シーン31 [????]

 泣き腫らした目が熱い。

 ホアンさんは部屋に戻ってくる時に水で濡らしたタオルを持ってきてくれた。

「雀荘界隈で言うところのつめしぼです」

とわけのわからないことを言っていたが、きっと笑わせようとしてくれているのだろう。

「調査、ありがとうございました」

「あ、いえ、それほどのことでもありません」

 ぼくの言葉に、ホアンさんが答える。

 部屋は静かになり、ホアンさんがパソコンを操作する音だけが聞こえる。

 ああ、これで調査も終わりだ。ぼくは父さんをどう思えばいいんだろう。これからカナダの家でずっと一人で過ごすのか、日本に戻るのか、この旅行が終わるまでには答えが見つかるだろうか。

「……さん、????さん!」

 ホアンさんがぼくの目の前で手を振る。何か言っていたようだが全く聞いていなかった。

 ホアンさんは言う。

「まだ調査は終わっていません。むしろ重要なのはここからです。我那覇さんの書いた小説の通りにテロが起きた。テロの実行犯は我那覇さんの小説を購入していた。わかっているのはまだそこまでです。まだ調べるべきことはあります。気を確かに持ってください」

 まだ調べる? 何のために?

 ぼくはぽかんとしてホアンさんの言葉を聞いた。

「たとえば……現実に起きたことと、小説の相違点を確認しましょう。新しく何かがわかるかも知れません」

 そう……なのか?

 ぼくはあまり頭が働かない。眠い。眠ってしまいたい。

「父さんの小説では……主人公の我那覇キヨは、『ファントム・オーダー』を盗用して出版しベストセラー作家になりますが、ぼくの父はまったく無名のアマチュア作家で、破滅派の季刊誌に『我那覇キヨが『ファントム・オーダー』を盗用する話』を書いていました。だから実際にはY先生を巡る捜索劇を編集者と繰り広げたこともないと思います。……こういうことを確認していくんですか?」

「そうです」

 こんなことで何か新しいことがわかるのだろうかと思ったが、そのことで言い争う気力も湧かなかった。

「この、Y先生が山崎だったんでしょうか。イニシャルYですし」

「俺もさっきまでそう思っていたんですが、よく考えると年齢が全然違いますね。山崎は我那覇さんより20歳下です。先生と呼ぶには無理がある」

 ホアンさんが山崎についてネットで調べながら答える。

「あ、山崎は早稲田出てるんだ。公立高校から早稲田はかなり頑張ったと思います。あ、でも一浪か。まぁそのくらいしますよね。あれ、この高校そんなに偏差値高くないな。……これは相当無理して勉強してますよ」

 山崎の母校の平均偏差値の推移がまとめられたサイトをぼくに見せながらホアンは語る。

 確かに、この偏差値から早稲田は快挙と言ってよいだろう。

「どこかの塾に通っていたんですかね」

 ぼくがありきたりな感想を言うと、ホアンさんは父さんの小説のページをめくりながら口を開いた。

「……我那覇さんの小説では、確かY先生が家庭教師みたいなことやってましたね。やっぱりY先生が気になるな。……お父さんって大学はK大学でしたっけ?」

「そうです」

「K大学のシラバスは……よし! 公開されてる。当時の倫理学、論理学、哲学の教官を調べます。どの授業にも重複しているイニシャルがYの教官がいるかも知れないし」

 それがY先生? 可能性は高い。父さんは実話から物語を膨らませるタイプだったし……

「倫理学が、矢嶋、八尾、Yが二人。論理学は飯村、矢嶋、八尾、Yが二人です。哲学が戸田、藤浪、丸山、八尾、Yが一人です。だからこの八尾隆という人物がY先生の可能性が高いです。念のため矢嶋の方もフルネーム控えておきます。矢嶋寛人と。さて、名前さえわかれば、あとは日本に住んでさえいれば……」

 そう。日本は特殊なのだ。

 山崎の起こしたテロにより住居を失った人々が大量に発生した。それを契機に、日本では国営住宅の数が急増していた。地方の過疎化、継続的な除染、さらには超高齢者社会という課題を一気に解決するため、日本国民は居住の自由を早々に放棄した。要するに、効率的な介護福祉を実現するため、歳を取ったら国営の住宅に住むという政策に、多くの国民が賛同したのだ。日本モデルとも言われるこの仕組みは、最近では放射線量の高い国でも除染とセットで検討されることの多いものだった。

 大型の団地と除染しやすいように緩い傾斜のついた歩道、スケールメリットを活かした共有施設に、介護用スタッフの常駐。国営大規模老人ホームと揶揄する声もあったが、合理性は確かなものだった。合理性の反面、住居の場所に関しては、当人のそこに住みたいという意志よりも必要とされる介護の程度が優先されてしまう。老化や病気の進行で住む場所が変わってしまうのだ。例えるなら、とてつもなく大きな病院で、患者の病室が病状に合わせて変化するようなものを思い浮かべてもらえば、それで良いかも知れない。

 人を訪ねる時や郵便で不便が起きないように、介護に繋がっている人は政府のネットワークで探し出すことができるようになっている。父さんの遺品がぼくのところに送られてきたのも、このネットワークの副次的な恩恵によるものだ。

 Y先生は父さんより年上だが、存命ならばこのネットワークで探し出せる可能性は高い。

 ホアンさんは日本政府のサイトにアクセスすると問い合わせを送った。該当者あり、関東地方在住、との回答が出た。面会申請をここで行えば、当人の許可を得た上で、日程の調整も可能となる。

「どうやらY先生はご存命のようですね。本人が登録している来歴にも、K大学の教員とありますから、同姓同名の別人ではない。この、八尾隆さんがY先生と見て良いでしょう」

 なるほど。作品の中でY先生のモデルにした人物が八尾隆。

 続いてホアンさんはノートパソコンを操作する。

「確か、イギリスのジャーナリストのレポートで、甲状腺がん患者のケアを行うボランティア団体の名前が……あった。多分この団体か。名簿は……流石に代表者くらいしか公開してないか……仕方ない電話で問い合わせましょう」

 八尾隆がこのボランティア団体に参加していた事実があるかを尋ねるのだろう。八尾隆がこの団体に関わっていた場合、父さんの小説の意味が変わってくる可能性がある。

「つまり、ホアンさんは、Y先生のテロ計画は本当で、それを止めるために父さんは物語を書いたのだと、そう言いたいんですね?」

「その可能性がまだ残っているなと思っています。我那覇さんの作品に書かれていた通りです。作中では我那覇キヨはベストセラー小説家でしたからテロの計画が広く知られ、テロを食い止めることができた。実際にはアマチュア作家だったため、多くの方に読まれることはなく、社会への警鐘は失敗した。そんな可能性は残ってるなと」

 ボランティア団体への問い合わせ内容のメモを書きながら、ホアンさんは答えた。

「……ありがとうございます」

 淡々と作業をするホアンさんに、ぼくは礼を言う。まだ少しだけ希望は残されているのだ。ぼくだけだったらもう諦めてしまっていた。

「お礼を言われるほどのことではないです。これは破滅派の名誉にも関わる問題ですし、それに……」

 ホアンさんが口ごもる。

 手を止めてぼくの目をまっすぐに見る。

「それに何ですか?」

 沈黙に耐えきれずぼくが聞く。

 ホアンさんはしばらく黙ったあとでこう言った。

「それに、もしこのY先生、八尾隆が山崎を操ってあの事件を起こさせていたのだとしたら、野放しにしている方が危険です。最悪の場合、次があるかもしれませんから」

 ホアンさんは不吉な予言を口にした。

「休暇はいつまでです?」

 電話をかける前、ホアンさんは唐突に尋ねた。

「あと一週間です。次の月曜まで休みです。初めて長い休暇を取ったので思いっきり休むことにしました」

 ホアンさんはスマホでカレンダーを開き指を折りながら数えている。画面から目を離し、ぼくに向き直るとこう言った。

「この調査は多分日本に行くことになります。そこでY先生と対面することになるでしょう。戻りの飛行機を考えると、休暇を全部使うか、延長もあり得ると思います。それで構いませんね?」

 ぼくは驚いた。

「え? 日本へ渡航できるんですか?」

「ブラジルは今も日本との国交ありますよ。南米の国はアンデス山脈が放射性物質の流入を堰き止めたおかげで、日本人への国民感情もさほど悪化していません。日本への渡航にもビザは不要です」

「でも、ぼくはカナダ国籍だし……」

「ノープロブレムです。カナダパスポートも日本へは渡航できます。定期便がないだけで」

「ホントに?」

「飛行機の日時だけ調べておいてください。俺はこれから電話をかけますから」

 ホアンさんがボランティア団体に電話をかける。取材慣れしている様子で落ち着いて話をしている。

 ぼくはサンパウロから日本行きの飛行機の日時を確認する。

 それにしても、と思う。

 まさか、ぼくたちもY先生を探すことになるとは思いもしなかった。まるで父さんの書いた物語みたいだ。少しだけ可笑しいなと笑ったあとで、父さんの書いた物語が今のこの状況に繋がっていることを思い出して、気持ちがずしんと沈んだ。

 でもここまで来たら進むしかない。

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