にも、リディアはケラケラと笑った。
「何だいその顔は。この学内にいる人間なら私のことは知っているだろう? こちらから名乗る必要はないと思うが。その私が、ただひと目見ただけの君のことを気に入ったと言っているんだぞ。もう少し喜んでくれてもいいと思うがね」
「……失礼ですが、リディア・ウィスタリア皇女殿下。この学内にいる限り、生徒は誰でも平等であり、地位や身分のことを口にするのは厳禁であったはずでは?」
「それは君たちのような人間の話さ。私のような存在ならば、その事を口にせずとも自ずからの威厳というものがあるだろう? そのような小さな事情には生まれてこの方縛られたことがないのでね――」
あっけらかんとそんな事を言い放ち、リディアは再び薄く笑った。
なんだ、コイツは? こんないけ好かない人間には生まれて初めて出会った――。
メレニスが無言で憤っていると、それが思った以上に表情に出ていたのか、おや、という感じでリディアが目を丸くした。
その表情にも、メレニスは動じない。いくら帝国と比較して小国であったとしても、こちらにだってこちらなりの意地や矜持、紡いできた歴史や文化がある。
その意思を込めた視線で睨みつけると、クス、とリディアが笑い、メレニスの顔をしげしげと覗き込んだ後――やおら、右手をメレニスの顎の下に挟んで上を向かせた。
どきっ、と心臓が跳ねた瞬間だった。まるで神が手ずから創り出した彫像であるかのような、少し空恐ろしいまでに端正な顔が間近に迫り、リディアの神秘的な色の瞳がメレニスの一切を飲み込んだ。
「な――!?」
「ふぅん。小国の跡取り風情が私に向かって随分挑戦的な顔をするじゃないか。――ますます気に入った。メレニス王太子、君を私の愛人にしてやろう」
「は、はぁ――!?」
メレニスが素っ頓狂な声を上げると、リディアが笑った――否、嗤った。
「なんだ、嬉しくないのかい? この大陸一円に覇を唱えるウィスタリア帝国の皇帝一族が、君のような人間を気に入ってやったと言っているんだぞ。――君、私のモノになれ。そうすればどんな権力も財力も思いのままにしてやろう」
そのあまりの傲慢さに、メレニスの中が一瞬、無に満たされる。
その表情をさも面白おかしいもののように眺めて、リディアはなおも言った。
「言ってはナンだが、私の持つ力は凄まじいぞ? その気になれば日月さえ逆に運行させるほどの力がウィスタリア帝国にはある。私のモノにさえなれば、君は小国の国王などというものではない、神にも等しい権勢を振るうことができるようになる。その代わり、明日から君は私のペットだ――どうだ、悪い話ではあるまい?」
ニヤ、と、リディアが悪魔のような表情で嗤う。
「なに、権力以外にも心配はいらないさ。その顔に相応しい、いい声で啼かせてやるとも。今まで味わった如何なる快楽をも圧する快感を繰り返し繰り返し君には与えてやろう。さぁ、この提案に一も二もなく賛成すれば――」
「ばっ、バカにするな! この手を離せッ!!」
メレニスは人生で初めて、心からの憤りで大声を発し、無遠慮に顎を掴んだリディアの手を鋭く払い除けた。
はっ? と、驚愕に目を見開いたリディアを燃える目で睨みつけながら、メレニスは肩で息をした。
「
鋭い、悲鳴のような絶叫が学園の空気を引き裂いた。
リディアの腕を鋭く払い除け、肩で息をし、激しい怒りの表情とともに睨みつける。
「いくら帝国の皇女だからといって、男の手を気易く取って手籠めにしようとするなど、はしたない行いとはお思いになりませんか! 恐れながら、いくら小国の王太子だからといって、初対面の私をそこまでみくびらないでください!」
メレニスはその体に怒気を充満させ、まるで噛みつくように怒鳴った。
その怒声に、学園の廊下をゆく生徒たちも何事かとこちらを振り返る。
あまりの剣幕に呆気にとられている風のリディアを燃える瞳で一瞥すると、メレニスはもうなにも言うことはなく、ぷい、という感じで踵を返した。
なんだ、一体何なのだ、あの女は。
女でありながらはしたなく男に触れ、それどころか手籠めにされろと囁くとは。
いくら大国の皇女であろうともやっていいことと悪いことがあるではないか。
まぁ――ただちょっと、顔がいいと思ってしまったのは悔しいが。
だからといって、あんな慮外千万で肉欲に溺れきったような女に、自分がなびくなんて考えられない。
ヤなやつ、ヤなやつ、ヤなやつ――!!
怒りとは裏腹に何故なのか高まりっぱなしの鼓動をうるさく思いながら、メレニスは唇を真一文字に引き結んだまま学園の裏庭を後にした。
◆
払い除けられたときの衝撃が、まだ手に残っていた。
その力の凄まじさ、いまだ痺れている手を思わず擦ると、背後にいた令嬢のひとりが憤ったような口を開いた。
「何よアレ、私たちのリディア皇女殿下が折角誘ってくださったっていうのに……!」
ひとりの、名前もよく覚えていない令嬢がそう言うと、彼の周りにまとわりついていた令息や令嬢たちが口々に彼女に恨みの言葉を吐いた。
「誰よあの生意気な男!? 普通喜ぶところよね!? だってリディア殿下に直接お声をかけてもらったんだもの!」
「あのウィスタリア帝国の皇女殿下のお誘いを無碍にするなんて……! 信じられない不敬だ!! 悪くすれば帝国と戦争だぞ!」
「これは立派な不敬行為だ! 皇女殿下のお誘いを断るだけでなく、
「リディア殿下、あの男に叩かれたお手は大丈夫ですか? 痛みますか?」
ふと――猫撫で声を発した取り巻き令嬢の一人が、心配するふりをして彼女の右手に触れようとした。
「いや――いいよ。怪我はしていない」
それをやんわりと制して、彼女は肩を怒らせて人混みの向こうに消えてゆく彼の姿を目で追った。
まだ痺れている右手を左手で擦りながらそれを見ていると――不意に、生まれて始めて感じる不可思議な感情が心の底にふつふつと湧いてきた。
「殿下――?」
取り巻きの令嬢の一人が、彼女の背を目で追ったままのリディアを見て、不思議そうな声を上げた。
それは、生まれて初めての感覚――。
言うなれば、今まで出会ったこともない、いないと信じていた神のその御姿を、この目で見たかのような感覚。
今まで色のなかった世界が、急に極彩色に色づき始め、圧倒的な輝きを放ち始めたかのような、それはとても不思議な感覚だった。
「まさか、この私に靡かない人間がこの世にいたなんて――」
ニヤ、と彼女の唇の端が、意思とは無関係に持ち上がった。
今すぐ大声で笑いたくなるような、そのくせ一人でこの邂逅をずっと噛み締めていたいような、相反する感情が渦巻いて止まらなくなる。
ウフフ……と低い声で笑い始めたリディアを、取り巻きの令息や令嬢連中が不思議そうな顔で見つめてくる。
こんな場所で笑い出すなんて、気が触れたかと心配されるだろうな……そう頭の片隅で他人事のように思いながら、リディアは舌先でゆっくりと、唇を舐めた。
「フッ、面白いオトコだ――」
そう、ここにまた、再びのドラマが始まる。
面白い女、面白い男――彼らを巡る恋のドラマは、今日もこの世界のどこかで繰り返されているのだった。
◆◆◆◆
ここまでお読み頂きありがとうございます
今作は個人的に、世の中に氾濫する「面白い女」というものを
突き詰めて考えてみた結果の産物であります。
「面白い女」ってなんやねん、そう感じるスーパーダーリンって何者やねん、
そう考えた時にこの物語が完成しておりました。
いかがでしたでしょうか。
ということで、
「面白そう」
「続きが気になる」
「フッ、面白い話だ」
そう思っていただけましたら下から★で評価願います。
何卒よろしくお願い致します。
【VS】
もしよろしければこちらもお読みください。連載中であります。
『グレイスさんはお飾りの妻 〜契約結婚した夫に「お飾りの妻でいてくれ」と言われたから死ぬほど着飾った結果、気がつけば溺愛されてた件〜』
https://kakuyomu.jp/works/16817330668204780237
『俺が暴漢から助けたロシアン美少女、どうやら俺の宿敵らしいです ~俺とエレーナさんの第二次日露戦争ラブコメ~』
「私は殿下に興味はありませんっ!」と言われてしまったスパダリ王子が「フッ、面白い女だ」と興味を示すけど、その令嬢に既に婚約者がいた場合はどうなるか、という話 佐々木鏡石@角川スニーカー文庫より発売中 @Kyouseki_Sasaki
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