第15話



    6



 阿弥田と儀保が帰ると、急に現実に引き戻された。太郎を小屋に繋ぎ、家の門の戸締りをする。玄関を上がろうとして、セグウェイを門の前に置き忘れているのに気付いた。それでふと次の木曜日のことに思い至り、僕は憂鬱に襲われた。無断でセグウェイを外したことをヘルパーさんに怒られるに違いない。


 そう思った直後、門に設置されたインターホンが鳴った。自分の予測の甘さを思い知る。わざわざ木曜日まで待ってくれるわけがないのだ。


 門を開けると、案の定そこには走行能力強化装置をつけたヘルパーさんが立っている。僕はヘルパーさんの背がこんなに高いことを初めて知った。


「いずれ君のセグウェイは外される予定だった。その予定が前倒しになっただけだ」


 だが、風呂場で僕の足を洗うヘルパーさんは、いたって淡白に僕へそう告げただけだった。ネジというネジを強引に外されたセグウェイの残骸を手際よくリュックサックに詰め込み、泥だらけになった僕の足を丁寧にシャワーで洗い流す。


 内心意外だった。こんなにあっさりと許されていいものだろうか。


「かといってこれから君が自覚もなしに好き勝手行動していいわけじゃない」


 当惑をよそに話は進められていく。


 ヘルパーさんはリュックサックから誓約書のような書類を取り出し、そこに書いてある内容を読み上げていった。その内容は法律用語だらけでものすごく僕を昏迷させ、仕方ないので途中から聞くのを諦める。


 そのあと僕は渡されたボールペンで書類の空白の箇所に署名、ヘルパーさんはそれをファイルに入れると、薄い黒のケースに入れて施錠した。


「僕はセグウェイなしで生活していいんですか?」


 ヘルパーさんが帰り支度を始めるので、慌てて僕は確認する。


「そうだ。これからずっと続くかは君次第だが」


「競歩部に入っていいんですか? 競歩をしてもいいんですか?」


「君が望むなら可能だ」


 そう言うとヘルパーさんは何やら鞄の中を探り始めた。訝しんで見ていると、ヘルパーさんはカバンから一冊の新書を取り出してきた。


「慣れ親しんできたセグウェイの車輪から解放されて、自分の脚だけで進む生活が今日から始まる。どちらに進むべきか迷ったときには読んでみるといい。迷ったとき、何かを成し遂げた人の言葉は勇気をくれる」


 そして僕にその新書が差し出された。僕は手に取ってタイトルを読んだ。


『陳湖大自伝 天への階段』


 その自伝は相当読み込まれたらしく、ページがところどころ擦り切れていた。


 思わず唖然とする。いったいなぜこれを僕に?


 表紙から目を上げるとそこにヘルパーさんはもういない。走行能力強化装置の駆動音とともに僕の家の庭から走り去っていったのだ。


 僕は『陳湖大自伝 天への階段』のページをパラパラとめくった。その手が六十四ページで自然に止まる。紙の右上に折り目がつけてあった。そのページにはゴシック体の太字で「真に偉大なことは達成することではない。挑戦することだ」というの陳の名言が書かれてあった。


 それを見て急に可笑しくなった。これが彼なりのエールだと理解したからだ。さっき急いでここからいなくなったのも、きっと自分の行動が気恥ずかしくなったのに違いない。


 僕はその日のうちに『陳湖大自伝 天への階段』に目を通した。そこには中国生まれの陳がヨーロッパのサッカー界でなり上がっていく過程と、時点時点における彼の思考が力強い言葉で綴られている。全部読み終わったあと僕は、六十四ページの折り目を丁寧に指で撫でつけ、部屋の本棚にその本をそっとしまっておいた。




 その翌日、太郎の散歩から家に帰ってくると、僕の寝室でヘルパーさんが機械を組み立てていた。それはキャスター付きの台の上にノートパソコンを載せたような機械で、ディスプレイの後ろから二本の可動式アームが伸びていた。一つのアームには赤外線カメラが、もう一つのアームにはテレビのリモコンに似た計器がついており、その計器にはカラフルな無数の電極差し込み口がついている。見たところかたわらに置かれているヘッドギアのような機械とそれらの電極を接続して使うらしかった。


「ここに座って見ているといい」


 指示通りベッドの縁に座ると、ガラスのコップに入った水と二錠の錠剤を渡された。飲めということだろう。僕は錠剤を水で流し込みながら、ヘルパーさんの手際よい作業を眺めた。キャスターや台などのパーツは細かく分割され、組み立て式になっていて、一人でここまで運んでこられるよう工夫されていた。


「近頃は何でも組み立て式だ。走行能力強化装置で一度に運べる量には限界があるからね。装置の普及は、本当に持ち運ぶべきものなんてごくわずかだということに人々が気づくきっかけをもたらしてくれた」


「これは何の機械ですか?」


「脳波計だ。君の脳から発せられる微弱な電流をアンプで増幅して計測する。君はヘッドギアをつけてベッドに横たわっていればいい。ヘッドギアから伸びる無数のケーブルがこのアンプに電気信号を伝えてくれる」


「なぜそんなことを?」


「生まれてからずっとセグウェイの上に乗っていた君が、今人生で初めて自分の脚で歩いて生活している。君の脳波に、ひいては君の超能力に、今まで見られなかった傾向が表れないとも限らない。定期的に君の脳波の記録を取っておくことは、人々の安全や君の健康のために必要だ。これからは週に一回木曜日の夕方、今までセグウェイを交換していた時間に君の脳波を計測しに来る」


 というヘルパーさんの声を聞いているうちにいつの間にか僕の頭は朦朧としてきている。言葉が別世界から聞こえてくるように遠くなり、口の奥に甘い感覚が広がって、瞼が自然に下りてきてしまう。


「よかった。これからもまた木曜日に会えるんですね」


 薄れていく意識の中、そう言って微笑んだことを覚えている。ヘルパーさんは一瞬面食らったような顔をしたが、そのあと、僕に優しい笑顔を見せてくれた。


そうだよ、おやすみ。

僕はベッドに横になって目を閉じた。




 鮭のムニエル二つに、じゃがいものガレット、ペッパーとチーズのグリーンサラダ、南瓜のポタージュ、薄い皿に盛られたライスが、目を覚ました僕のベッド脇の机に並べられていた。


「僕は何時間寝ていたんですか?」


「四時間だ」


 ヘルパーさんがテーブルに置かれたグラスのコップを僕に差し出す。一気に飲み干すと生き返るような気がした。喉も相当渇いていたのだ。


 鮭のビタミンDによって吸収効率を高められるカルシウムを多く含有するチーズがたっぷりかかった食物繊維豊富なレタスやリーフを口に運び、アスタキサンチンを多く含む鮭のムニエルや、澱粉に守られたビタミンCを多く含むじゃがいものガレットをよく嚙み砕いていく。ヘルパーさんの説明を聞いたあとに食べると、より食物の栄養素と自分の身体について自覚的にさせられた。


「アスリートには食事も重要だ。君の競歩に取り組む意思については上に伝えてある。許可も下りた」


 ご飯を食べ終えた後、白くて小さな錠剤五粒、黄色くて光沢のある錠剤三粒、緑色の濃淡がある錠剤を二粒、赤と白のカプセル剤を一粒、数回に分けて水で飲んだ。飲み終わると、ヘルパーさんの言う通り、徐々に体力が回復してくる実感がある。


「公立大学の儀保さんから聞きました。僕のセグウェイのネジ、どれも限界までは締められていなかった。少し余裕があったって。僕の足が痛まないように、調節してくれていたんですね」


 僕がそう言うと、ヘルパーさんは少し微笑んだ。


「言っただろ、俺はいつも最大限君のことを思って行動している」




 僕が初めて競歩の大会に参加したのは、それから一か月ほど経ったあとだった。

 

 そしてそれは、後から思うと、僕に挫折と多くの混乱を経験させ、太郎を底知れない巨大な勢力のもとに晒す始めのきっかけになったのだった。

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