71六話『湘南の海に見ゆサザンクロスの蜃気楼』
大連と帝都羽田を結ぶダグラスは席数が十四と少なく、三人が追加されると忽ち満杯となる。優先されるのは軍人や外交官、大物の政治家。民間人は押し出される恰好で搭乗拒否を喰らい、問答無用、後日の便に振り替えられてしまう。
「それで少佐は文句を言わなかったのですか」
「我慢の
耳朶を蔽う長い髪も、気障な
「こん中に英國のスパイが紛れ込んでいることはないだろう。誰も額面通り受け取るはずもないし、本名で呼ばれるより、都合が良いのさ。進級したら、今度は中佐な。まあ、当面ないけどな」
詳しくは語らないし、職業上の守秘義務もあって話せないようだ。しかし不始末を
禁書庫の閑人は急に親近感が湧いた。似通った境遇の者同士である。
金曜會への参加も
「少佐は
勿論、
「南洋と聞いて思い出したのですが、僕は昔、南十字星を観たことあるんです」
「吾輩は何回も観たけど、え、與重郎君、沖縄に行ったことあるのかい」
「いいえ。家族で大磯に泊まり掛けで行った時です。相模湾の彼方に南十字星を見付けました。この前、
少佐は考え込んだ。本邦では
別の綺羅星を見間違えたと少佐は指摘するが、美少年は納得しないようで、幾度も
「それは別の機会に譲って、本題に参りましょうか。今宵は少し変わった趣向で、こちら忠嗣さんが偶然入手した本から
遂に秘蔵の演題が檜舞台に躍り出た。進行役が手に持つ英語の小冊子が懐かしくも思え、忠嗣は感慨を深くした。すっかり忘れていたが、禁書庫にあったとは言え、帝國圖書館の蔵書だ。永らく外部に貸し出して良いものではない。
発行元は
「折角だから、発掘者の忠嗣さん、ここはひとつ前口上を頼むよ」
唐突に依頼された。翻訳作業の折に概要を纏め、屁理屈も突飛な理論も案じたが、だいぶ日数が経ち、八割方失念している。演説の経験はなく、學生の時分も成果の発表で緊張の余り粗相した苦い記憶しかない。
それでも忠嗣は、ここが見せ場と意気込み、己が興味を抱いた小冊子の序文の一節を引用し、説き始めた。
「人間は動物と違って二つの死を与えられていると彼らは主張します。本能的な死の恐怖とは別に、人は臨終の際に強い不安に
手際良く説明できる自信はなかったが、二つの死は忠嗣にとっては印象的な部分だった。継続する死への不安は、動物が持ち得ない感情で、執筆者はそれを生物学的ハンディキャップと言い表す。
「死に対する強い不安は、絶命した瞬間に自分の存在が失われるという恐怖に直結して、これも動物にはない。自らの死後も世界が引き続く。その確信は孤独感、絶望感にも繋がり、臨終の際に色濃くなり、藻掻き苦しむ。自分だけが無になるのです」
「何となく解るけど、そんな恐怖心を和らげるのが宗教とちゃいますのん」
「宗教的な考え方から離れたほうが良いね。観念ではなく、技術なんだよ」
耿之介は
<注釈>
*アーサア・ケストラア=思想家・批評家アーサー・ケストラーは、病床にあった一九八三年、妻と心中する。睡眠薬の過剰摂取による事実上の安楽死だった。
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