第37話

そこまで読んで、僕は少しだけほっとした。毎日一言だけで、何とも味気の無い日記だが、ちゃんと、僕と出会った頃のことを書いてくれている。

もしかしたら、彼女の真意が知れるかもしれない。

 そんな、馬鹿げた希望を抱いて、ページをめくる。

『八月十二日 ナンパされたから、ついて行ってみた。でも、男の人が沢山いたから、逃げてきた。怖かった。お気に入りのワンピースが破れちゃった。海原さんに助けられた。海原さんの部屋に行ってみた。恥ずかしくて、酷いことを言ってしまった。申し訳ない。でも、読んだこと無い小説が読めた』

 あ…、これ、僕が真琴を助けた日のことじゃないか…。

 なるほど、そういうことか…。

 心臓が逸るのを感じながら、さらにめくる。

『八月十三日 海原さんの部屋に遊びに行った』

『八月十四日 海原さんの部屋に遊びに行った』

『八月十五日 海原さんの部屋に遊びに行った』

『八月十六日 また海原さんの部屋に行った。明日も誘われた』

 そして、凍り付いた。

『八月二十日 海原さんから告白された。好きでもないのに、頷いてしまった。死にたい』

 好きでもないのに…、頷いてしまった。

 白い紙に記された、その綺麗な文字が、僕の後頭部をガツンと撃ち抜いた。

 貧血を起こしたように視界が歪み、足の力が抜ける。何とか踏みとどまり、喉の奥にまで込み上げた胃酸を飲み込んだ。それから、目を擦って、再びノートを見る。

 確かにそこには、「好きじゃないのに」と書いてあった。

「はは…」

 乾いた笑いが洩れた。

 真琴が僕のことを好きじゃなかったことくらい、僕に対する態度でわかっていた。いつも眉間に皺を寄せていたし、僕が何かをするたびに嫌味を洩らしていた。こんなの、国語の問題よりも簡単だ。でも、いざそれを彼女自身の文字で知らされると、堪える。

 蝉の鳴き声が止んだ。

 僕はノートを閉じると、机に仕舞った。続きを読んだところで、「好きじゃないのにデートに付き合った」だとか、「好きじゃないのに本をもらった」とか、心無いことが書かれているに決まっていた。

 引き出しを完全に締め切った瞬間、僕は床に、膝から崩れ落ちた。天井を仰ぎ、「ああああああああ…」と、近所迷惑にもなる変な声をあげた。

「嫌いだったかあ…」

 そりゃそうだ。いつも変な方向を向いて、栄養剤を過剰摂取して、びくびくしているような男なんて、誰が好きになるんだよ。自惚れすぎなんだよ。この馬鹿が。真琴の貴重な一年、いや、二年を奪ったんだから、死んで詫びろ、この無能。

 ああ、くそ、結構、悲しいな…。

 ふと顔を戻した時、目の前にいた母と目が合った。

 二週間前と同じく、黒く焦げた姿。頬には枝葉を広げるような亀裂が入っている。その隙間からピンク色の肉が覗き、黄色っぽい肉汁が染み出していた。だらしなく開いた口からは、犬が餌をねだるような声が洩れている。

「うわあ!」

 あまりにも唐突な出現。そして、その姿を間近で見てしまったため、僕は悲鳴をあげて後ずさった。だが、足が縺れて背中から転げる。

 仰向けになった時、僕の頭は、ちょうど首を吊った父の足元にあった。

「…あ」

 父の口から垂れた、唾液のような胃酸のような血のような、粘っこい液体が額に掛かる。

 背中に冷たいものが走った。

 後のことは、よく覚えていない。

 我に返った時、僕はガキみたいに泣きじゃくりながら、充希に抱きしめられていた。口を動かしても、出てくるのは支離滅裂な言葉と、昼間に食べたカレーが吐き出されるだけだった。

 本当、情けなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

最近、彼女の様子がおかしいのだけど。 バーニー @barnyunogarakuta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ