68三話『悲愴な金魚鉢に華咲き乱れ、禽が群れ為す』
「物見遊山のようで申し訳ない」
導く與重郎の背に向けて、忠嗣は幾度も謝った。見物以外の何物でもなく、余興にしては不謹慎。一列に加わる気は僅かにもなかったが、書肆に居残るのも寂しく、猫背で腰も屈め、隠れるようにして従った次第だ。
屋敷の間取りや調度品に関心がないと言えば嘘である。離れの
「誰も
大叔母は夕食の配膳が済むと早々に床に就くという。櫻子が呟く通り、広い邸宅に人の気配はなく、磨かれた床板の艶がなければ、空家と見紛うに違いない。
「あれが前に話してた舶来のオートバイか。ぱっと見た感じ、整備しているようだな。吾輩はこっちに興味がある。跨ってみても宜しいかい」
少佐が眼を輝かせると、與重郎は電燈のスイッチを捻った。広々とした土間、以前は自動車が鎮座していたと語る場所に、大型の
「
土間に置かれた雪駄を突っ掛け、少佐が獲物に近寄ると、何故か、耿之介も付き添った。
「私は遠慮して、ここで待っているよ。大勢で押し掛けたら
仰せの通りである。上野恩賜動物園ではあるまいし、
「これ、與重郎君も乗り回したりするのかい」
「いいえ、大き過ぎて僕でも取り回しが厄介です。専ら
少佐は
土間を過ぎて廊下を突き当たりまで進むと、香りは
「そろりそろりとお願いします。
母屋の一番奥、長い廊下の涯に階段があった。奈落の底に堕ちるかのような急勾配。地下牢なる不穏な言葉が忠嗣の頭を
「おや、まあ」
先に進む女は、驚きの声を上げた。案内する與重郎は
輝きと香りの溜まるところ。女性陣が驚嘆するのも無理はない。急な階段の下には花園があった。
白い
「幸い眠って
先導する美少年が囁く。無数の華に囲まれて、妹の
「美しい。何もかもが美しい」
須磨子が一歩踏み出し、ぼそりと呟く。しかし、それ以上は近寄れない。隔てる
再び、地下牢という呪わし気な言葉が忠嗣の脳裡を擦過したが、裏階段の下に存在する
格子も壁も天井も空色に塗られ、眼前の空間は、ひとつの
金魚鉢と言い換えても良い。白と朱、斑らの
「夕餉が済んで間もなく、処方された薬を飲んで寝付きます。上手く作用しないこともありますが、今夜は程良く効いているようですね」
「病いを治す薬ではなく、眠り薬でしょうかしら」
須磨子が問うと、與重郎は哀し気な貌で首肯した。彼女の語気は微妙に荒く、格子を握り締める手にも力が籠っている模様だった。色々と思う事柄があるにせよ、治療法に関しては他人が兎や角、論ずるところではない。
「あれ、
金魚鉢の脇、地階の奥から大男がぬっと出て来た。
「誤解があってはならないので、案内したんだ。御免ね、騒がしくして」
「この時刻は概ね大丈夫です。一服の効き目がありますので」
納戸に
そして、帷が開いたことにより、懐かしい匂いの正体が判明した。彩り豊かな華の芳香が凝縮したのではない。一条の煙を棚引かせる線香だ。
墓所で焚くものとは形状が異なり、小さな三角錐であるが、その香りは白檀に他ならなかった。果たして、花束も御香も精神の安定を図る為のものか。
「與重郎はん、あの壁にようけある折り紙は何やろ。千鶴ちゃんが
金魚鉢の縁に、極彩色の
「妹の数少ない道樂です。幼い時分から千代紙遊びが好きで、実に几帳面に端を合わせて折るんです。作業中は我を忘れたかのように夢中で、療法になるかと思ったのですが、そう簡単にはいかないですね」
偶然でも洒落でもなく、
「切ないものです。ここに溢れ返り、古くなった鶴を除けて、僕の部屋などに飾っているんですが、その膨大な量は、患いの永さを物語り、形に残しているかのようで、眺めては時々、辛くなります」
忠嗣も胸を傷めた。千羽鶴は願いを叶えることなく増殖し、部屋を埋め尽くす。喪った時間の蓄積。多感な思春期を無為に過ごした無念の、或いは絶望の累積。遣る瀬無い想いが降り積もる。
「そろそろ上がろうかとも。ここ、消燈しなくって良いのかな」
「はい。
眠れる姫を肴に会話することは配慮に欠け、礼儀に
「事情は判ったかい」
階段を昇ると、待ち構えたかのような耿之介の姿があった。ほんの数分の置いてけ堀だが、無聊を
「蔵元でもないのに、地下室があるって妙に思えないかい」
寸前で辞退したものの、耿之介は地下の間に深い関心があるようだった。面々の中では最も古くからこの屋敷に出入りする人物。廊下の突き当たりに階段が設けられ、特別な部屋があることも当然、知っていた。
「後で格子戸を付け足したんやないんか」
「色は佐清君が塗ったけれど、
旧幕時代の座敷牢、明治以降に制度化された私宅監置。
「
自慢気に推論を捲し立てることはなかった。耿之介は話の途中で、聴く者を不愉快にさせると気付いたのか、慌てて修正を計ったが、無駄な足掻きだった。
紳士にしては珍しく迂闊な、縁起でもない発言。美少年も御河童頭も眼を細め、露骨に嫌がる。明らかな失言だ。
須磨子に至っては
<注釈>
*ロイアルヱンフイルド=ロイヤル・エンフィールド。英国製の大型バイク。英メーカーの倒産後、生産拠点をインドに移し、ブランドを継続。また、和製英語の「オートバイ」は昭和初期までに定着した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます