63五話『禁書庫の閑人が乙女小説を精読する』
禁書庫に入るなり、忠嗣は亢奮を隠せなかった。
日頃と同様、正午過ぎに出勤したことを後悔した。袋の中から古本特有の匂いが漂って来る。贈答品だろうか。内容物は検めるまでもなく、書籍と知れた。
「あれ、封筒があるぞ」
取手の付け根、茶封筒が
「
たった四文字で、味も素っ気もない。贈り主が美少年でないとすれば、容疑者は独りしか居ない。日常的に帝國圖書館に出入りし、書肆にも通う人物。それは図書の内容からも鮮明に浮かび上がった。
「男子たる者、読むはずもないが、名前は知ってるな。乙女雑誌ってやつか」
『
「後輩書記さんは、こんな本を読んでいるのか。乙女趣味は他人事で兎や角論ずるところではないにしても、課題とは」
つらつらと雑誌の頁を捲って、忠嗣は閃いた。今後、金曜會で取り上げる予定の話題に相違ない。凡そ耿之介の趣味とは掛け離れているものの、その実、少女向けの雑誌には隠語が鏤められていて、グロテスクな側面やエロの裏面が多分に存在する……
そう信じ込み、注意深く、丹念に読み始めた。
最初に手にした雑誌は『少女の友』。巻頭の目次に記された川端康成の文字が眼に留まり、意外に感ずると共に興味を覚えた。
金曜會で鑑賞した
可憐な乙女の物語と見せ掛けて、周到に老練に、狂気と怪奇と嗜虐とを複雑に編み込んでいることは疑いようもなかった。先ず隠語を探る。
「いや、しかし、割と真正直で誠実だな。比喩で包み隠しているようには読めないし、純粋にして純潔。卑猥な聯想に繋がりそうな描写もない」
『乙女の港*』と題された小説は、不運な巡り逢わせが連なり、主人公の希いとは裏腹に話は進み、
「清潔にして清浄、清楚。
発禁処分の男色本と売れ筋の雑誌を比較することが先ず間違いである。乙女雑誌は親が娘に買い与える場合もあり、教育効果を狙い、道徳を説くといった要素も多分に含まれる。対象の読者は尋常の上級生から高女、更に思春期を超えた女性に及ぶ。
忠嗣も高等官として雑誌の性質を知っていたが、それでも物足りなさは禁じ得ない。一緒に紙袋に入っていた二冊の圓本も同様に清純な物語で、こちらは文學の香りが濃厚だった。
「名高い女流作家だな。筆名は女でも中身は変態の髭親爺だったりとか、そんなことはないか」
著者は、婦女子から圧倒的な人気を誇る
金曜會で演題となるのであらば、精読し、感想を書き留めることも
しかし、読み進めるに従って違和感は肥大化し、固まった。小説は秀逸で、天才の筆運びと感服するが、背後に歪んだ感情や澱んだ情念はなく、透明感に満ち溢れている。
屍体愛好家の銀髪紳士が、これらを叩き台に講釈を垂れる姿は微塵も想像できない。金曜會とは無関係なのではないか、との疑念は間もなく確信に変わった。
「だとすれば初めに翻って、課題とは一体全体、何だろう」
袋詰めの本と雑誌の束を据えたのは、
実際に短編を幾つか読破したところで、忠嗣は自身の見当違いを認めた。男色に対応する概念とは言い難い。少女が夢中になる一連の文学作品はエス小説とも呼ばれ、彼女らが
エスは英語の「S」で、シスタアの頭文字。それを女性同士の愛慾の隠語と断ずることは出来ない。姉妹のような親密な間柄、擬似的な姉妹関係と言い表しても支障なきもので、
検閲を逃れる為に
男色の艶本は勃起に始まり射精で終わるが、エスの世界は常に誰しもが純真無垢で、荒々しい性的亢奮とは一線を
「それなら
忠嗣は『花物語』を閉じ、文机に置いた。表紙は、これも人気を博す当代一流の
広げた雑誌類を紙袋に戻そうとした時、底に異物を発見した。半紙か障子紙か、丁寧に幾重にも梱包されている。無造作に、びりびりと汚らしく破くと、
「ええ、これも課題図書の一冊なのか」
単なる裸婦ではない。大股開きで秘処を丸出しにし、妖艶に淫らに微笑む。淡白な表紙には小さな活字で『神楽坂美人畫集
閑人の瞼の裡に、
薄い本である。意識せず、試し見すると最後のほうに裸の少年が映り込んでいた。枕絵ではない。
「ええと、
秘蔵に値する寫眞。隣の遊女を縦に切り裂く具合で、鋏を入れた際に他人の図書だと気付いたが、一向に構わない。神経を研ぎ澄まし、几帳面に切り取った。
「一頁分なくなったけど、残りは
春画も猥本も閨房奥義書も大歓迎。風俗壊乱に安寧秩序紊乱、エロにグロのプロパガンダ、何でも御座れの
<注釈>
*『乙女の港』=昭和十二年から『少女の友』で連載が始まった大ベストセラー小説。川端康成の没後、芥川賞作家・中里恒子が草稿を書いていたことが判明する。
*吉屋信子=乙女小説の嚆矢で、女性の同性愛を肯定的に論じた。エッセイ『處女讀本』に帝国図書館に関する記述がある。
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