シーン32 [????]

 日本への渡航は一週間前の事前申請が必要だったが、ホアンさんに相談するとホアンさんはノープロブレムと言って、どこかに電話をかけていた。空港での出発カウンターに行くと、チケットの他に何枚か紙を渡され、それを見せることで問題なくゲートを通過することができた。空港で手伝ってくれた職員を紹介しながら、ホアンさんはこう言った。

「ヒー イズ マイ フレンド」

 その、ジャパニーズイングリッシュの発音が面白くてぼくは笑ってしまった。なるほど。顔が広いんだなと。

 飛行機の中、隣の席でぐっすり眠るホアンさん。大柄なので、ぼくの席がやや狭い。やや得体が知れないところがあるが、頼りになるのは確かだ。Y先生のところで、もし腕っぷしが必要になった時などには頼りになりそうだ。ぼくもアイマスクをつけて少しだけ休んだ。

 久しぶりに降り立った祖国の地は、一見すると何も変わっていないように見えた。空港から都会へと向かう電車の本数は少なかった。本数電車の窓から、田園と里山が流れていく景色を見る。打ち捨てられた家を見ると、高齢化のせいで去ったのか、除染できないから去ったのか、そこにあったストーリーを想像してしまう。廃墟には人の想像力を誘引する何かがある。広大な世界の中で、点在する廃墟を巡って冒険するゲームがあった。まだぼくが幼くてうまく遊べなかった頃のゲームだ。父さんが操作するのを隣で見ていた。小さい頃は見ているだけで一緒に冒険している気持ちになった。父さんはどうでもいい廃墟に足を止め、朽ちた部屋を見ながら「ここは多分宿屋だったんだね」とか言って写真を撮ってたっけ。ぼくは強い武器を手に入れたり、物語が進むことをやって欲しくてやきもきしてた。それでやきもきするのが、なんだか現実の旅行の時と同じみたいだと一緒に笑ったっけ。

 そんなことを考えていると、電車は市街地に入り、家や商店が増えてきた。国営団地が桁違いに増えたとは言っても、それは既存のアパートの政府買い上げなども含まれるし、それまで通り自分の家に住む人もいるので、町の様子には十年前と大きな変化は見られない。内部被曝を避けるため、皆がマスクをしていることと、外国人がほぼいないこと、たくさんある飲食店の中で、中華料理店に閉店が目立つことには気づいた。

 日本脱出のツテがある人たちは去ったのだろう。

 切符を買う時、路線図に昔住んだことのある駅名を見つけて懐かしさに胸が苦しくなる。そうか、その駅にホテルを取ってもよかったな。街を歩くだけでも楽しかったろう。懐かしさと寂しさで泣いてしまうだろうか。

 ホテルのある駅で電車を降りて、改札を出て蕎麦屋で昼食を食べた。

 こういう、安くてシンプルな蕎麦は外国ではなかなか食べられない。ぼくはわかめ蕎麦、ホアンさんは冷やしたぬきを頼んだ。こんな寒い季節に冷やしたぬき? と思ったが、あとで聞くと、南半球から来たので季節を間違えたらしい。

 え? そんな間違い方する? 外気温で判断するんじゃないの? と空元気を出しながら、なんとか食べ終えた。

 Y先生との面会は明日だ。

 ぼくは時差ボケを直すためにホテルで寝ることにした。ホアンさんはどこか行くところがあるらしい。久しぶりの日本だし、会いたい人も多いのかも知れない。

 ぼくも誰かに会おうかなと思ったが、父さんの小説の件が終わるまでは落ち着かないのでやめておいた。それに……こどものいる友人などは日本を脱出できているぼくと日本で会うと、嫌な気持ちになるかも知れない。

 結局昼寝のあとも一人で過ごすことに決め、夕方は散歩をして過ごした。あの事件から一時期は治安が悪化したと聞いたが、今ではもう治安はよくなったらしい。それこそ一人で歩いても身の危険を感じないほどに。カナダと違って凍死もしないし。

 住んだことのない街だが、それでもどこか懐かしい風景がゆっくりと闇に染まっていくのを見ながら歩く。お弁当屋、スーパーマーケット、ガラス張りのコンビニ……日本の生活の中で触れてきた様々なものが、懐かしくて寂しい。足が疲れるまでずっと歩いててもいいなとぼくは思う。

 塾から出てきて家に帰る小学生達が、交差点で「また明日な!」なんて言って友だちと別れる。別れたあとは走りだす。ぼくもこどもの頃は、暇な一本道はよく走った。

 彼らに幸あれ、と思ったところで、ぼくにそんなことを言う資格があるのかつい考えてしまって気が沈む。

 明日になれば何かわかるだろうか。

 日も落ち、何か食べようとお店に入った。

 席に着くとすぐ水が運ばれてくる。タブレットでメニューを選ぶと、カート型のロボットがメニューを運んできた。料理を受け取るとメッセージを表示する画面に笑顔の猫のキャラクターが表示され「美味しく召し上がれますように」と音声が流れる。

 今の日本では人手不足をこのような機械化で補っているようだ。目新しい経験に面食らっていても、周囲からの視線が気になることはなかった。

 みな自身に関わりのないことには関心がないのだ。改めて日本に来たなと思う。ぼくも日本を出るまでは、この安全が保障された無関心の空気に慣れきっていた。懐かしいなと思う。

 この無関心が心地よく、それと同時に複雑な感情……苛立ちのようなものをぼくにもたらす。

 コンビニでも今入ったファミレスでも、品数は減り、国の平均給与から比較すれば値段もあがっている。山崎の事件のせいで貿易に制限がかかったこと、経済的に衰退したことも大きい。それでもこの国ではデモも暴動も起きず、表面的な平和は続いていた。怒ったってしょうがないもんねとぼくも思う。でも……。

 山崎の事件以降、世界の人々が日本人を見る目は明らかに変わってしまった。日本人に対する差別感情は、放射線による被害や心理的な負担にのせいも、もちろんある。

 放射線への対策は面倒で手間がかかる。

 放射線対策で面倒な作業が増えるたび「あいつらのせいで、なんで俺たちが苦労しなければならないんだ」という感情が湧き出てくるのが抑えきれないのだろう。


 しかし、ある程度分別のある知的な人たちの間でそれ以上に深刻なのは、別のことについての怒りだ。

 どうしてあれほど危険で経済合理性もない六ヶ所村の再処理工場の稼働を許したのか?

 多くの海外の学者、ジャーナリスト、知識人はそれを知りたがった。

 工場に関する報道がなかったのでは? 

 ──いいえ、ありました。

 工場の内容に関する説明が難しく理解し難かったのでは?

 ──いいえ、工場を運営する会社による丁寧なウェブサイトがありました。

 地域住民の反対活動を邪魔する利権団体などがあったのでは?

 ──いいえ、地域住民は工場の稼働に賛成でした。

 様々な聞き取りが日本中で行われ、海外の人々はこう結論づけた。

「あの工場がまともな警備もつけず運営されていたのは、ほとんどの国民が関心を払わなかったからである」と。

 山崎の事件については誰も責任を取らなかった。工場の運営を決めた政権も倒れず、派閥の内外でのわずかな調整が行われ、それで終わった。そこを批判するジャーナリストも居たが、今は非常時だという世論に押され、大きな影響を与えることはなかった。非常事態宣言は今も解除されないまま、人々は振り返りをすることなく日常に回帰した。ほかの国では放棄せざるを得ないような放射線量の土地に、身を寄せあうように暮らしている。何もなかったような顔をして。

 時折海外のジャーナリストが工場に関わった政治家が今も政権に残っている記事を書くが「悪いのはテロであって、テロによって何かを変える先例を作ってはいけない」と、世論が盛り上がることはない。平和的なデモや集会があっても、ネットではそれを馬鹿にする声の方が多数だ。それを諌める人はほとんどいない。

 この政治的無関心さは、半径5メートルの視野と言う言い方でよく議題にあがる。日本人はこの半径5メートルの視野しか持たないのだと。

 それを許せない人たちがいる。

 海外での生活が長くなったぼくには、日本人を責める言い分も理解できてしまう。

 ここ5年ほど、元日本人であるというだけで責任ある仕事を任せてもらえないという悩みは日本語の掲示板でよく見かけることができる。そしてそれに英語で口汚いレスポンスが付く。それに対して英語ではなく日本語で書き込めとさらに返信が付き、その掲示板のスレッドはカオスへと向かう。不毛な、誰も幸せにしないやりとり。

 ぼく自身、半径5メートルの視野以外を獲得できている自信もない。カナダでの永住権はあるが、選挙権もないし。

 ただ、周囲から「あいつは半径5メートルの視野しかないぞ」と言われないよう、気を張って先を見通して行動するようにはしてる。でも、疲れる。なんで年下のぼくがまとめ役をやらなきゃいけないんだ、と思うこともある。

 その夜は誰にも気にされず、透明になったように過ごせた。心地よかったのは本当。だけど、と……心の中で留保をつけておく。つけたから何がどうなるというわけではないけれど。

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