70五話『銀河が降り注ぐ天象儀の幻影空間』

「こりゃ涼しくて、ええわ」


 外見から窺い知れる通り、半球形の不思議な天井、円蓋えんがいである。その中心に、巨大な蟻に似た奇天烈な機械が据えられ、四百を数える座席がぐるりと取り囲む。奏樂堂やキネマ座とは異なり、構造は相撲の國技館に似ている。ただし、眺めるのは真ん中の舞台ではなく、天井だ。


「櫻子さん、明るいうちに撮影するなら眼の前の物だよ。その寫眞機と同じ獨逸ドイツのカアルツアイス社が製造した最新式の投影機。本邦では大阪とここの二箇所にしかない。いや、全東洋で二つかなあ」


 巨大な蟻ん子が天文舘の心臓部だという。臀と頭に当たる膨らみが其々それぞれ、北半球から見える星、南半球の星座を担当する。更に赤道や黄道、子午線などを映し出す専門の光源も備えられ、それは剥き出しながら、複雑な機械の内部のようだった。


「本日は、当天文舘、星の劇場に御越し頂きまして、有り難う御座います」


 物干し竿染みた長い指し棒を持った弁士が現れた。星座や何やらを色々と解説するかかりらしい。ゆっくりと照明が落ち、天蓋は黄昏に染まる。


「これ、首が疲れるかもな」


「そうそう、椅子は傾けられるんだ。こうしてね。ほら、簡単」


 座席の背凭せもたれは、洒落た床屋の椅子のように發条ばね仕掛けで後ろに倒せる仕組みになっていた。天井の星を仰ぎ見る恰好だ。忠嗣は美少年の隣で、添い寝しているかのような気分に陥った。うっとりし、若干亢奮もするが、面々が一堂に会する中でたぎらせてはならぬ。


「今月のプラネタリウムの話題は、夏の星座と天の河、そしてゾディアックこと黄道十二宮こうどうじゅうにきゅうで御座います」


 先ず、一番星が煌めき、まるい天井の全てに星が踊り出す。客席から歓声が沸き起こった。初めて眼にする者が殆どのようで、誰もが子供のようにはしゃぐ。


 頭上に浮かび上がった満点の星空は、想像以上に荘厳で、余所見よそみをすることさえ忘れさせた。実際、キネマ座より昏く、隣人の表情も判別し難い。


「この三つの輝ける星は、右上から時計回りに琴座、鷲座、白鳥座を示します」


 活動弁士顔負けの名調子。それに蓄音機から流れる音楽が上手く重なる。静かな曲は、前に書肆の上映会で聴いたチャイコフスキヰか。星の劇場という口上に偽りはなく、見るもの全てが珍しい。


 解説がひと段落済むと、不意に流星が端から端へと横断し、再び歓声が上がった。投影機の絡繰りは不明だが、演出も凝っていて観衆を飽きさせない。二流三流の喜劇映畫を観るより手応えがあり、人気を博すのも頷ける。


 天文舘の宣伝事業に携わる耿之介は、星の運行に添って流す音樂も凝りに凝ったと自慢する。続いて奏でられたピアノ曲は、エリック・サティという佛蘭西フランス人の手によるもので、柿落こけらおとしの際、愛蔵のレコードを寄贈したらしい。


「あ、あれ知ってますか。南十字星ですよ」


 隣の美少年が話し掛けて来た。天の河を辿って、投影機はくるりと翻って臀を頭に変え、南半球の星々を映し出す。壮麗で幻想的なれど館内の雰囲気は堅苦しくなく、私語も多かった。団体らしき學童が叫んだり笑ったり、手洟てばなを噛んだりと忙しい。


「南十字星の左下にある真っ黒の部分が、コールサックネブラ、暗黒星雲で御座います」


 序盤は児童向けとも思えたが、途中から解説も難解になり、後半は最高學府で教わるような専門用語も飛び交った。忠嗣はうとうとし、照明が戻る直前になって目醒めた。一方、與重郎は釘付けだったようで、絶賛して止まない。


「お終いの辺りも面白かったですよ。勉強になりました」


 上映時間は半刻はんときを少し超えるくらいだったか。キネマ座との大きな違いは、銀幕がまるく、二次元でありながらも立体的に視えることだ。観客自らが小宇宙に放り込まれた感覚もあり、体感という表現は決して大袈裟ではない。


「子供は眠たくなるだろうけど、最近は高度な知識も率先して披露するように変わりつつあるんだ」


 耿之介によると毎月繰り返し訪れる愛好家も多いという。東日天文舘の観客同士が親睦会を結成し、中には義捐金を支払う金持ちも居て、今や存在感を逞しくしていると話す。常連を満足させる工夫も大切で、また最新式の投影機はその要求に応えることが可能だった。


「もう一度、否、繰り返し来たいなあ。銀河に浮かんで漂っているかのような不思議な気持ちになりました。館内の昏い感じも抜群です」


「おやおや、これは愛好家がまた独り増えたかな。會員になると入場料金が少しだけ割引になるサアヸスもあるんだよね」


 会話を弾ませつつ、驛舎の煉瓦前に着くと、少佐がここで御暇おいとますると言い出した。急用を思い付いたのか、或いはっと眺めていた東日会舘壁面の電光掲示板と関係があるのか。


 この後、一同で銀座のパーラーに繰り出す予定だったが、圓タクを止めて飛び乗る。


「仕事なのかな。こんな、お盆の時期に」


 忠嗣は呆気に取られて見送った。民間の企業は押し並べて連休のはずである。掲示板は府内の赤痢患者増加等を伝えていた。少佐は衛生関連の業務に携わる公僕なのか。


「海の男じゃないにせよ、陸軍さんも月月火水木金金ですからね」


 美少年はそう笑ってから、酷く決まりが悪そうな貌をした。今、車で走り去った中年男。驚くことに少佐は本物の少佐だった。軍隊の階級、肩書きがそのまま金曜會での愛称に横滑りしたという。


 しかし海軍は別にして、陸軍の軍人は一兵卒から御歴々まで揃って角刈りのはずである。少佐はそこら辺の勤め人よりも襟足も長く、一見すると西洋気触せいようかぶれの藝術家。話振りに至っては下町の親爺だ。


「帝都の真ん中で真っ昼間に言う話じゃない。いや、これ内緒なんだけどね。少し変わった隠密の部署なんだよ」


 少佐の正体は、陸軍参謀本部の情報将校。士官学校を優秀な成績で卒業した本格派だった。昨年は列島と大陸の間を忙しく往復していたが、最近は極秘任務から離れて三宅坂みやけざかの本部に詰め、余裕綽々よゆうしゃくしゃく。実際は相当に暇なのか、金曜會を欠席することもなくなったという。


「それ、大きな声で言うたらあかんわ」


 御河童頭も生業なりわいを熟知していたのか、驚きもぜず、冗談めかして軽くあしらう。知らぬ存ぜぬだったのは、図書館の新入り二人組だけである。


 

<参考図書>

瀬名秀明『虹の天象儀』(祥伝社文庫)

織田作之助『わが町』(青空文庫)

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