69四話『焔立つ天文舘を新鮮な偽眼が瞶める』
車道の先に陽炎が立つ真夏の一日だった。日陰を探して男三人は日本劇場の前を
「待ち合わせ場所を帝國劇場にすれば良かったかなあ」
「あちらだと少し離れていて、この炎天下の中を余分に歩く
「今から海水浴場に向かうって手もある。去年は
「支度がないので無理ですよ。銭湯じゃあるまいし」
美少年は朗らかに笑い、忠嗣の提案を一蹴した。金曜會の面々は、夏か冬に年一度、遠出をすることが慣行になっているという。正月か盆の時期、全員の都合の良い日を選んで近郊に足を伸ばす。嘗ては一泊二泊する合宿もあった模様だ。
戀する司書は、革命的美少年と同じ宿に泊まる夜を夢に描き、鼻息を荒くしたが、小旅行は
せめて日帰りの海水浴で褌姿を拝みたかったものの、それも却下された。こちらは二人に増えた女性陣に配慮した措置だという。
「あれま、皆さん、早うからいらしてはる」
噂をすれば影だった。笹の葉模様が揺れる青藍の浴衣に、町娘風の派手な黄色い帯。団扇ではなく、
「それは、ええねんけど、今、黒眼鏡のめっさ怪しい男を見掛けたんや。顔中が髭だらけの
「まあ、変わった感じの女の子だったんだよ。寫眞家さんが何枚か撮影したんで、今度、現像して見せて貰うと良い」
少佐もまた若干、
「残るは後独りですね。
國電の有樂町驛ではなく、数寄屋橋方面から歩いて来る
こちらこそ舞台の踊り子のような燃える緋のワンピイス。日照りの中、帽子も被らず、頭には白いカチューシャを挿し、おでこを丸出しにする。近附くに連れ、先輩司書は彼女に違和感を覚えた。
「皆様、御機嫌よう。わたくし、少し遅れましたかしら」
無いはずの左眼が存在した。正確に言えば、新しい
ほかの面々も気付いた模様で、凝視する。等しく、驚いたに違いない。その中で銀髪の紳士だけは、したり顔で北叟笑む。何らかの事情を知っている風だ。偽眼に惚れ込み、欲しがっていた男である。
新しいものを彼女が嵌めているということは即ち、念願叶って、以前の、使い古しの偽眼を入手したのではないか。
おい
「ええやん。一段と別嬪はんになりよった。カチューシャとも、よう似合っとる」
どのような感情、如何なる身体感覚なのか、凡そ他人には解せない。髪飾りと並べて称賛するなど、忠嗣には無遠慮にも不謹慎にも、また残酷にも思えたが、後輩書記は実に誇らし気な様子で、堂々と、臆するところは寸分もなかった。
「見えて来ました。あれです。屋上の丸いやつ」
煉瓦造りの暗い高架下を過ぎて間もなく、真新しいビルヂングの
八階を越す背丈のビルヂングには、東日會館の文字も掲げられる。東京日日新聞の新社屋で、その屋上に
「もう宣伝する手間は要らない程の大人気で、正に千客万来。実に有り難い」
耿之介は
最上階の入場口に到ると、案内役の銀髪紳士は
<注釈>
*東日天文舘=昭和十三年十一月に開館。年間の入館者は百万人を超えたとされる。昭和十八年に名称を「毎日天文館」と改めるが、空襲に伴う火災で投影機などを焼失。稼働期間は短く、残存資料も少ない。
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