64六話『肉慾に溺れたる男色紳士、遂に説教を喰らう』

「切っちゃったのですか。それ、巌谷いわや司書の本では御座あませんよね。まあ、宜しいのですけれど」


 許された。番町ばんちょう産の猥褻な寫眞集を棚に納めようとした矢先、禁書庫の扉が開き、台車を押す須磨子が入って来たのである。


 文机の上には、裸の少年の切り抜きを置いたまま。誤魔化しようもなく、怒号を覚悟しつつ素直に認めたところ、意外にも平穏無事だった。


「棄てる所存の畫集がしゅうでしたから、煮ても焼いても怒りはしません」


「そうなのか。でも、この本、櫻子さくらこさんから買ったか貰ったかした貴重品でしょ」


御近附おちかづききのしるしだと申されて頂戴したものです。趣味に合わない以前に、それって所持するだけでも逮捕される嫌らしい本で御座あましょう。処分しようにも方策が浮かばず、何なら禁書庫へと」


 須磨子はそう言い訳をしつつ、台車に載せて持ち寄った書籍を一冊一冊、自ら手に取って慎重に棚に納める。旧来、後輩書記は搬入するだけで、棚への収納は先輩司書の役割だった。扉口に仁王立ちし、威丈高いたけだかに指示する。それが今や豹変し、閑人の手を煩わせることもない。


「棄てるだけでしょ。残飯とか洟紙はながみとかそんな諸々と一緒くたに廃棄するだけだし」

 

「良く良く考えるまでもなく、わたくし、ごみの棄て方を知らないんです。不要になった本ばかりか、壊れた人形や化粧道具、絨毯の落ちた抜け毛に至るまで、仲働きが片付けてくれまして、それらが何処へ向かうのか存じません」


 不要品の棄て方を全く知らぬという。常軌を逸する、と忠嗣は腰を抜かし、畏れ入った。深窓の令嬢と白痴女は紙一重だ。自宅での処分に不都合があるのなら、通勤の途次、道端か溝川どぶがわに投擲すれば済む。

 

「棄てる動作を誰かに目撃される恐れがあります。悪いことは大抵、露見して問題に発展します」


 考え過ぎである。世間の関心なぞ浅く儚く、通行人の振る舞いを気に留める者こそ珍しい。


「自分で棄てようとせず、女中や、そう、運転手にでも頼めば良かろうに」


松風まつかぜですか。誰かに贈るのではなく、棄てるとなると行方は定まらず、密かに保存する可能性もありますわ。殿方は、ああいうのお好きなのでしょう」


「小職にかれても断言しかねるが、まあ概ね隠し持ち、時々、こっそり眺めるかと」


 紙袋に詰め込まれた寫眞集の謎は、種を明かせば単純だった。処分に困り、猥本の棲家とも言える禁書庫に搬入した次第だ。


 一方、課題図書と銘打たれた乙女雑誌と小説は意義も明確。須磨子が自らの趣味、女性同士の愛に関する偏見を是正し、啓蒙しようと図ったものである。


 長編は冒頭と最後しか読んでいないが、書物のマイスタアたる司書は心得た。可憐にして純情。散りも枯れもせず、久遠に咲き誇る男子禁制だんしきんぜいの花園。無垢の聖域。つらぬき貫かれる男色の流儀とは異なる。


「乙女雑誌は初めて閲覧したが、未知の世界で啓発される部分も少なくなかった。女同士、張型はりかたで戯れるのかと思っていたら、だいぶ趣きが違うようで……」


「え、とは何で御座あますか」


 驚くことに須磨子は張型を知らなかった。とぼけているのではなく、表情から鑑みるに本音だ。本邦を代表する性具で、浮世絵にも登場するほか、書肆グラン=ギニョヲルには使用感にち満ちた実物が陳列されている。


 更に問答すると、課題図書は自身の趣味を代弁するものに非ず、先輩司書を指導鞭撻し、軌道の修正を促す教材だった。


 意味不明で、真意が推し量れない。忠嗣が困惑を深めると、後輩はひとつふたつ咳払いして身構え、ソファアに座るよう勧めた。最早、いずれが此処ここの主か分からぬ。


「お待たせ致しました。あら、御一方おひとかたではなく。追加の注文をなさいますか」

 

 都合が良いのか悪いのか、時同じくして女給が禁書庫に現れた。出前である。盆にはショオトケエキと紅茶の急須。須磨子は当面、居座る心構えでやって来たようだ。永い説教の始まる予感がしないでもない。


「それじゃ、小職はカルピス。氷は少なめでとしたのを頼みます」


 去り際、女給は文机を一瞥して眼を細め、次いで羞じらうような仕草を見せた。そこには寫眞集から切り取られた少年の全裸姿があるが、取り立てて不謹慎とは言えぬ。ここは禁断の書が眠れる場所で、綴じられた裸体は数限りない。


「巌谷司書は、どうなさりたいのですか」


 抽象的な質問に忠嗣は当惑した。女給絡みで主要な部分を聞き逃したとは思えぬ。叱責する女教師にも似た口振りだが、憤怒の相は陰もなく、寧ろ常より穏やかで、彼女自身も困惑しているかのようだった。


「え、話が見えないけれど、何をどうすると……」


杜若與重郎かきつばた・よじゅうろう君のことです。交際を所望しているようですが……男同士という点は一分いちぶの問題も御座あません。しかし交際の目的が如何わしく、その、痛みを伴うと申しますか、何と言って良いのやら」


 詰問される生徒の勘が鈍く、頭の回転が遅いのではない。教鞭を執る側が直截的な言い回しを避け、濁しているのだ。


「益々、禅問答めいて来たな。愚直な戀心であって、惚れた腫れたに如何わしさも不純な動機もないし」


「聞いたところでは、肉慾に肉食で、荒々しく勇ましいとか」


 御河童頭から核心の情報を得たことは確実だ。奏樂堂からの帰路、櫻子は勃起した魔羅を布越しに発見し、それを肉慾と称した。


 忠嗣は後輩が口籠る理由に気付いたが、ここで菊門やら口淫やらの具体的な用語を告げたなら、衆道に疎い淑女は卒倒するに違いない。ここは終始朧げに、隠喩に暗喩を折り重ね、曖昧模糊と説くべきだ。


懸想けそうは粋の最初の原理で、所作に媚態が生じる。泥棒猫に掻っ攫われる悲劇をおそれ、意気地も逞しく、粘りに粘って四股を踏む。但し、そこには想いを遂げられぬとの諦観ていかんも横たわり、破滅の旋律は予定調和の如く、幕が開ける前から胸の裡に鳴り響く」


 思い付いた単語を並べただけで、当然、須磨子は口を半開きにしたまま、眉根を寄せる。晦渋かいじゅうを極め、相手を如法闇夜にょほうあんやに招き込む話術の一種。論争に窮した似非知識人が使う手である。

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