62四話『地下牢に隠伏せし笑い娘と眠れる姫』

 杜若千鶴かきつばた・ちづるは昨春に異変をきたした。


 発熱と微かなふるえ。おこりを病んだかのような症状で、一旦、平熱に戻ったかと思えば再び全身が火照ほてり、うなされる。大正期に流行した西班牙スペイン風邪にも似て、懸念した家人は彼女を醫院に運んだが、感染症の類いに非ずと診察されただけだった。


「私は直接会っていないので、不確かではあるが、今に繋がらない別の病いだったのかも知れない。実際、それは始まりに過ぎなかった」


 古くから書肆に出入りする耿之介こうのすけは、兄妹を良く識る。玩具を与えて遊びを教えたり、季節を問わず行楽に赴いたりと交流を深めた。活発にして朗らかで、笑顔を絶やさぬ少女だったという。


 それが熱病を境に変わった。常にふさぎ込み、言葉も乏しくなり、昼間に眠ることも多くなった。転寝うたたねではなく、昏睡。失神したかの如く、夢境むきょう彷徨さまよう。


「神経の変調、不具合との診断がなされた。瘧と無関係のメランコリイだ。千鶴女ちづじょは独り暗い部屋に籠り、日々を鬱々と過ごすようになってしまった」


 新たな学期を迎えた高女こうじょも休學。書肆に顔を出すこともなくなった。僅かに言葉を交わすのは、兄の與重郎と佐清すけきよのみ。処方された丸薬も一向に作用せず、このまま症状が引き続くのか、と界隈の者までもが暗澹とした頃、次なる変化が起きた。


「笑い娘の登場だ。見るもの触るもの全てが愉快で、叫び、哄笑こうしょうし、ところ構わずけ回る。詳しく説明する必要はないよね。さっきここで起きたことが全てを物語っている」


所謂いわゆる、躁鬱って病気か。稀にあると聞くが実際にの当たりにすると、相当に落差が激しいんだな」


 少佐は妹君の病気について知っていたが、対面したのは今回が初めてと語る。少なからぬ衝撃を受けた模様で、額の皺は一層深くなって元に戻らない。


「不定期に、相互に繰り返す。鬱だけの時は多少、普通に会話を交わせる場合もあったが、マニイが現れてからは完全に元の人格が奪われてしまったのようだ。御淑やかで賢い千鶴女は姿を見せてくれない」


「処方箋を見直すとか、担当の御醫者様を変えるとか、そういった方針の転換はなさらないのでしょうか」


 珍しく息が荒い。須磨子は矢張り気持ちがたかぶっているようだ。眼の前で繰り広げられた光景は刺戟が強く、婦人であれば恐怖を感じ取ったとしても已むを得まい。

  

「マニイを鎮めるには薬が欠かせない。この時刻なら、催眠剤の一服で取り繕うことが出来る。多分、今、そうしているはずだね。対処するだけで改善には結び付かないけれど、治る病気だと担当醫は明言している。青山にある脳病院の立派な先生の言葉だ」


「それって、わたくしの家に近い病院ですわ。看板を見掛けます」


 忠嗣の母校、國學院大學も近隣だった。青山脳病院*はつとに知られた癲狂院てんきょういんで、大火に見舞われた後、母体は荏原えばらに移転したが、同地には分院が残る。九段から通うには少々遠くとも、現在は薬を貰い受けるだけで、労は少ないという。


「皆さん、お騒がせ致しました」 


 布巾で手を拭いながら、美少年が戻って来た。ひと仕事を終え、疲労と安堵がい交ぜになったかのような表情。妹君の御転婆おてんばは収まっていないが、佐清すけきよが面倒を見ているという。 


 かれが復帰したのを受け、櫻子は珈琲を淹れるべく席を立ち、耿之介も慌ただしく動いた。


「机の上にあるレコオド盤がとても気になるのだけど、與重郎君、これ音鳴らしてみても良いかな」


 会計卓に数枚のレコオドが置かれていた。それを売り物の蓄音機に載せて、澱んだ雰囲気を変えようという算段である。


「ええ、勿論。それは先程、お客さんから買い上げたものです。どれも名前は知りませんが、亞米利加アメリカの音楽らしいです。最新流行のジャズって言っていたかな。本邦には一点しかない貴重品との売り文句で、取り敢えず引き取りました」


 金曜會が開幕する直前、顔馴染みらしき侏儒しゅじゅがヴァイオリンを弾いていた。彼が売り捌いた外国のレコオドに違いない。忠嗣には売り文句と質入れする行為が矛盾を孕んでいるようにも思えたが、価値も素性も知らず買い上げる與重郎こそが天晴れである。


「おや、意外にも軽快な音楽ですね。外面が綺麗だったので、言い値で引き取ったけれど、耿之介さん、樂士がくしの名前とか知っていますか」


「いやあ、聞いた覚えもないな。知り合いに専門家が居るから聞いておくよ」


 蓄音機から本場のジャズが流れて来た。太鼓の音がやけに目立ち、そこに弦樂器の野太い低音が絡まる。少し煩いくらいが丁度良い。小降りになったといえども雨音は気分を鬱々とさせる。陽気な音樂は、円卓の滞留する空気を塗り替えるのに打って付けだ。


「あのう、躁の状態は突然、現れるのでしょうか。こう、予兆のようなものがあったりはしないので御座あますか」


 配慮に欠ける女が独り居た。話題を切り替えようと各人が図っていることに全く気付いていない模様だ。忠嗣は先輩として恥ずかしくも感じたが、須磨子の面持ちは真摯で、可哀相な妹君を心底、気遣っているように見えた。


 そこに人としての過ちはない。青山在住の御令嬢もまた左眼にさわりを抱える身で、永患ながわずらいの娘に共感するところがあったのやも知れぬ。


「兆しはありません。強いて挙げれば日和ひよりや月の満ち欠けで、今日は雷が引き金となったようです。以前は雷鳴にふるえ上がったのですが、すっかり逆になってしまいした」


 與重郎は嫌がる素振りも見せず、淡々と話した。今日は不運が重なったという。


 強風で屋敷裏手のひさしが吹き飛び、佐清は驟雨の中、庭に出て修繕を行なっていた。急いだ為、部屋の鍵をきちんと絞めなかったのが最初の手違いだった模様である。


「強く押したのか、鳴動でかけがねが少しずれたのか。部屋の外に躍り出て、見世まで上がって来たんです」


 一部、不明瞭ではあったが、妹君は器用にも奇妙にも、などを使って鍵という鍵を巧みに開けてしまうという。内鍵など無いに等しく、ある時、家人の誰もが寝静まった真夜中、独りでふらふらと外に出て、騒ぎになったと明かす。


 遊里の夜更かしが幸いし、近所で顔見知りの俥夫しゃふに保護されたが、これが閑静な堅気の町であったら、実に危うく、行方知れずになっていたおそれも高い。それを教訓にし、書肆の扉を含めて内鍵とは別に外鍵を追加したのだという。


「毎夜、佐清が外を巡って全ての外鍵を閉めるのです。ただ、万が一にも火事が起きた場合、家人は閉じ込められてしまいます。そこで、扉の叩き壊す為に備えているのが、あの無骨な刃物なんです」


 美少年が差した指の先、黒檀こくたんの扉の脇にまさかりがあった。売り物ではないと話していたが、よもや非常時の脱出に用いるものとは想像も及ばなかった。鉞は重く、小娘の腕力で持ち上げることは叶わない。


「部屋のまども危険です。かつて千鶴は二階の一室に暮らしていましたが、酷い躁状態の時、飛び立つと騒ぎ、実際に飛び降りたこともあったんです。佐清が受け止めなかったら、手脚の骨折では済まなかったかも知れません」


 日当たりの好い二階の角部屋から移さざるを得なかった。一階ではなく、地下。母屋の客間近くに下に伸びる階段が存在し、暗がりの奥に妹君は住まうという。当然、窗はなく、代わりに格子が設けられる。


 忠嗣は身震いを抑えられなかった。與重郎は指籠さしこと表現したが、座敷牢に相違ない。もうひとつの知られざる階段。この富士見花柳街の書肆には尚も秘密があって、俗世間と切り離された孤独な娘が暮らしている……


 明るく軽快なジャズは何時の間にか終わり、替わって哀調を帯びた曲が蓄音機から静かに流れていた。



<注釈>

*青山脳病院=歌人の斎藤茂吉が院長を務めたことで知られる。芥川龍之介も通院し、遺稿『歯車』の中に描写がある。

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