62四話『地下牢に隠伏せし笑い娘と眠れる姫』
発熱と微かな
「私は直接会っていないので、不確かではあるが、今に繋がらない別の病いだったのかも知れない。実際、それは始まりに過ぎなかった」
古くから書肆に出入りする
それが熱病を境に変わった。常に
「神経の変調、不具合との診断がなされた。瘧と無関係のメランコリイだ。
新たな学期を迎えた
「笑い娘の登場だ。見るもの触るもの全てが愉快で、叫び、
「
少佐は妹君の病気について知っていたが、対面したのは今回が初めてと語る。少なからぬ衝撃を受けた模様で、額の皺は一層深くなって元に戻らない。
「不定期に、相互に繰り返す。鬱だけの時は多少、普通に会話を交わせる場合もあったが、マニイが現れてからは完全に元の人格が奪われてしまったのようだ。御淑やかで賢い千鶴女は姿を見せてくれない」
「処方箋を見直すとか、担当の御醫者様を変えるとか、そういった方針の転換はなさらないのでしょうか」
珍しく息が荒い。須磨子は矢張り気持ちが
「マニイを鎮めるには薬が欠かせない。この時刻なら、催眠剤の一服で取り繕うことが出来る。多分、今、そうしているはずだね。対処するだけで改善には結び付かないけれど、治る病気だと担当醫は明言している。青山にある脳病院の立派な先生の言葉だ」
「それって、わたくしの家に近い病院ですわ。看板を見掛けます」
忠嗣の母校、國學院大學も近隣だった。青山脳病院*は
「皆さん、お騒がせ致しました」
布巾で手を拭いながら、美少年が戻って来た。ひと仕事を終え、疲労と安堵が
「机の上にあるレコオド盤がとても気になるのだけど、與重郎君、これ音鳴らしてみても良いかな」
会計卓に数枚のレコオドが置かれていた。それを売り物の蓄音機に載せて、澱んだ雰囲気を変えようという算段である。
「ええ、勿論。それは先程、お客さんから買い上げたものです。どれも名前は知りませんが、
金曜會が開幕する直前、顔馴染みらしき
「おや、意外にも軽快な音楽ですね。外面が綺麗だったので、言い値で引き取ったけれど、耿之介さん、
「いやあ、聞いた覚えもないな。知り合いに専門家が居るから聞いておくよ」
蓄音機から本場のジャズが流れて来た。太鼓の音がやけに目立ち、そこに弦樂器の野太い低音が絡まる。少し煩いくらいが丁度良い。小降りになったと
「あのう、躁の状態は突然、現れるのでしょうか。こう、予兆のようなものがあったりはしないので御座あますか」
配慮に欠ける女が独り居た。話題を切り替えようと各人が図っていることに全く気付いていない模様だ。忠嗣は先輩として恥ずかしくも感じたが、須磨子の面持ちは真摯で、可哀相な妹君を心底、気遣っているように見えた。
そこに人としての過ちはない。青山在住の御令嬢もまた左眼に
「兆しはありません。強いて挙げれば
與重郎は嫌がる素振りも見せず、淡々と話した。今日は不運が重なったという。
強風で屋敷裏手の
「強く押したのか、鳴動で
一部、不明瞭ではあったが、妹君は器用にも奇妙にも、ヘヤピンなどを使って鍵という鍵を巧みに開けてしまうという。内鍵など無いに等しく、ある時、家人の誰もが寝静まった真夜中、独りでふらふらと外に出て、騒ぎになったと明かす。
遊里の夜更かしが幸いし、近所で顔見知りの
「毎夜、佐清が外を巡って全ての外鍵を閉めるのです。ただ、万が一にも火事が起きた場合、家人は閉じ込められてしまいます。そこで、扉の叩き壊す為に備えているのが、あの無骨な刃物なんです」
美少年が差した指の先、
「部屋の
日当たりの好い二階の角部屋から移さざるを得なかった。一階ではなく、地下。母屋の客間近くに下に伸びる階段が存在し、暗がりの奥に妹君は住まうという。当然、窗はなく、代わりに格子が設けられる。
忠嗣は身震いを抑えられなかった。與重郎は
明るく軽快なジャズは何時の間にか終わり、替わって哀調を帯びた曲が蓄音機から静かに流れていた。
<注釈>
*青山脳病院=歌人の斎藤茂吉が院長を務めたことで知られる。芥川龍之介も通院し、遺稿『歯車』の中に描写がある。
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