65七話『狐憑きに違いない、と偽眼の淑女は言った』

 俄かに会話が滞ったところで、忠嗣は閃いた。後輩書記が象徴的に用いる肉慾という言葉が鍵を握る。乙女雑誌と小説の課題図書は、彼女の趣味趣向を示すものに非ず、肉慾に塗れた勃起男に与えられた教科書だったと理解した。言わば純愛のすゝめ、純愛の哲学。そこに張型はりかたの出る幕はない。


「男同士であっても擬似姉妹のように貞淑にして貞節を守れ、と呼び掛けているような、いないような……」


懸想けそう戀心こいごころが自身をつややかにさせると仰っていたじゃ御座あませんか」


「そんなこと言ったっけかな」


 掴み処のない、縹緲ひょうびょうたる禅問答でも、忠告でもなかった。美少年と二十七歳の凡庸な男。それを不釣り合いと認め、忠嗣が一方的に言い寄って関係が破綻することを懸念したのでもない。須磨子は、與重郎の身の上を酷く心配していたようだ。


「私生活は苦渋に満ちています。考えても見て下さい。妹の千鶴ちゃんは常に見張りが必要なくらい深刻な病状で、気が安らぐ暇も僅かと存じます」


 的確な指摘である。繰り返すメランコリイとマニイ。鬱の状態は知らねども、躁の折は対処が難しく、與重郎が実に丁寧に、脇眼も振らず、妹君を宥めすかし、懸命に取り組んでいた。その心労たるや、おいれと他人が推し量って良いものではない。


 詰まり、永患ながわずらいの家族を抱える中、余計な負担を掛けてはならぬと言うのだ。かれは進學を控える中等生でもあり、色戀に溺れる余裕などない。想う気持ちがあるのならば、ここは恬淡てんたんに、心掻き乱すことなく、進んで支えになるべき……須磨子は教壇に立つ女教師のように、そう諭した。


「御説、御尤ごもっともです」


 忠嗣も妹君の奇矯ききょうな振る舞いに度肝を抜かれ、病いの重さに心を傷めたが、兄君の気苦労までは気が回らなかった。肉慾に偏り、渠を慰る気持ちが欠落していたのだ。大いに反省すべきである。


「御母様が亡くなられたのは、二年ほど前と伺いました。以来、のこされた兄妹は寄り添って慎ましく暮らしております。他人といえども関係なしに、助けが要ります。親身なって励まし、具体的に手を差し伸べ、支援すべきところです」


 母親の不在は早い時期に忠嗣も耳にしていた。病没である。しかし、遥か昔と勝手に解釈し、二年ばかり前とは知らなかった。最近とも言える。おもかげは未だ鮮やかに残り、追悼の念も色濃いはずだ。そして父親もまた、病床に臥し、屋敷を離れて養老院に移ったと聞く。


 絶え間なく押し寄せる不幸と悲劇の大濤おおなみ。支えを喪った兄妹は波打ち際で手を取り合い、退しおにも足をすくわれ、危うくたおれ掛ける……そんな光景が閑人の瞼の裡に浮かんだ。


 與重郎は陰翳を好みたっとぶが、本人に寄るくらい陰は僅かにも認められなかった。努めて明るく闊達かったつで、藝術を愛する若き趣味人。帝都山手の広い屋敷に住む二代目店主である。


 何不自由なく、見目麗しく、誰しもが羨む境遇にあると思い込んでいたが、実相は異なった。


 忠嗣は自らの視野の狭さに愕然とし、恥じ入る。


「九段富士見の屋敷には大叔母が控え、切り盛りしているとか。家庭内の具合に首を突っ込むのは余計な世話で無粋と思っていたが、手を差し伸べるとなれば、ある程度知っておく必要に迫られるな」


「二人居た女中もひまを出されたか、加齢で退いたのか、今は佐清すけきよさんが一切の雑務を引き受けていらっしゃるとも伺いました。立派な屋敷ですけれど、尋常ではなく、歪みがあるようにも見えてしまいますわ」


 自身の青山の邸宅と比較しての考察である。忠嗣には部屋の数に見合う下男下女の陣容など知りようもないが、佐清ただ独りという状況は不自然に思えた。先の金曜會の乱入騒ぎも、彼が外で修繕に励んでいたことが原因であったのだ。


 大叔母は一度電話で声を聞いただけで、実際に会う機会は未だ巡って来ない。存在感も希薄だ。耿之介経由で何か知り得た事柄はないか、先輩は軽く探りを入れたが、後輩は全く関心がないようで、実に素っ気ない。


「優先すべき課題は、千鶴ちゃんです。難しい病いと聞きましたけれど、治らない病気ではないとも。本当に可愛らしい顔立ちのお嬢さんで、あのような可憐な少女に出会った経験はついぞ御座あませんでしたの」 

 

 紅茶のカツプを恭しく置き、仰々しく言った。微かなみを造り、頬には限りなく淡い朱が差したようにも見えた。


 須磨子の高尚なる趣味を思い起こすまでもない。対座する先輩司書が、あの書肆で革命的美少年と出会ったのと同様、後輩書記はそこで美少女と巡り逢ったのだ。


 疑惑ではなく、告白。千鶴女ちづじょの名を口にする度、須磨子は妖しく微笑み、髪の黒さや肌の白さを賞賛した。また、運命的な引き合わせだと信じている節もある。


「何処の女學校に籍を置くのか、訊いてみましたら、それが附属高女だと言うじゃありませんか。歳は少しばかり離れておりますものの、純粋な後輩です。幼稚園まで同じ」


 附属高女とは、須磨子が卒業した東京女子高等師範学校の系列校で、幼稚園から一貫して通う生徒も多いという。男子禁制だんしきんぜいとも言える学びで、正に女の園。乙女雑誌で描かれるエスの世界を現実に落とし込んだかのようにもて取れる。


 その透明感溢れる花園は、純潔にして清浄、たっとき聖地に違いないが、忠嗣は違和感を覚えた。焦がれる想いと憧れを滔々と語る須磨子は、右眼を若干充血させ、飢えたる獣、獰猛な豺狼さいろう髣髴ほうふつとさせる。


 忠嗣は、妄想と理想が絡み合って築かれる擬似的なシスタアの意味を今一度、噛み締めた。刹那的な男色よりも時間的な奥行きがあり、そこに沈澱し、渦巻く情念はとして重々しく思えてならない。


 忘れた頃に届いた濃い味のカルピス。出前持ちの女給に眼もれず、彼女は千鶴女を激賞して止まぬ。男色の肉慾を強く批判し、説教調で捲し立てた挙句、その様は貪欲に見えた。職務中に持ち場を長く離れ、ケエキをついばんでいることすら忘れているようだ。


 言葉遣いや仕草は淑やかなれど、その実、色慾に溺れた不良娘と化している。忠嗣が及び腰になる中、彼女は最後に不穏な、柄に似合わぬことを口走った。


「千鶴ちゃんは癲狂てんきょう破瓜病はかびょうではなくって、わたくしは、狐憑きに違いないと思うのですわ」

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