第16話



    7



 その大会のことは阿弥田から伝えられた。


 その日の練習終わり、キャンパス内のトレーニングルームでデッドリフト八十キロ二十回×五セット、レッグカール五十キロ十回×五セット、レッグエクステンション九十キロ×十五回五セット、カーフレイズ四十キロ二十回×五セットを終えた僕は、皆より一足早くシャワーを浴び、グラウンド脇の部室棟に向かっていた。

上気した筋肉を夜風で冷やしながら、部室に向かうと、そこに阿弥田がいた。スプリングの飛び出た一人掛けカウチに座った阿弥田は、なにやらテーブルに向かいノートパソコンを操作している。


「明君。君も大分練習に慣れてきたようだし、そろそろ実際の大会を見なくちゃならないと思わないか?」


 そう言うと、阿弥田はローテーブルの上で開いていたノートPCの画面を僕に向ける。


 僕はその画面を見つめた。そこには競歩の大会の特設ページが表示されていた。ユニフォーム姿で逞しい脚部を剝き出しにして、山を登っていく男女の写真が掲載されている。


 阿弥田はそのページを送りながら僕に説明する。


「今度僕たちが出場するこの大会は男女混合四十キロリレーで行われる。コースは東大阪の花園記念公園から生駒山地を通り、奈良の平城京離宮公園に至るルートだ。学生連盟主催の大会じゃないから、大学に在学していない明君でもエントリーできる。もっとも、今回は僕たち競歩部から選抜した四人のメンバーが走ることになるから、当日はサポートに回ってもらうことになるけどね」


 胸が高鳴るのを感じた。サポートとはいえ、セグウェイに縛り付けられていた僕が、ついに競歩の大会に関わるのだ。だが同時に疑問も生じる。


「競歩は同じコースをぐるぐる回って競うんじゃないんですか?」


「鋭い質問だね。確かに従来は競歩といえば一周二キロ程度のルートをぐるぐる回って競う競技だった。理由はわかるかい?」


「歩形違反をチェックする必要があるからです」


 両足が同時に地面から離れる『ロスオブコンタクト』、前に踏み出した脚の膝を曲げてしまう『ベントニー』、この二つの反則をいかに犯さず歩くかが競歩の肝だ。審判もその二つの反則が行われていないかを細かくチェックする必要があるため、同じ場所に立って選手の歩形を継続的にチェックする必要がある。だからこれまで競歩は必然的に同じコースをぐるぐる回って競わざるを得なかったのだ。


「だが走行能力強化装置の登場によってその状況は変わった」阿弥田は言う。「装置の登場により、審判が選手の先回りをすることが格段に容易になった。五百メートルごとに配置された十人の審判が、それぞれ二人一組となって、選手のシューズの紐につけられたRSタグと二・五キロごとに配置されたアンテナマットから得られる情報を端末で共有することで、継続して選手の先回りをし、歩形違反をチェックするシステムができたんだ……まあ詳しいことは実際見ながら学ぶといい。要するに走行能力強化装置のおかげでコースを長く引き伸ばしても正確に歩形をジャッジできるような仕組みが生まれたんだよ」


 そんな競技の変化について、僕はとても望ましいものに思えた。同じところをぐるぐる回るより、どこか遠くに向かって歩く方がずっと楽しそうだ。




 それから数週間後、

「へー、君の話を聞いてると、研究所の人間も全くの冷血漢ってわけじゃないみたいだな」


 天然パーマの二年生山辺が助手席で難しい顔をした。このあいだのヘルパーさんとのやりとりの話を皆にしたからだ。


「そうですか? 一方的によくわからない誓約書に署名させられたり、何の薬かわからない錠剤を大量に飲まされたり、俺には全然気持ち悪いですよ」

そう吐き捨てたのは長身の一年生横田だった。ヘルパーさんが僕の脳波を測ったり、大量の薬を飲ませる話も、聞かれるがままに僕は車内で話していた。

 

 僕たちを乗せた儀保の車は第二京阪道路の高架下にある一般道を時速七十キロで走行していた。巨大な高速道路の下を走る道路は左右を湾曲した遮音壁に囲まれ、さらにその遮音壁が全面ピンク色のクッションで覆われている。その景色はまるで巨大な生物の腸の中にいるようだった。


「少なくともそのヘルパーは良心的な人物だと僕は感じるね。儀保さんの言ってたネジの例もあるし。そうですよね儀保さん」


「まあ、何事も一面だけで判断するのは良くないと思うけどな」


 運転席で儀保が言う。儀保はすっかり競歩部の運転手として使われているらしい。




 そうして僕たちはスタート地点の花園記念公園に移動した。


 広場に社会人や大学のチームがずらりと並んでいた。総勢三十三名の第一歩者がスタートラインに並び、いよいよレースがスタートするところだ。


 公立大学の第一歩者は一年生女子坂倉だった。パァン、と空へピストルが鳴らされる。その瞬間、選手たちは肩をひしめかせ公園を出発していった。


 坂倉が、先頭集団とともに角を曲がり、視界から消えるのを見届けると、僕たちはすぐ駐車場に戻り、儀保の車に乗り込んだ。ゆっくり観戦していられるわけではない。区間をゴールした坂倉に走行能力強化装置や水などを渡すため、サポートメンバーは第二歩者のもとへ先回りをする必要があるのだった。




 だがその数十分後、坂倉のゴール地点へと急ぐ車内では山辺が深刻な顔で溜息をついていた。レースの経過が思わしくなかったからだ。


「現在三十人中十五位。順位は上々だけど、既に歩形違反が二つだ。やっぱり少し気負ってるのかな」


 心配そうに曇っていく山辺の表情とともに車内の空気も重くなっていく。歩形違反が累計で三つ溜まると、そのチームには四分間のペナルティタイムが与えられる。何もできずに、沿道に設置されたペナルティスペースでほかの選手が自分を追い越していく光景を四分間見せつけられ続けるのだ。それは実質上優勝争いからの当落を意味していた。


 僕らの車は第三阪奈道路に入り、まさに生駒山地を超えようとしていた。道は繰り返し蛇行しながら高度を上げていく。ピンク色のフェンスの間に空いた眺望用の穴から、煙ったような大阪の街並みが見えていた。


「カーブの角度が鋭くて自動車での走行は向いてない。走行能力強化装置が普及してから作られた道路だからな。水飲んどけよ。酔われると面倒だ」


 儀保が優しいのか冷たいのかわからない忠告をする。

 そのうち車内の話題は、この第三阪奈道路での事故の話になっていった。


 聞くと、この第三阪奈道路でかつて大規模なバスの横転事故があったのだという。老人と身障者向けのフィットネスジムの送迎バスが、下りの道で横転した。悪いことにその頃は、自衛隊による野犬の掃討作戦の影響で、大量の野犬達が生駒山地に逃げ込んでいたのだった。乗客を守ろうとした引率のインストラクターが腹を空かせた野犬達の犠牲になった。救助隊が駆け付けたころには、血の匂いに群がった野犬に全身をズタズタに噛み千切られたあとだったそうだ。


 気の毒なことだ。


 その後、僕たちは国道三〇八号線沿いにある近畿大学農学部に到着した。周囲を自然公園に囲まれた広いキャンパスが特徴で、言い換えれば周りは山ばかりだった。

バス停と直結した正門を通り過ぎて、ぐるりと裏に回ると、横を山に接するグラウンドに出る。グラウンドでは、第二歩者達が仲間からのタスキを緊張の面持ちで待ちわびていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

爆発の街 マイタケ @maitake_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ