終章 祭りのあと 〜第二節〜
「まあまあ、そう怒らないでよ、リリさん。クロコリアスくんならきっと近いうちに戻ってくるから」
「は? テキトーなこといわないでよ。こっちは三人もやられたんだよ? そのうちのひとりはウチの店ではたらいてた子なんだ」
肩越しに店の裏口を一瞥し、シェルバイトは静かに怒気を吐き出した。
「……数日だったら出勤してこなくてもどうにかごまかせるだろうけど、それ以上は――てか、わたしだって例の小僧にがっつり顔を見られてる。場合によったら転職や引っ越しも考えなきゃならないってのに、そんな大事な時に、あの男は……!」
「そこはまあ……うん、若い子の考えることはよく判らないからね。ある日ふいっと突然行方をくらませるようなこともあるよ」
「…………」
これでやられた三人の死体でもでてくれば大騒ぎになるのは間違いないが、その可能性はかなり低いだろう。シェルバイトたちが倒したリターナーの死体が発見されて騒ぎになったことは何度かあったものの、その逆はほとんどない。
「おそらく彼らは、倒したエローダーたちの死体を回収するか、あるいは人知れず処分しているんだと思う。ぼくの伝手でクロコリアスくんに貸した仲間もふたり行方不明になってるけど、彼らの変死体が見つかったなんてニュースはまだないからね」
死んだ仲間のことはもう忘れろといわんばかりのマスターの言葉に、シェルバイトはまた怒りを覚えたが、現実的にはそうするのが最善策だということも判っていた。倒された三人がこの世界でどんな人間を演じていたのかは知らないが、もはやシェルバイトたちには何もしてやれることはない。
マスターはいかにもオヤジ臭いセカンドバッグの中から厚みのある封筒を取り出し、シェルバイトに押しつけた。
「とりあえずこれ使って」
「は?」
「お見舞金みたいなものかな? 引っ越しとか転職とかするなら何かと入り用でしょ?」
封筒の中身の札束を確認し、シェルバイトは首を傾げた。
「……客が来ないバーってこんなに稼げるもんなの?」
「いやぁ、それはたまたまね、運がよかったっていうか、私の死んだ両親が地方の土地持ちでね、その遺産が銀行にまだたくさん残ってるんだよ。だからバーの経営だって、実は道楽みたいなものだったんだと思う」
「ああ……そういうこと」
シェルバイトたちがこの世界に“
現金を懐にしまい込み、シェルバイトは上目遣いにマスターを見やった。
「……あんた、本当にあいつが戻ってくると思ってるの? もし連中にやられたんだとしたら?」
「私は大丈夫だと思ってるよ。……彼はまあ、根本的に私たちとは違うからね」
「違う……あんた、あいつのこと何か知ってるわけ?」
「彼が自分から口にしないようなことを私がいうわけにもいかないから、そのへんは勘弁してよ。――ただ、彼は“
そういってうなずくマスターは、クロコリアスの生存を微塵も疑っていないようだった。
☆
暗いトンネルの中で、
『……榎田先生、また何か食べてませんか?』
スマホ越しに
「えー? 何か問題ありますかー?」
『問題というか……今は熊谷さんの捜索中なんですが』
「糖分補給しないと頭が回らないんですよー。……それよりそっちはどうなんですー?」
『成果なしです。やはりお嬢さまがいらっしゃらないと――もしくは、もっと人手を使えればいいんですが』
「どっちもないものねだりですねー」
きのう病院へ運ばれた霧華が、肉体的には何ら不調はないことは確認できていた。だが、それでも大事を取ってきょう一日は安静にしておくべきと判断したのは、ほかならぬ純の兄である榎田
『――とりあえず、先生も気をつけてください。エローダーではないにしても、たちのよくない人間が入り込んでいる可能性もありますから」
「だったらもう帰りたいんですけどねー。回収したエローダーの死体とか、あとはいっしーがやっつけたドラゴンの解剖とか、ほかにもいろいろと――」
『それはみなさんが回復してからにしてくださいと、滝川さんが』
「えー? 死にかけたってわりには、すみすみのそういう細かいところ、相変わらず――」
『……先生』
「はい、りょーかいでーす。お仕事続けまーす」
柳田との通話を終えた純は、麦チョコをひと掴みほど頬張ると、不意に後方から射してきた明かりに目を細めた。
「……榎田先生」
黒ずくめの男たちをしたがえて現れたその女は、東京の地下に張りめぐらされた放水路の内部というロケーションからすれば、あまりに違和感のある存在だった。ここで白衣を着込んでいる純も異質だが、その純から見ても、その女は本来なら決してこんな場所に足を踏み入れるはずのない人種に思える。
ぽりぽりと麦チョコをたべながら、純は目を細めて女を見据えた。
「えーと……あなたがえりりん? 本人?」
「えりりん?」
気の強そうな女の眉がいぶかしげに震える。
「
女――
「で、病院の手配は?」
「できております。
「それはどうも。……っていうか、カタいですねー」
「は?」
「もっと砕けた感じでよくないですかー?」
純は智恵理に歩み寄ると、上等なスーツに身を包んだ女政治家の周囲をぐるっと回ってから、スマートグラス越しに彼女を見上げた。
「……わたしたち、共犯なんですよ?」
「それはまあ……ですが、わたしどもが先生の研究をおささえするという立場には変わりませんので」
智恵理は静かに頭を下げ、澱みなく言葉を続けた。すみれの後輩だというだけあって、いかにも優秀そうでそつがなく、さらにすみれとは正反対にかなりの野心家らしい。でなければ、ここまで思い切った真似はなかなかできないだろう。
智恵理は手にしていたライトで数メートル先を照らした。
「――それで、彼女が先生のおっしゃっていた……彼女がそのリターナーですか?」
「そう」
光の輪の中には、ぐったりとして動かない熊谷弥生が横たわっている。少し前に純が軽く触診しただけでも、全身に複数の骨折とひどい内出血が確認できた。このぶんだと、内臓や脳にもかなりのダメージが残っているだろう。この状態で二〇時間近く放置されていて、それでもなお息があるのは常人ではありえないタフさといえる。
内出血のせいで青黒く変色した弥生の肌を見て、さすがに智恵理も眉をひそめていた。
「……まだ生きているのですか?」
「でなきゃえりりんを呼ばないですよー」
「ですが、リターナーとは一種の超人なのでは? それがなぜこんな――」
「何と戦ったのかは本人に聞かないと判りませんけどー、まあ、高速道路を走行中のクルマから放り出されて後続車に何度も激突すれば、リターナーでもこのくらいにはなるかもですねー。常人なら一〇回以上死んでるくらいのダメージかなー?」
「助かるのですか?」
「それはまだ判らないですけどねー。……とりあえず、彼女を病院に運んでもらえますー?」
「はい。……急いで。誰にも見られなように」
智恵理の指示で、黒服の男たちが意識のない弥生を担架に乗せて固定していく。その作業を見守りながら、純は智恵理に尋ねた。
「……何て説明して連れてきたのか知りませんけどー、あの人たち、秘密は守れるんですよねー?」
「我が家と縁続きの者ばかりです。わたしたちがこうしろといえば、目的も理由も聞かずに動いてくれる人間たちですので、そのあたりはご心配なく」
「それは便利ですねー。――でも、いきなり連絡してこんなにすぐに動いてもらえるとは思いませんでしたよー」
「わたしのほうこそ、さっそく先生からご連絡いただけるとは思っておりませんでした」
「まあ、急にチャンスが転がり込んできましたからねー」
自分が今、大きな一歩を踏み出そうとしている自覚はある。が、罪悪感や後ろめたさはなかった。何か検証したいことがあり、そして実行できる状況であれば、純にはそれを実行しない理由はない。ましてやここには彼女の行動を掣肘する人間はいないのである。むしろ純にとっては喜ぶべきシチュエーションだった。
担架を運ぶ男たちを追いかけるようにふたり並んで歩きながら、智恵理は純に新品のスマートフォンを差し出した。
「……先輩に気取られてもつまらないでしょうし、今後、わたしとのやり取りはこちらのスマホでお願いできますか?」
「りょーかーい」
「それで、先生は今後も“
「そりゃまあ、生きたサンプルがあれだけいるんだし、手を切るなんて選択肢はないですねー。……あしたにでも政府が“機構”の役割を引き継ぐっていうなら、わたしも即座にそっちに移りますけどー?」
「それはさすがに無理ですけど……でも、わたしはいずれそれを実現させたいと思っています」
そのためには、政界のお歴々を納得させるだけの資料が必要になる。智恵理はそのために協力してほしいと純にコンタクトを取ってきたのだった。
「わたしは研究さえできればそれでいいんですけどー、えりりん、あとですみすみに恨まれるんじゃないんですかー? わたしはすみすみやお嬢さまから何をいわれたって平気ですけどー」
「……どうかこのことは先輩にはご内密にお願いします。あれで先輩は、本気で怒らせると面倒なので」
悪びれた様子もなく、智恵理はにっこり微笑んだ。
――完――
異世界帰還兵症候群につき絶賛恋愛リハビリ中。 第三部 文化祭のあとで 嬉野秋彦 @A-Ureshino
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