61三話『破瓜病の薄幸な妹君がゴヲレムを倒す』

 乱れた髪は長く伸びて背中を覆い、濡れているのか、一部が岩海苔のように浴衣にへばり付く。娘のげんを待たずとも、兄妹であることは明白だった。


 細面に切れ長の双眸、蛾眉と高い鼻梁。生き写しだ。抱き合って肉薄する二つの貌は、まるで合わせ鏡の如し。


「どうして此処ここに。千鶴ちづる、落ち着いて。怖くないよ。嵐は直に去るから、怖くなんかないよ」


 妹君は千鶴と称するようだ。與重郎は顔面を引き攣らせながらも優しい口調で諭し、小さな肩を掴んで少し引き離す。眼と鼻の先に出現した異様な事態に忠嗣は、ただ驚き、椅子を引いて空間を設けることくらいしか出来なかった。


「怖くなどありません。鳴神様なるかみさまが降臨なされたのです。こちらもつづみを打って歓迎致しましょう」


「はい、そうですね。そう致しましょう。でも、御見世では駄目ですよ。皆さんがいらっしゃいますので、ここでは控えましょうね」


 美少年以外の面々は誰もが仰天した風で、言葉を喪って黙り込み、兄妹の会話と仕草を見戍みまもった。割り込む隙がない。周囲に、間近の円卓に大勢の男女が居るにも拘らず、浴衣の稚子わらしは眼も呉れず、端からそこに存在していないかのようだった。


「それでは御兄様も御一緒に。拍子に合わせて踊って下さいまし」


 直観的に理解すれども、言葉に表すことは憚られた。頭の裡に思い描くことすら無礼に当たる。忠嗣は妹を見て、以前、金曜會で鑑賞した映畫えいが『狂つた一頁』を聯想した。乱れ髪の理性を喪失した女、或いは、長い手脚を振って踊り続ける女。白黒で音声のないキネマの場面が甦り、見事に重なった。

 

 解説は要らない。また、聞くことも忍びない。耿之介ら會の古い面々は知っているのか。書肆の奥、屋敷で妹が暮らすことを知り得ていたのか。そうに違いない。銀髪紳士も少佐も、何処か憐れむような眼差しで妹君をみつめる。


 暫しの沈黙を別の大きなあしおとが破った。どすどすと駆け寄る。それが引き金となったかのように稲妻光り、次いで響動どよめく。鳴神様が顕現したのか。


千鶴女ちづじょ、千鶴女。ああ、ここに居たのか。良かった。ほんの一寸ちょっと、眼を離したばかりに消えてしまって、外に出たのかと」


 佐清すけきよだった。法被はっぴ印半纏しるしばんてんか、前に見た作務衣ではなく、軍手を嵌め、頭には手拭いを巻き付けている。この雷雨の中、おもてにでも居たのだろうか、酷く濡れて足許に水が滴る。


「そうか、佐清は裏で颱風たいふうの備えをしていたんだね。仕方ないさ。謝ったりしないで。それよりも、千鶴をどうにかしなくちゃ」


「御兄様、離しません。佐清は演舞の準備をしましょう」


 振り返った際、初めて忠嗣と視線が交叉した。兄貴と同じ彩りの瞳だったが、虚ろで、感情が乏しいようにも見えた。そして、再びかれに抱き付き、離れようとしない。これが単なる仲好しの兄妹であれば、どれ程、朗らかな光景だろうか。


 佐清は軍手を脱ぎ捨て、妹君の肩に優しく手を添えて引き剥がそうとするも、容易ではない。離れたかと思うと、直ぐに元に戻って密着する。弾機仕掛ばねじかけの絡繰からくりに似て、滑稽でもあったが、笑う者はない。やや俯いて憐れみ、深刻な面構え。


 その中、須磨子だけはほうけて口を半開きにしていた。驚くでも怯むでもなく、陶然と眺めていたのだ。視線は浴衣娘の貌一点に差し向けられる。


「それでは千鶴女、私と一緒に舞いましょう。舞い上がりましょう」


 佐清は兄妹諸共、鷲掴みにして持ち上げた。美少年の臀か太腿当たりに手を廻し、二人を担ぎ上げる。相当な金剛力こんごうりきの持ち主だ。尤も、ひょいと軽々しく抱えたのではなく、両脚を踏ん張り、形相は必死。在らん限りの力を振り絞っている。


「あれまあ、宙に舞っているわ。愉快、愉快。蝶々みたい」


 担ぐ男の強張った表情とは対照的に、妹君はけたけたと嗤い、両手をひらひらと泳がせる。太い腕にくるまれて、兄貴は申し訳なさそうな貌をしていた。


 また紫電が書肆を貫き、雷鳴が轟く。


 外鰐そとわに、摺り足、のろのろと、四股踏む如く、跫強く響かせて、佐清は二人を店の奥に持ち去った。嵐の中の嵐。迅雷の如き騒動は幕を下ろし、円卓の周囲に静けさが戻る。


 烈しい雨音に包まれた居心地の悪い静寂だ。


「可哀相な子やねん」


 ぽつりと櫻子さくらこが呟いた。前にも一度、同様の乱入騒ぎがあったという。新参者には情況が判らぬが、妹君の状態は見て知れる。無声映畫の俳優陣とは違う本物の患者。病いの名を敢えて言葉にする必要もない。


「入院治療をせず、この屋敷に暮らしているのかな」


「通院すら難しい。昨年までは医師が往診に来ていたが、見通しが芳しくなく、今では薬を処方されるだけだ」


 陰々滅々たる面持ちで、耿之介は答えた。更に詳しく尋ねるべきか、忠嗣は戸惑い、そして取り止めた。状態の説明を受けたところで、一助となる智慧もなく、邪な好奇心に過ぎない。


 再び、霹靂へきれき。実に陰鬱な嵐の夜だ。


「通院、往診と仰られますけれど、どういった御病気なのでしょうか。わたくし、とっても気に懸かりますの」


 場の空気を読めない女が独り居た。世間知らずにも程がある。深窓の令嬢という種族は、病人や家族をおもんぱかることも出来ないのか……忠嗣は少々呆れ、珍しく苦言を呈そう身構えたが、それを少佐が阻む。


破瓜病はかびょうだよ。年頃の娘さんが患う気の病いで決して珍しいものではないと聞くが、実際に触れると深刻で、どうにも遣る瀬ない」


「破瓜って、あちらの破瓜ですか。殿方の居られる場所で気軽に使ってはならないように思えますけれども」


 素っ頓狂な、裏返った声で須磨子が叫んだ。狼狽える後輩を笑い飛ばせない。先輩司書もその病名を初めて耳にし、少なからぬ衝撃を受けた。千鶴と呼ばれた妹君は、幼さの残る容姿から十代前半と見受けられるが、既に生娘ではないのか。


 忠嗣は刹那、相手の男について思いを巡らせ、ふと浮かんだ與重郎の影を慌てて祓った。佐清はどうか。いや、彼は去勢されてを喪っている。


「忠嗣はんも須磨子はんも、そない驚かんでも良いんやで。破瓜病っちゅうのは、どこぞの野郎にされて貞操を失くしたとかじゃなく、思春期特有の癲狂てんきょうって意味どす」


「古い病名は誤解を招き易い。精神病理學的には躁鬱という。情操は愚か、気が重く沈み切って凡ゆる感情を失うメランコリイ。一方、酒乱のどんちゃんに似たマニイ。その両極端な状態が交互に現れる。さっきの千鶴女ちづじょは言うまでもなく後者だね」 


 耿之介はあくまでも自分が知る限りの所見で、精神醫學に関して多大な興味があれど素人だと断った。會の面々の中では唯一、健やかだった頃の妹君を知る人物。病いの兆しが生じた頃から與重郎の相談を受け、最善を尽くしたものの、実りなく今日に至る、とほぞむ。


「まあ、何て可哀相なこと。適切な治療も薬もないのでしょうか」

 

 須磨子は衝撃未だ醒めやらずといった口振りで、面相は怯えているようにも、また、亢奮しているようにも見えた。


 蒼白い光が書肆を貫く。やや間を措いて鳴神なるかみつづみ。今しがた起きた混乱を前に、崇高なれど抽象的な議論は力無くくずおれる。女力士もゴヲレムも土俵の外にちゃられたようだ。

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