CHU!

澳 加純

第1話

 日曜日の昼下がり。


 偶然乗り合わせた電車の中で――。





 ある家族連れに出会いました。これから街まで買い物に行くのでしょうか。お父さんとお母さん、小学1年生位のお兄ちゃんと3歳位の弟くん。


 近距離を結んで走る私鉄の車両は、座席が壁に沿って設置してあります。通勤ラッシュに対応しているのか座席数は多くありませんが、地方都市の電車ですから、その時間帯を外せば、余程のことが無い限りぎゅうぎゅうのすし詰め状態に遭遇するなんてことはありません。

 この時も車両は決して混んではいませんでした。ですから乗客は互いに程よい距離感を保ちながら、座席に座る者やつり革やポールに掴まって揺れをかわす者、それぞれのスタイルで目的地までの短い旅を楽しんでいました。住宅地を縫って走るこの路線は、そういった近隣住民の足なのです。


 家族もその中の一組に違いありません。

 おそらく最寄りの駅で乗り込み、調度空いていた席にそれぞれ座ったのでしょう。お父さんとお兄ちゃんは進行方向左側の席に、お母さんと弟くんは右側の席に座っていました。


 小さな男の子にとって、乗り物に乗るってことは、それだけでもう小さな冒険。弟くんは落ち着かない。キョロキョロソワソワ、目に入るもの触れるもの、すべてが新鮮なのでしょう。窓から景色を見たり、お父さんたちに話しかけたり。一時もジッとしてなどいられません。


 対して、お父さんとお兄ちゃんはスマホでゲーム。最近電車内でよく見かける光景です。座った途端バッグからスマホを取り出し検索やらゲームやらを始める人たち。立ったままでもやっていますか。耳にイアホン差しっぱなしの人もいますものね。あまり他人の事はとやかく言えませんけど。


 ゲームに夢中なお父さんたちは、弟くんの話に相槌を打つものの、目線は画面を離れません。漏れ聞こえる会話から察するに、アイテム獲得に躍起になっている様子。買い物の最中はプレイできませんから、今のうちに少しでもクリアしておきたいのでしょうね。お二方のお気持ちはお察しいたします。

 けれどもおざなりにされている弟くんは、そんなお二方の態度に不満を募らせていました。相手をしてくれない苦情を、お母さんに訴えに行きます。


 さて。向かいの席に座るお母さんは、電車の心地よい揺れに、いつの間にかうつらうつらとしていました。お疲れなのでしょう。小さな男の子ふたりの面倒を見ているのですから、止むを得ません。休めるときに少しでも休んでおかないと、男の子パワーには付いて行けませんもの。


 弟くんはお母さんの寝顔を眺め、仕方なくまたお父さんたちの元へと戻りました。幼いながらも、起こしちゃいけないと思ったのかな。けれどもやっぱりお母さんが気になるのか、しばらくは座席の間を行ったり来たり。


 こんなふうに。

 市街地を走る電車はゆりかごのように揺れながら、お母さんの束の間の休息を抱いたまま、目的地へと急いでいたのでした。





 午後の暖かい日差しの中、がたんごとんと電車は進みます。駅に止まる毎に繰り返される合図や、通り過ぎる踏切の鐘の音にも、小さな弟くんは飽きてきた様子。

 あと5分ほどで終点――おそらくこの家族にとっても降車駅だろう――に着くのですが、彼はそんなこと知らないようですし、それ以上に時間を持て余していました。

 誰も相手にしてくれないのですから。


 その時。

 弟くんは突然席を滑り降り、お母さんの側に駆け寄ると、頬に「CHU!」と。

 

 そして、また再び反対側のお父さんの隣りの席に座ったのです。


 一瞬の出来事。

 お母さんはまだ微睡まどろみの中。スマホに釘付けのお父さんもお兄ちゃんも気付かぬうちの仕業でした。



 弟くんがなにを想って、いきなりそんな素敵な行動に出たのかはわかりません。でもこのくらいの年齢の男の子にとって、お母さんって特別な、特別な存在。

 コックリコックリ首を振るお母さんが、突然とても大切な存在に思えたのでしょうか。静かな寝顔を守ってあげたいと思ったのでしょうか。


 席に戻った弟くんは、なにごともなかったように窓の外の景色を眺めています。


 いたずらっ子の小さな騎士くんから、世界で一番大好きなお母さんに素敵な秘密のプレセント――。





 やがて電車は終点に到着。

 お父さんとお兄ちゃんはスマホをバッグに仕舞い、お母さんも降りる支度を終えていました。それから家族は手をつなぎ、楽しそうに賑やかな日曜の街並みに紛れて行ったのです。

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