灰色の胎児

藤浦ライチ

第一章 万人の美

第一節

 美しさの説得力とは何だろうか。我々が人間を美しいと感じる時、それは目で見た時か音で聞いた時かあるいは、香りを嗅いだ時か。人が人として最も美しい時期はいつか。究極の美というものがあったとして、それは万人の美であるのか。五感全てから美を叩き込まれた時、人間は起きながらして夢を見るようになるのだ。ある男は少年を不幸のダイヤと称し、自らの手元に置くことを選んだ、死ぬと分かっていながらも手元に置きたがったのは彼が愚かだったからではなく最も賢い選択だったと人類が喝采かっさいを贈っただろう。万雷の喝采。少年の美しさは、まさしく人外であった。不幸のダイヤとは実に言い当て妙で、少年は所有者が死ぬたびに宿を替えている。血肉とならぬ宿主に価値を見出せないゆえの行動であった。

 家族に恵まれない人生、肉欲を隠さなかった親友、人生の師と仰いだ紳士風の男性こそが最初の飼い主となった人生。まったくもって愚かしい、実に輝かんばかりの人生であった。万人のための美は常に足を引っ張り、舌を出す。足かせとなって盲目にさせた。吐息すら脳を痺れさせる甘美さに包まれた少年はしかして苦渋のみを舐めて育ち、二度と立ち上がれぬ虚無ばかりが心を舐める。

 初めて男に抱かれた日を覚えている。初めて女に抱かれた日を覚えている。老いも若きも、女も男も少年を性として消費したのである。いつしか潰える輝きに誰もが目を焼かれて暗黒ばかりを眺めていくうちに、みな一つになった。何者でもない、たった一つに。混ざりあってぐちゃぐちゃに融け合うと次第に現実に目を向けられなくなってしまうのに現実を知った風な口ばかり聞くそのたった一つに少年は笑ってやる。すると、それも笑った。

 ――嗚呼、僕の人生はいったいどうして輝いているのだろうか。

 少年には自分の輝きが見えぬ。足元の影ばかりが目に入るからだ。

 産声を上げてから苦節十三年。

 親元を離れて早十年、親の顔など記憶の底に沈んでしまって浮き上がる気配も感じられない。分かったのは少年が血縁にたいして特別な感情を抱いていない事だけ。しかし、今回の新しい飼い主はどうやらよっぽど変人なのか親戚を名乗っている。

 新しい宿主であるなら誰でも良いから、少年は愛想笑いだけを浮かべてやった。真面目な性格であるから金を最初に積まれた分は望むだけの言動をとってやるし、役割にも徹してやれる。前々回は物言わぬ人形、それから前回は生徒、今回は親戚の子供役であるだけの話。

 窓から外を眺める。灰色の空が地平線にまで続く。ここは夢を知らぬ世界、だのに人は夢を見続ける。もう誰も世界と迎合出来なくなってしまったのに人間同士で一つになるだなんて可笑しな話だ、思わず心の底から笑顔を浮かべてしまうくらいに。人は誰しも一人で生きるしかないはずなのに、みなが孤独のうちには呼吸が出来ぬと言う。

 ドアから軽快な音がして振り向いた。

「はい」上擦った凛とした声が部屋に響く。

「グレイ、入ってもいいかい」

「はい」

 再度、声が部屋に響く。

 薔薇と、薔薇の蔦が彫刻された木彫りの扉が重苦しい音を立て、少年の部屋に男を招く。男は少年の血筋を自称するだけあって彫が深く、ウェーブかかった黒髪が細く鋭い印象をいだかせる目元をやわらげる。あと三〇年も若ければそれはそれは麗しい青年だったろうが顔には皺が刻まれ、黒髪にもちらほらと白髪が混ざっている。少年を怯えさせないように精一杯つりあげられた口角が不気味なほど精巧な微笑を作って余計に恐怖を煽るのに、少年の微笑みはただの一ミクロンとて歪みを見せない。

 茶色の革靴が灰色の太陽から発せられる輝きを反射し、鈍く光る。

「――グレイ、座ってもいいかな」

「はい、ルクス伯父さん」

 この、父の兄を名乗る老人はルクスと言って、灰色になった世界で唯一喫茶店を営んでいるらしい。らしい、というのもグレイは喫茶店というものを知らずに育ち、このルクス伯父さんに飼われてからの二週間、人間としての運動らしい運動を行った覚えがなく過保護に面倒を見られてきた。灰色の世界がどうして灰色になったのかをグレイは知れず生まれた。いわゆる色なき世代である。

 伯父が少年の代。

約三〇年前までは空は透き通るほど青く、また時にはうつりかわる時と共に赤くなったと。それが、どんな理由か知れないが世界は一晩のうちに色を亡くし、法の秩序も理性も、色と共に息絶えた。だから子供の人身売買などがまかり通る。

 窓に反射した少年は、灰色に輝く。青き青春すら忘れ去られたこの世界で、例外なく。ただし、その美貌だけが輝きを人々に与えてくれた。本人は自分の輝きなど目に出来ぬというのになんと皮肉な事だろうか。薄い唇は艶を持ち、常に伏目ふしめがちな灰色の瞳は空虚ばかりをぽつんと見つめ、触れれば吸いつく肌には血色なく灰色の髪は癖なく太ももまで伸ばされている。首は細い。肩は華奢であるのに大人を迎えるために骨ばり始めて妙に婀娜あだっぽい。

 色が生きていた時代に作られたらしい豪勢な円形の小さなテーブルに、ルクスは灰色のトレイを置く。トレイじょうには紅茶が淹れられたティーカップがある。よい香りであるのだろう。グレイには物の価値が分からなかった。紅茶とティーカップのみに限らずその他大勢のもの。人の笑顔、愛情のありがたさ、かけられた言葉、慈悲、夢、人肌のあたたかさ、受け入れられる環境。家族、親戚、血筋。友情。勉学。常識、道徳、あるいは善と悪が分け隔てられたかつての世界。

 色のある世界。

 色を亡くした世界で、再び色を得て夢を見られること。

 エトセトラ、エトセトラ。

 人には、人としての幸福がある。

 グレイはそうしたものの一切合切とは無縁であった。グレイにとっての幸福とは他者に設定されたボーダーラインでしかなく、それ以上の存在足りえない。美以外の個性全てを廃した存在をはたして人間と言えるかどうかはさておく、それはこの世界にとってさしたる問題として数えられる事などありえないのだから。みな、虚無を見つめている。過去の反芻はんすうをしている。グレイによって輝きを得たとはいえども根本の問題が解決していない以上、文字通り気休み程度にとどまる。あれは人であろうか。否、人間と名乗っているだけでグレイとなんら変わらぬ人形、糸をひいてくれる操り手をなくしてぐったりと倒れこんでいるガラクタでしかなかった。

この世界で人間と呼べるのは伯父ルクス、ただ一人。

 彼は欲望の使徒であるのに、純情潔白な男。欲望をおさえこむ理性と名付けられた器を持つ稀有けうな男。ありとあらゆる感情を吐き出す、人。

 店が開いている時はオールバックに撫でつけられた髪が揺れ、優美な動作で紅茶に口をつける。グレイも後に続き、緩慢な動作で紅茶を口にした。ルクスがもの言いたげな視線を向けてくるから、グレイは見本のような笑顔を浮かべて味への惜しみない賛美をおくった。

 ――これ以上に美味しい紅茶はこの世に存在しえないでしょう、伯父様。

 彼は一瞬躊躇い、軽く頭を下げて目尻を朱に染めて笑みを深めた。彼は夜を憂いても人を愛する心を失わない人であるのに、虚無と虚栄に満ちた、文字通りの灰色の世界では形容する言葉も見つからないほどの傲慢ごうまんな男として知られている。灰色の世界で決められた日常と、決まった言葉のみで会話を繰り返す彼らにルクスを罵倒する考えにまでは至らない事はさいわいである。色と共に老いと繁栄すら失った世界で、彼ただ一人だけが年老いてゆく。

平等に刻まれた時の中で、彼だけが孤独に生きている。

いったいどれだけの苦痛が生じるだろう、グレイには分からなかった。少年がする事と言えば、脳内に押しこんだ言葉を引っ張りだして手触りのよい会話を与えてやることのみ。人ではない、なのに、ルクスはいつまでもグレイを人扱いした。

 どうして人扱いされるのだろうか。

 存在意義を一点に集中させてしまった結果、考えても考えてもグレイにはルクスの考えが想像すらできない。

人が人として扱われることが無くなった世界で、ルクスはグレイを使って己が穴を埋めているのかも知れない。もしくはグレイが考えるよりも世界はシンプルで、ルクスに感情があると思っているのは少年の願望か。衣食住が与えられるならどちらでも良かった。元々、自身の尊厳については思考放棄をしているような子供だ。理性や願いや孤独への恐怖など、贅沢すぎる。


「ここにはもう慣れたかい」

「はい」

「私に何でも言ってくれるといいよ、家族なのだからね」

「はい」

 窓の外で全身灰色のカモメが飛ぶ。

 羽ばたきの音がルクスの心を癒した。

 あの鳥ですら、どれだけ飛んでも色づかぬのだ。

 ルクスを見つめるグレイの瞳は妙に寒々しい。

「ここは――」

 ティーカップが微かに音を立てて置かれ、ルクスの視線が窓の外を向く。人ひとりが立っても十分なほど大きな窓であった。窓の外にはバルコニーが続いている。

「――昔はローマと呼ばれていたんだよ。色を失ってからは人々はローマの地すら理解出来なくなって、もうなんの意味もないけれどね」

「でしたらなぜ、伯父様は覚えておいでなのですか」

 素朴で残酷な疑問に、形の整った眉を少し下げて笑い、答えた。

「寂しいだろう、誰かに忘れられるのは」

「僕にはよくわかりません。輝きとて灰色にまみれているのに」

 窓の外にはコロッセオが見える。それは人の歴史であった。二度と動かないであろう人の時を静かに待ち構えているように思えてルクスは何度となく足を運んだ。だが、次第に寂しくなってきた。歩いても歩いても人もどきの群れは変わらず、会話の内容も大きく変化しない世界にほとほと愛想がついているのに、それでもやはり彼は人を愛していた。

 子供の笑い声が好きだった。今では一定のリズムを刻むだけの虚しいものでしかない。自分の喫茶店に毎日通ってくれる老夫婦を羨ましく思っていた。今では毎日が老夫婦の六〇年目の結婚記念日となった。

あまりにも虚しいではないか、人の記憶からなくなってしまうというのは。簡単な話、彼は耐えられなかった。人から忘れ去られる事、またはあれらと同じいちになるの事が。一になるのは幸福ではなく、むしろ不幸なのではなかろうか。誰もが同じものに執着を抱いてしまったのなら、それは、それはいったい何と呼べばいいのだろう。

 視線をグレイへと戻す。

 見た者すべてを同じ思考回路へと帰結させる美はしかし、ルクスの理性をより強固なものへと変化させる。

久々に得た人とのつながりに彼は熱心になった。人らしさを充実した。

「君は眩しいね」

 ルクスには世界が――グレイが極彩色に見えた。

「伯父様はずいぶんと世界になじんでいらっしゃる」

 動作だけではなく、言葉もワンテンポ遅れてた少年の目には世界が灰色に見えた。生まれた時から灰色の世界を見てきたから、今更この世界が可笑しいなどとは思えなかった。違和感など、感情を大きく揺るがす極彩色にもなれなかった。

皮肉じみた言い回しに、はたしてルクスの心はどのような光のブレを起こしたろう。

 彼は、これこそが人の営みであるといわんばかりに笑った。

 紳士然としたを装っているのに無邪気な笑顔を浮かべる男だ。

「君にとっての世界は灰色か、ならば私は随分とつまらない男なのだろうね」

 一瞬視線を彷徨さまよわせて少年は言葉を返す。

「いいえ、それは。いいえ」

 言葉を重ねる。

「あなたはきっとユーモアのある方なのでしょう、僕には上手く言えませんが、今までの主人とは異なって見えるから」

 言葉を喉奥に押しとどめて言葉の続きをうながす。

 ――主人。

 人が人を買い、育てる。なんとも醜悪な制度だろうか、それを尊敬していた兄が使用したなどとは到底信じられずにいるが、この目の前に座るビスクドールがごとき少年が地に落ちた兄の威光、文字通り生き証人として機能している。グレイはルクスを見ても人を見る目はせずに警戒して周りの空気を冷たく締めつけ、己が首すら呼吸が出来ないほどに重苦しい現実を押しつける。少年にはもはや善人と悪人すらいっしょくたに見えていた。

どれだけルクスが親切に接しても警戒を解くことすら嫌がった。

少年はきっと、自分が世界を諦観したふうに見ていると信じているに違いないが、ルクスからしてみれば世界を一番世界らしく見ているのもグレイであり、世界を切り捨てた視点で見ているのもまた、グレイなのである。皮肉なことだ。

 人形であるならどうして世界を見てつまらないと思おうか。心がないと自称するならばどうして今、少年の心にルクスへの羨望の念が湧き上がってくるというのか。まったくの出鱈目でたらめ、自分がこれ以上傷つきたくないが故の自己暗示。縋りたくなる優しさにえて目をそむき続ける愚かしさを見よ! まるで少年自身が否と断じた人間のようではないか。

 つ、と視線をルクスに固定する。

老人は笑顔を崩さず、静かに言葉を待って紅茶にふたたび口をつけた。

「あなたの世界は何色ですか」

「空は青色で、テーブルは白で、このティーカップは白に金色の模様があるよ」

「しらない色」

 生まれた時から死んだ色に包まれたグレイには青色も白も金色も、ひとしく灰色である。

 ルクスは思った。

 この子に色を見せてやりたい、と。世界はこんなにも美しいのだと。

 灰色の世界を共有できなくとも、一色しか存在しない世界で如何様いかようにして生きられよう。きっとルクスには耐えられない程の冷たさを常に味わい、心の安寧すら知らず、心を殺してしまったから作り笑顔にすら温度を感じさせられない子になってしまった。


「でも、きっと、それが本当の美しさなのでしょうね。僕の美しさなんて嘘っぱちですから」

「噓っぱち?」声色を上げてオウム返しにかえす。

 器用に上げられた片眉なぞは映画俳優のようにさまになる。

 小さく頷き、ルクスが肯定の意を返して紅茶をひと息に飲んでしまった。舌を突き抜ける熱さすら目もくれずに笑顔を消す。掛け値なしの表情の味気なさに眩暈めまいすら起こさせ、回転する思考回路がルクスの本性を呼び起こさんと必死になって走り回り踊ってみせた。愉快な極彩色ごくさいしきのダンス。ダンスの名は感情と言う。くるくる回り、飛び上がって、笑顔で人を誘惑して世の恐ろしさを知らぬ無垢な雰囲気を纏い、高らかな声で世のすばらしさを歌って空を飛び、そのままふらふらと地面へと弧を描いて落下する。世界はまばゆい。そして、愉快さも苦しさも共に手を繋いで互いを友と呼ぶ。

 嗚呼、人と話すことの味わい深さよ!

 嗚呼、人として生きる愉快さよ!

 私は生きている、彼も生きている。嗚呼、嗚呼――楽しきかな人生。素晴らしきは人の営みよ。

 内心興奮しているルクスをよそにグレイは至極淡々とした声色で持論を述べる。

「自分の意思で着かざらず、自分の意思で歩かず、しずしずと命令を聞くのみ。食べ物ひとつすら選ばないおろかさを持つ僕を、どうしてうつくしいと言えるのですか。ぼくは、ぼくが醜いとすら思えます。目が大きいから、光を反射しないまま輝くから? 唇が薄いから、それとも肌が透きとおるほど白いから?」

 手を伸ばす。傷一つ見当たらない、きめ細かな肌である。ルクスはビスクドールが如き、とよく形容される容姿は黒色のフリルブラウス、胸元には大きな白色はくしょくのリボン。それもただのリボンと侮るなかれ、白のサテン生地には馴染む灰色の糸で刺繍が施されている。

白のコルセットはきつく締め上げられてリボンと同じ意匠いしょうが施されて可愛らしい。黒のズボンと黒のヒールブーツ。やはり等身大の人形らしい。

 ルクスから見ても十分以上の容姿を持ち合わせているのに、当の本人はどうにも気に入らない様子。家に迎えられてからずっと鏡に布を覆いかぶせているのは、なるほどそのせいか。少年は自分の容姿を苦手、否、憎くすら思っていたのである。無理もない、不幸のダイヤは持ち主ではなくダイヤ本体の輝きを鈍らせ、傷をつけて不幸にした。

「教えてください、美しい、とはなんですか」

「私にもよく分からないけれど空の青さはどうかな」

 ルクスとグレイの視線が空へ向く。

 青さを覆いつくさんばかりの白鯨はくげいが体をくねらせ、泳いでいた。

「空は灰色です」

「あの白鯨は」

「灰色です。変わりません」

「なら、紅茶の味は」

「にがいです」

 乾いた笑みがルクスからこぼれた。

「でも――」

 グレイが振りかえってルクスと視線を交わらせた。口角が微かに上がって、笑っているようにも見える表情。

「――好きです、これ」

「アッサムのオレンジ・ペコーだ。今度はミルクを足そう」

「明日、たのんでもいいですか」

「勿論」

 警戒心がミルクの入った紅茶の味ほど薄められていく。目線まで持ち上げられたティーカップすら緩やかにぐ雰囲気に流れを感じとる。今、少年の心には色が垂らされた。たったインク一滴。これが、人が呼ぶところの感情。その呼び水である。

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灰色の胎児 藤浦ライチ @bisyounenn_114

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