第2話 名付けた責任
数日後の昼休み。
自分の席で弁当を広げる私の元に、縮緬の煌びやかな布地で作られた弁当袋を手にした友人がやって来た。
隣のクラスから来た友人は、食堂に行っていて主不在の席から椅子を拝借し、私の向かい側を陣取る。
たったこれだけなのに、今の人格がどちらであるか、私は完全に把握できた。
「いつから出てるの?」
「昨日の昼から」
「ずっと代わらず?」
「や、日付が変わったくらいに一回。コイツの恋人から来てたメッセージに返信するときだけ、表に出てたよ」
そっか……と呟き、箸を使って卵焼きを半分に割る。友人自身と会話をしたのは、翔が現れる前の日が最後だったと思う。
このところ友人は、ほぼ毎日、翔に人格の主導権を渡していた。だから友人自身と会話をするより、翔と話しをする時間のほうが、明らかに増えている。
最初は警戒していたけれど、私にとって翔は、気のよい友人というポジションになっていた。
「つかさ、ちょっと聞いてくれよ。コイツ、飯の食い過ぎで太るって怒るんだぜ? 理不尽だと思わねぇ? だったら飯んときくらい、自分が表に出ろっての!」
私は半分に割った卵焼きの片方を口に運びながら、翔の愚痴に「そうなんだ」と、素っ気無い反応を示す。翔は私の反応が薄いことなど気にも止めず、弁当袋を開けて友人用の弁当箱を取り出した。
「それにほら、この弁当箱を見てみろよ。コイツの小さな両手に収まるくらいの大きさで、しかも一段! 雀の涙みたいな量で腹が膨れるわけねぇだろ。なに? これが女子のスタンダード? スタイル維持より健康維持だろうが!」
「まぁ……言いたいことは理解できるよ」
かく言う私も、エンゲル係数は高いほうだ。弁当箱は女性用デザインで大き目の二段弁当。上の段にはおかずがギッシリ、下の段には白米がパンパンに詰まっている。
クラスの女子達が使っている弁当箱は、だいたいが私の弁当箱一段分。そんな量で足りるのかと、甚だ疑問だ。
不満そうに弁当箱の蓋を開けながら、そう言えば、と翔はなにかを思い出した。
「昨日の夜……コイツが恋人にメッセージ送ったあとかな。また新しいヤツ出てきたんだよ」
「新しいヤツ?」
「そ。女の子」
事も無げに言っているが、それは友人の中に、交代人格が増えたということ。
咀嚼した卵焼きを嚥下するのと同時に、新たに生じた不安も一緒に飲み込んだ。
「それで、名前が欲しいって自分で命名リスト見つけてさ。愛梨って名付けてたんだよね」
また、名前。
私は、翔と初めて会ったときに感じた疑問を問いかけてみることにした。
「やっぱり、自我を持ったときには名前って無いもんなの?」
翔は箸箱から黄色地に白い花が描かれている箸を取り出しながら、しばし考え込む。
「知ってのとおり、俺は……無かった。愛梨も無かったから、自分でつけた。他はどうかな? 自分で決めるヤツが多いのかもしんない」
多重人格である解離性同一性障害。精神世界のことは、高校二年生の私には、全然分からない。大学に行って専門的な勉強をしないと、本やネットに書かれている情報だけでは、理解に不十分だ。
分からないなら、聞くしかない。
どこまで踏み込んでいいのか、聞いていいか分からないけど……。嫌なら、きっと翔は答えないだろう。
「翔達が居るのは、精神世界……に、なるのかな? お互いに干渉し合ったり、会話でコミュニケーション取ったりもするの?」
唐揚げを箸で持ち上げながら、いや? と翔は首を捻った。
「それこそ、個性だよ。俺と愛梨は、協力してコイツのこと助けてやろうなって話したけど、そうじゃないヤツだってもちろん居るだろうし」
「翔と、愛梨……ちゃん? の他に、もう既に何人か別の人格も居るの?」
「うん。完璧に覚醒してるのは、まだ今んとこ俺達二人だけだけど。でもまぁ……そのうち、他のヤツ等も活動を始めると思う」
これからも、どんどん増えていく。
二人だけで終わることは無いと、翔は確信を持っていた。
「そっか……。翔だけで終わってくれればと思ってたんだけど、そうもいかないっぽいね」
書店で立ち読みした本によれば、自分を守ってほしいという意識から、一番最初に生まれる人格は少し年上の男性であることが多いらしい。そして次に現われるのは、自分より少し年下の女の子。
今のところ、書いてあったとおりの出現順で、私は専門的な知識の必要性を痛感していた。
翔達へのアドバイスめいた事柄は、友人同士での相談事で意見を口にすることとは違う。
私では、統合に向けてなにもできることが無い。無力なことが、とても歯痒い。
額に手が置かれ、頭上に影が差す。何事かと不思議に思って弁当箱を見詰めていた顔を上げると、眼前に友人の顔があった。椅子から腰を浮かせ、互いの額が引っ付きそうなくらい近付いている。
驚いて、思わず少しだけ身を引いてしまった。
「ちょっ、なに? 近いし、どうしたの?」
動揺が隠せない私に、友人の顔で真剣な表現を浮かべている翔は、静かに口を開く。
「コイツと俺達のことにアンタを巻き込んだのは俺だけど、アンタが責任を感じることじゃないよ」
葛藤を言い当てられ、胸の奥が、ギュッと掴まれたみたいに苦しい。
「でも、私……ずっと話を聞いてたのに」
本当なら、別の人格が現われるようなメンタルになる前に、友人が抱えている問題を解決に導いてあげたかった。
この意識が傲慢であることは、重々承知している。人生経験も友人と同じ年数である私が、悩んでいる彼女の心を軽くするようなアドバイスを送れるはずも無い。
翔は額に置いていた手で、私の肩をギュッと抱き寄せた。
同性同士だとトキメキもなにも無い普通のスキンシップであるハグだが、中身が男の翔であると認識しているから、ドギマギしてしまう。
私の動揺になど気付いていない翔は、私の抱き締めたまま喋り続ける。
「話を聞いてもらってたからって、キレイさっぱり問題が解消するような……簡単なもんじゃないだろ? 心ってさ」
うん……と同意を示すと、翔は抱擁を解き、私の顔を覗き込む。微笑を浮かべ、私の頭にポンと手を置いた。
「アンタの前に、また出てくると思うから。そんときは、コイツにしてくれたみたいに、愛梨の話も聞いてやってくれよ」
「私で、いいのかな?」
聞き上手だと自負していた自信は、ヒョロヒョロに痩せこけてしまっている。そんな私の不安を吹き飛ばすように、翔はニカッと歯を見せて笑った。
「アンタがいいんだ。大人は、頼りにならないから」
翔の言葉から、友人は両親を始め、どの大人にも相談をしていないのだろうと予想する。
私は、寄せられた期待に応じることができるのか……。
責任の重さに、少しだけ、逃げ出したい衝動に駆られた。
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