空ろな器と名の絆

佐木呉羽

第1話 はじめまして、俺です。

 朝の教室は、喧騒に包まれている。


 いつもと変わらず、私はカバンからペンケースやノートを机の中にしまうと、図書室で借りている読みかけのファンタジー小説を広げた。

 読むペースは遅く、借りて三日が経過するのに、まだ半分も読めていない。旅に出発した主人公は、これからどんな運命を辿るのだろうと、胸をワクワクさせていた。


 文字を目で追っていると、頭上からフッと影が差す。

 誰が来たのか確認すれば、隣のクラスの女子生徒。部活は違うけれど、趣味が同じで、そこそこ深い話しもする間柄。高校一年生のときにクラスが同じだった彼女を、私は友達だと認識している。


「おはよ」


 いつもどおり挨拶をするのに、返事が無い。


 どうしたんだろ? と不審に思っていると、友人は私の机に両肘をついて頬杖をつき、小首を傾げた。


「俺、コイツじゃないんだ」

(……え?)


 なにを言っているのか、一瞬フリーズする。


 そもそも、友人の一人称は《私》だ。《俺》ではない。ボーイッシュ系女子でもないから、本来はこんな喋り方もしないのだ。と、言うことは……考えられる可能性は、ひとつ。


「はじめ、まして……」


 戸惑いながらも、挨拶を口にするまで、わずか数秒。友人の姿をしたコイツは、ニヤッと嬉しそうに笑った。


「アンタ、察しがいいね。さすがだわ」

「そりゃ、どうも。でも、いつから?」

「ん? 昨日の夜からだな。コイツ、閉じこもっちまってよ。表に出てこようとしないから、俺が代わりに出てやったんだ」


「そうなんだ……」


 他に言葉が見つからない。

 友人の中に生まれた別の人格と会話なんて、しかも初対面で、なにを話したらいいのだろう。


 戸惑っていると、ねぇ、と声をかけられる。


「名前つけてよ。名前。まだ無いんだよね」

「え、そうなの? じゃあ、お前でいい?」


 コイツは「はぁ?」と不機嫌そうな顔をした。


「お前、失礼なヤツだな。ちゃんと考えろよ」


 だって、嫌なのだ。名前をつけたら、一人の人間の中に誕生してしまった、別人格の存在を完璧に認めてしまうようで……怖い。

 私が名前をつけたら、別人格の存在を私が認め、私が許してしまうことになるのだ。


 存在を許したくない気持ちが強いけれど、こうして言葉を交わしているコイツは、もう既にちゃんと存在してしまっている。

 私が否定しても、なんの効力もない。存在を認めないと宣言したところで、消えるわけでもないのだ。


「ねぇ、考えた?」


 友人の顔をしたコイツは、ニヒルな笑みを浮かべる。


 振る舞いは、まさしく男性。姿があるとしたら、きっとチャラい感じで髪を茶色か金に染め、ヘアワックスでキメキメだろう。さらにはピアスの穴を開けて、ジャラジャラとチェーンやなんかもつけていそうだ。

 年齢的な見た目としては、おそらく十代後半から二十代前半。


 友人は、そういう存在に、守ってもらいたかったのだろう。こういう人格を作らないと耐えられないくらい、現在の置かれている状況が辛かったのだ。


(全然、気づけなかった……)


 いろいろと話しはしていたから、それで少しでも心が軽くなれていたらいいな、と願っていた。

 日毎に増える自傷行為の痕。カッターの刃を走らせてから、プツプツと赤い血が浮かび上がってくる様子を写真に撮って、何度も見返していた友人。

 やってしまった行為を否定せず、大丈夫だよと肯定し、気持ちを受け止めてあげることしかできなかった。


 でも、それだけじゃ、友人は救えていなかったのだ。


 私の力なんて微々たるものだけれど、それでも、なにか少しは役に立てているのではないかと過信してしまっていた。


 悔しい。恥ずかし過ぎる。


 でも、目の前に居るコイツから、私は手を離しちゃいけない。新しく人格を持ったコイツを繋ぎ止める役割が、私のつけた名前なのだとしたら……。


(繋ぎ止めなきゃ)


 本を閉じ、ルーズリーフとシャープペンを取り出す。ルーズリーフの罫線五本分を使って、大きく漢字一文字を書き記した。


 ――翔


「カケル、って読むの。カッコイイでしょ? 自由に飛べる、羽がある字だよ」

「へぇ、センスいいね」


 気に入った、と翔は笑う。


「あ、おはよー!」


 突然、クラスメイトの一人が、翔に話しかけてきた。

 いつもの友人のテンションを知っているクラスメイトに、翔のテンションで対応したら、変に思われてしまう。

 クラスメイトは翔の肩に手を置き、友人の姿をしている翔に向けて笑みを浮かべて話を続ける。


「借りてた漫画持って来たから、あとで返すね」

「うん、分かったー! 面白かったでしょ?」

「凄く面白かった! 読んでみて正解♪」

「あはは! 喜んでくれたなら、よかったよ。またあとでね~」

「うん、またね〜」


 私は、目を丸くした。にこやかに微笑み、手を振ってクラスメイトを見送っていた翔は、二人きりになると瞬時に表情筋の活動を停止させた。


 切り替えが、凄い。


「どう? ちゃんとコイツだったろ?」

「うん……ビックリしちゃった。真似が上手いね」

「まぁ、コイツの外聞は守ってやんなきゃだし」

「でも、なんで私の前では翔なの?」


 あ? と、翔は不思議そうに目を見開いた。


「だって、アンタはコイツの理解者だろ? だったら、俺とも協力関係築いてくれんだろって思ってたんだけど……違った?」

「……違わない。頼りに、してくれてるの?」

「当たり前だろーよ」

「そっか……」


 私が頼りないから、翔という人格を作ったわけじゃないんだと、不謹慎ながら安堵してしまった。

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