69四話『焔立つ天文舘を新鮮な偽眼が瞶める』

 車道の先に陽炎が立つ真夏の一日だった。日陰を探して男三人は日本劇場の前を彷徨うろついたが、入場口附近の円い壁は強い陽射しを正面から受け止め、涼める箇所はなかった。


「待ち合わせ場所を帝國劇場にすれば良かったかなあ」


「あちらだと少し離れていて、この炎天下の中を余分に歩くざまになるね」


 杜若與重郎かきつばた・よじゅうろう垣澤耿之介かきざわ・こうのすけである。忠嗣が到着した時、二人は既に待ち合わせ場所に居て、汗を拭っていた。酷暑の午後、帝都一の繁華街。蝉の合唱は遠く、自動車の呻き声がかまびすしい。


「今から海水浴場に向かうって手もある。去年は鵠沼くげぬまに詣でたとか聞いたし」


「支度がないので無理ですよ。銭湯じゃあるまいし」


 美少年は朗らかに笑い、忠嗣の提案を一蹴した。金曜會の面々は、夏か冬に年一度、遠出をすることが慣行になっているという。正月か盆の時期、全員の都合の良い日を選んで近郊に足を伸ばす。嘗ては一泊二泊する合宿もあった模様だ。


 戀する司書は、革命的美少年と同じ宿に泊まる夜を夢に描き、鼻息を荒くしたが、小旅行ははなから想定外だった。妹君の病いが関連し、たとえ一夜でも屋敷をける訳には行かぬようだ。


 せめて日帰りの海水浴で褌姿を拝みたかったものの、それも却下された。こちらは二人に増えた女性陣に配慮した措置だという。


「あれま、皆さん、早うからいらしてはる」


 噂をすれば影だった。笹の葉模様が揺れる青藍の浴衣に、町娘風の派手な黄色い帯。団扇ではなく、いかめしい寫眞機を手に持つ。後方には少佐。驛頭えきとうで顔を合わせ、指定の時刻まで銀座界隈をぶら附いていたと語る。


「それは、ええねんけど、今、黒眼鏡の怪しい男を見掛けたんや。顔中が髭だらけのあんさんで、妹なんやろか、短い巻き毛のどえらい美少女を二人連れとった。しかも、娘は双子みたいやったな」


 永池櫻子ながいけ・さくらこは、酷く亢奮した口振りだ。坊主頭の小僧も伴った風変わりな四人組で、娘に道を尋ねられたという。宝塚か大阪松竹の踊り子に違いないと決め付けるが、見ていない者にとっては、どうにも関心の薄い話だった。


「まあ、変わった感じの女の子だったんだよ。寫眞家さんが何枚か撮影したんで、今度、現像して見せて貰うと良い」


 少佐もまた若干、たかぶっている。女性の好みなど絶対に語らない堅物で、勿論、妻帯者とあって男色の趣味はないが、意外にも低年齢の女には興味を抱くようだ。さすがは金曜會の古参。変態の素地や地金があるのかも知れない。


「残るは後独りですね。真逆まさか、車で来るってことはないですよね。あ、来ました、来ました」


 國電の有樂町驛ではなく、数寄屋橋方面から歩いて来る九鬼須磨子くき・すまこの姿があった。青山方面から地下鐡ちかてつで参ったという次第か。


 こちらこそ舞台の踊り子のような燃える緋のワンピイス。日照りの中、帽子も被らず、頭には白いカチューシャを挿し、を丸出しにする。近附くに連れ、先輩司書は彼女に違和感を覚えた。


「皆様、御機嫌よう。わたくし、少し遅れましたかしら」


 無いはずの左眼が存在した。正確に言えば、新しい偽眼いれめだが、右側と全く同じ色艶で、双眸はぴったり一致する。忠嗣は感嘆し、ひと言触れようとしたところで慌てて言葉を呑み込んだ。


 ほかの面々も気付いた模様で、凝視する。等しく、驚いたに違いない。その中で銀髪の紳士だけは、したり顔で北叟笑む。何らかの事情を知っている風だ。偽眼に惚れ込み、欲しがっていた男である。


 新しいものを彼女が嵌めているということは即ち、念願叶って、以前の、使い古しの偽眼を入手したのではないか。


 おいれと訊けず、繁華街の真ん中で口にするなど有り得ないが、忠嗣は確信する。頂戴した古い偽眼を自室でこっそりと愛でる姿が瞼の裡に浮かぶ。度を越えた変わり者。変態紳士と呼ぶに相応しい。


「ええやん。一段と別嬪はんになりよった。カチューシャとも、よう似合っとる」


 一行いっこうが省線の高架下を進んだ時、御河童頭が誉めた。場の空気を読み取らない唐突な発言で、危うさも漂っていたが、豈図あにはからんや、須磨子は素直に受け取り、嬉しそうな顔をした。


 どのような感情、如何なる身体感覚なのか、凡そ他人には解せない。髪飾りと並べて称賛するなど、忠嗣には無遠慮にも不謹慎にも、また残酷にも思えたが、後輩書記は実に誇らし気な様子で、堂々と、臆するところは寸分もなかった。


「見えて来ました。あれです。屋上の丸いやつ」


 煉瓦造りの暗い高架下を過ぎて間もなく、真新しいビルヂングの天辺てっぺんに茶碗を逆さにした恰好の奇妙な構造物が見えた。通りの反対側から一同で仰ぐ。有樂町駅の西口に誕生した新名所、東日天文舘とうにちてんもんかん*だ。


 八階を越す背丈のビルヂングには、東日會館の文字も掲げられる。東京日日新聞の新社屋で、その屋上に天象儀てんしょうぎを設けた。大阪の電氣科學舘に続く、本邦二番目の天文舘で、昨年暮れにお披露目されて以来、大勢が押し寄せる名物となっているらしい。


「もう宣伝する手間は要らない程の大人気で、正に千客万来。実に有り難い」


 耿之介は廣告社こうこくしゃの仕事で東日天文舘に関与していた模様だ。当代の人気役者が噺家が舞台に上がるでもなく、興行としては地味な印象を否めなかったが、蓋を開けると大盛況。都会人は兎角とかく、新しいものに眼がない。


 最上階の入場口に到ると、案内役の銀髪紳士は掛員かかりいんに顎で挨拶し、一行を中に招き入れた。閲覧券を求める列に並ぶ必要もない。関係者か優待客扱いで、座席は果たして上等席と言えるのか、機械に一番近い席のようだった。



<注釈>

*東日天文舘=昭和十三年十一月に開館。年間の入館者は百万人を超えたとされる。昭和十八年に名称を「毎日天文館」と改めるが、空襲に伴う火災で投影機などを焼失。稼働期間は短く、残存資料も少ない。

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